さ大樹の谷


 ざわり、と湿気を含んだ重たい風が吹く。
 夜が更けてゆく中、微睡みに落ちていたルークは、ミズハに揺り起こされて目を覚ました。
 「そろそろ、行くよ」
ルークは、眠気を振り払いながら起き上がる。
 「…もう、そんな時間か。」
時計を見ると、針は確かに起こしてくれと頼んだ時間になっていた。ミズハはもうすっかり支度を整え済みだ。
 わざわざ今日を選んだのは、カーリー曰く、「今夜絶対くる」だそうだからだ。月のない夜は、アストラル体にとって絶好の活動日より、最も力の強まる日なのだという。「幽霊日和」というわけだ。
 彼女の理屈によれば、そのアストラル体は実体がない状態では長時間活動することができない。もし今夜、”逆さ大樹”にやってくるとして、本体に戻るところを追うことが出来れば、犯人が確保できるはずだというのだ。
 カーリーは既に家の外で待ち受けていた。
 「獣人たちほど目は良くないけどねー、文明の利器があれば何とかなるわ」
カーリーは、遠望鏡を手に、ニッと笑う。傍らには、リュックがひとつ。防寒具や食料などが詰まっている。
 「でも、村の出口は今…」
ルークは、夕方ごろには村の出入口のあたりにも見張りが立っているのを見ていた。村を守るためであるとともに、興味本位の客人たちを見張るためでもあるはずだ。
 「ふっふっふ、わたしを誰だと思ってるの」
 「…えっ」
 「村に住み着いてはや十年、抜け道の一つや二つや三つや四つ、知らないわけがないでしょう!」
リュックを背負ったカーリーは、ぐっと力強く親指を立てて見せ、裏口から外へ抜けだした。温泉のほうへ通じる方向だ。月のない夜、悪いことに薄雲がかかりはじめ、星々もいつもの輝きを失っている。
 「暗いから足元気をつけて。お湯に落ちたら熱いわよー」
柵で囲まれていない泉から吹き上げる湯気が、じっとりと体に絡みつく。茂みを乗り越え、崖の斜面に到着すると、カーリーはそのまま斜面に沿って歩き始めた。この辺りは村人たちもあまり来ない場所なのだろう、細いけもの道には雑草がはびこり、壊れたつぼが打ち捨てられている。

 どこをどう歩いているのか全く分からなかったが、小一時間も歩いただろうか、やがて行く手に見覚えのある逆さ大樹のてっぺんが見えてきた。木は、松明の灯りに照らされて夜の中で赤く輝いて見える。ずいぶん遠回りしたのに違いないが、展望台とは逆方向の高台の上という絶好の場所に出た。入り口に近い方向から谷全体が見渡せている。
 「ここからなら、敵が来る時も、逃げる時も補足可能よ」
カーリーは荷物を下ろし、懐中時計を取り出した。
 「深夜ね。来るとしたらそろそろよ。」
ミズハは、崖の縁で空を見上げている。
 「ミズハ、大丈夫そうか」
 「うん、コツは分かったし、今日の風は飛びやすそう」
その風が、わずかに気配を変えた。ミズハとルークは同時に気づく。昨夜と違って、今度はルークにもはっきりと分かった。声のようなもの、波長の合わない通信機が立てる途切れ途切れの通信のような、不快なもの。それは耳ではなく、頭の奥に直接、雑音のように響いてくる。
 谷の入口の方からだ。
 「来る」
 「うえ? どこ、どこよ」
カーリーは慌てて遠望鏡を目に当てる。谷底で揺れる灯りは動かない。獣人たちは、まだ気づいていないのだ。
 だがそれも、ほんの数分ことだ。
 「来たぞーッ」
一際大きな声が闇夜を切り裂いて、火が一斉に動いた。人がいっせいに走りだす足音。早くも、戦いの音が谷間に響き渡る。
 「ミズハちゃん、待って」
