鳥の舞う島


 船にしがみついているのがやっとで、どこをどう辿ったのかはっきりとは覚えていない。

 頭上で展開されている恐るべき光景をゆっくり眺めている暇もなく、気がつくと、船は穏やかな海域にたどり着いていた。先ほどまでの荒天が嘘のようだ。静かに波の打ち寄せる浜がすぐそこにあり、透き通る海水の底には眩しい白い砂が見えている。巨大な岩の下に広がる緑の島は、近づいてもやはり起伏はほとんどなく、鬱蒼と茂る木々に阻まれて、奥行きは測れない。
 今や、船を引く巨体は水の中にはっきりと姿を見せていた。漆黒のうろこの体に白い帯状の輪、手足は櫂状の大きなヒレになっていて、海水を掻き分けている。丸みを帯びた背中の先に続く短い尾の先も小さなヒレが3つ付いていて、全体的に甲羅のないウミガメのようにも見えた。
 海竜のジャスパーは、水面に顔を上げ、船首にいるルークを振り返った。
 「そのまま、岸につけて」
ルークが言うと、ジャスパーは小さく頷くように頭を下げ、そのまま真っすぐ進んだ。
 極端な遠浅の海だ。水深10メルテもない浅瀬が島を取り巻き、海はエメラルドブルーに輝いている。小魚たちが巨大な海竜の姿に驚いて左右に散っていく。それでもジャスパーは、一筋、深い水路のようになった場所を選んで進んでいく。
 岸まであと数メルテのところで船底が砂浜にこすれ、静かな衝撃が伝わってきた。ここがハーヴィ号の進める限界らしい。
 海竜が長い首をもたげ、小さくひと声。
 「ここで待っててくれ」
ルークは船内に取って返し、撮影機の他、必要なものを手早く詰め込んだリュックを背負い砂浜に飛び降りた。足の下で砂がキュッと鳴る。手に取ると、それはただの砂ではなかった。白い砂の中に、細かな水晶のような透明な小石が混じっている。リュックから瓶を取り出し、そっとサンプルを詰め込んだ。未知な土地から持ち帰るものは慎重に選ばなければならないが、それが何であれ、本部の学者たちには大喜びされる。

 なめらかな弧を描く波打ち際は見渡す限りに広がっているが、浜の奥行きは、それほど広くない。浜をほんの少し歩くとすぐに緑が始まっている。ルークは慎重に浜を横切り、緑の作る影に近づいた。植物は――、それほど詳しいわけではないが、見たところ、ごく普通の南国に生える種類に見える。花を咲かせている低木、下草など。ありふれた光景、何も危険は感じない。そして、聞こえるのは潮騒だけ。視線を上げない限り、そこは平和な南海の楽園だった。
 だが振り仰いでみれば、直ぐそこに、巨大な岩の底がまるで蓋のように視界の半分を覆っているという非日常な風景が在る。

 島は、巨大な岩のほぼ真下にあった。間近に見る浮かぶ岩は、遠くから見た時よりも白っぽく、均等な物質で出来た一枚岩のように見えた。
 風が吹くたび、岩をとりまく雲の形が変化する。岩は纏う白い霧をゆらめかせ、見えている部分を刻一刻と変えていた。
 「…?」
見上げていたルークは、ぱらぱらと降り注いだ何かに驚いて首を振った。手で触れると、首筋のあたりがざらついて、白っぽいキラキラした砂が指についた。砂浜の砂だろうか? 舞い上がるほど強い風ではなかったはずだが…。

 目の前を、すっと白い影が横切った。

 海鳥だ。その鳥は、ルークの頭上を掠めて風に乗り、見る間に紺碧の空へ吸い込まれてゆく。
 鳥たちは島を囲むように舞っているのだった。目立った高台のない平らな島から見上げると、その距離は遠いようでもあり、近いようでもある。海鳥たちは、地上の島と、空中に浮かぶ大岩との間で群れをなし、優雅に舞い続けている。
 見上げていたとき、どこからともなく声がした。
 「あれらが何に見えるかね?」
はっとして、ルークは振り返る。
 鳥に気を取られている間に、男がすぐ近くの木立の中に立っていた。黒々と日焼けし、ざんばらの栗毛の髪に粗末な服をまとっている。引き締まった上半身は裸。――まるで野人のような格好だが、どこかで見覚えがあった。
 記憶を手繰り寄せ、すぐに思い至る。ここに来る前、過去の報告書の中で何度も見た写真の人物だ。おそるおそる、名を呼んでみる。
 「ハロルド・カーネイアス…?」
 「正解だ! 君の前任者だな。ハハハ! まあ、遠いところ良く来た」
そう言って、今はもう五十歳近い年にはなっているはずの男は草を掻き分けて近づいてきた。
 「ようやく、私の道を追ってくる者が現れたってわけだ。二十年も待ったぞ。」
 「ルーク・ハーヴィです。」
差出された手を受けて、握手する。樹皮のように固く、力強い。
 ハロルドは、視線を波打ち際に向けた。
 「あれが、君の船かね?」
 「はい」
 「なるほど、海竜を動力源にしているのか。黒い海竜は気性が荒いと聞くが、よく手なづけたもんだなあー」
興味津々といった風で、男はさくさくと砂浜を横切っていく。ルークも慌てて後ろに続く。ジャスパーは、近づいてくる見知らぬ人間を警戒したように首をすくめ、体を半分、水に沈めた。
 「海竜をご存知なんですか」
 「もちろん、私を誰だと思っている? 北の果てから南の海まで、色々と渡り歩いたもんだ。西の海に青の洞窟と呼ばれる場所がある。そこにしかいない種だ、こいつは」
ルークは舌を巻いた。
 「…ご明察です。」
流石は、二十年経った今も語り継がれている大冒険家、ということか。
 「卵から育てたんです。その、祖母がですが」
 「ほーう」
自分のことが話題だとはわかるらしく、ジャスパーは、暗い褐色の瞳をしばたかせながら警戒するように砂浜の人間たちを見下ろしている。ハロルドは、にやりと笑ってルークの肩をたたいた。
 「いい相棒だ。風に左右されない、燃料切れにもならない…。冒険にはうってつけだ。特にこんな、荒海の奥地の秘境にたどり着くにはな!」
 「それなんですが」
と、ルークは早速切り出す。「外洋はあんなに荒れていたのに、どうしてここは、こんなに穏やかなんです? あなたは二十年ずっと、この島で暮らしていたんですか?」
 「まあ、落ち着いて。ゆっくり話そう。そのために君をここへ案内させたんだからな。大丈夫、彼女に許可は得ている」
 「”彼女”?」
ハロルドは、意味深に目配せしてみせた。
 「この島の女王さ。」
ゆっくりと浜を歩き出す男の後を、ルークは、良くわからないままに追った。ハロルドは、さっき現れた辺りの緑をかき分け、細い獣道を進んでゆく。


 木立の影に入ると、すぐにひんやりとした風が体を包んだ。南の海にありがちな、じっとりとした湿気を含む重たい空気ではない。海の上を流れるままの、からりとした風。行く手には、木々を切り払って作った小さな広場と、その真中に建つ小屋が見えている。
 ルークが訝そうな顔をするのに気づいて、ハロルドは白い歯を見せて笑った。
 「いい家だろう。」
梁はサブマスト、入り口の垂れ幕は帆。酒瓶や樽、それに壁にかけられた湿度計など。
 「幾多の海を駆け抜けし我が探検船エリンジューム号は、こうして生まれ変わったわけだ。ようこそ、我が家へ。」
こぢんまりと、だが生活に必要なものだけはひと通り揃っているように見える。絵に描いたような無人島生活だ。ハロルドは、冒険小説の主人公も出来るに違いない。
 「ずっとここで暮らしてきたんですか。”協会”では、調査探検中に死亡した扱いになっています」
 「無理もない。連絡をとる手段も無かったしな。この島に近づく船が無いわけじゃなかったが、ま、無事に辿りつけたものはいない。海域に迷い込んだ連中は、たいていが海に沈んだ。島から三ケルテ。それが、今いる安全圏の範囲だ。」
言いながら、ハロルドは船から持ちだしたらしい古びた机の引き出しを開け、色あせた地図を広げた。そこには島の形、潮流などが、ペンで細かく書き込まれている。
 「円…?」
驚いたことに、そこに描かれている島の姿は、ほぼ円になっていた。それも、中心に内海を持つ、二重の円になっている。
 「そうだ。頭上に浮かぶあの大岩、”霧の巣”をほぼ取り巻くようにして、今いるこの外側の島は広がってる。その理由は、いずれ分かる―― で、この島の縁から三ケルテは、気候が安定している。一年じゅうこんな調子で、風も波も穏やか。それより外側の海は、渡ってきたから分かるだろうが…」
ころころと天候を変える、通常の船では無事に通り抜けることも難しい海。
 「それだけじゃないぞ。君はあの海竜で無意識に避けてきたんだろうが、隠れている岩礁も結構ある。通常の方法では近づくことも出来ない。空でも飛べない限りはな」
 「空――…」
そうだ。最初に出会った、あの少女。
 だがルークが問うより早く、ハロルドはにやりとしてこう言った。
 「まあ、今はすべて説明するのはやめておこう。あとは、うちの娘に聞けばいい。この外側の島は自由に歩き回って大丈夫だが、今言ったように沖合の海は危険だ。案内なしに出るのは止めておいたほうがいいぞ。」
 「娘?」
 「さっき会っただろう」
ぽかんとしているルークを見て、ハロルドは照れくさそうに笑った。「まあ… そういうことだ。」
 最初に出会った時に気づくべきだった。思いつきもしなかったのだが。

 髪の色も、瞳の色も。あの少女は、確かにハロルドによく似ていた。


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