飛び立とうとする少女を、カーリーが呼び止める。
 「まず彼らに戦わせてやってほしいの。今日は彼らも通じる武器を持ってるはずよ。それで撃退できるなら手を出さないで」
 「どうして?」
女学者は、苦笑する。
 「言ったでしょ。プライド高いのよねぇー、彼らは。これは元々、彼ら自身の戦い。よそ者のわたしたちが手を出し過ぎるのは良くないわ」
 「分かった」
ミズハは、頷いて翼を収める。
 カーリーは、遠望鏡を目に当てる。黒い影は一つ。人の数倍の大きさで、ぐにゃぐにゃした形のくせに動きは素早いが、普通の人間よりはるかに高い身体能力を誇る獣人たちの前ではかわし切るほどの反応は出せていない。急ごしらえの槍や斧の攻撃を受け、影は進むことも退くことも出来ず成すすべなく一方的に傷つけられている。
 「押してるわね。撃退できるかもしれない」
切られても血が出るわけではなく、殴られても、その部分が少し薄れるだけでダメージのほどは見えないが、影は次第に小さくなりつつある。
 「もし、倒してしまったら?」
と、ルーク。
 「あれが人間のアストラル体だとしたら、だけど… 人間の場合、アストラル体と肉体は表裏一体で生命を成しているから、本体の肉体が死ぬかもねえ」
 「……。」
 「もしかしたら、よ。わたしの理論はまだ未完成。実証は出来ていないのよー。何が起きるかなんて……えっ」
カーリーの表情が変わった。遠望鏡を握る手に力がこもる。
 「どうかしたんですか?」
 「何、あれ…」
目を凝らした丁度その時、谷を照らしていた灯りが、一斉にかき消されるのが見えた。耳にもはっきりと聞こえる咆哮に似た甲高い音。ゆっくりと、黒い巨体が…立ち上がる。
 「巨大化した?!」
 「なんてこと…」
カーリーは舌打ちして遠望鏡を目から離す。「想定外」
再び、咆哮。影は両手を振り上げ、そのまま振り下ろした。衝撃派とともに岩が砕け散り、もうもうと砂埃が上がる。ミズハは空中に飛び出した。
 「ミズハ!」
ルークは、崖のへりを”逆さ大樹”のほうへ向かって走りだした。影は人に近いような、崩れかけた姿を晒しながらゆっくりと谷を突き進んでいる。進行を防ごうとしている中に、ナユタの姿も見えた。必死で何か叫んでいる。
 影はうざったそうに石を掴み、攻撃を続ける獣人たちの頭上に投げつける。
 「逃げろ!」
悲鳴が谷間にこだまし、獣人たちは懸命に散らばって逃げる。影はさらに腕を振り上げたが、間一髪、その腕にミズハの鳥たちが飛びかかった。咆哮とともに影は一歩、あとすさった。腕の部分がちぎれて空中に消える。闇空の下、白い翼を広げて舞う少女は、正体を知るルークですら、まるでその名の由来となった谷の守護者そのもののようだと思った。
 「凄いわね、あの鳥」
カーリーは望遠鏡を目から離し、感嘆の声を上げた。
 「見たところ、あの鳥は翼の一部みたいなものね。アストラル体を分離して、あんな使い方も出来るなんて!」
 「でも、やっぱり動きが鈍い」
ルークも、視線でミズハの動きを追っている。
 「海風の吹く場所じゃないと…、駄目なんだ」
故郷の島で見せていた姿と比べると、今の旋回はあまりに不器用で、速度も遅い。海鳥の翼は、内陸の風に戸惑っている。
 片腕を落とされても、巨大な影には、うろたえる様子は見られなかった。痛みを感じている様子はなく、感情のようなものの欠片も見受けられない。これらが人間から抜けだしたものだとは、ルークには到底信じられなかった。
 僅かに身動ぎすると、大きな影は無事な方の腕で展望台のあったあたりの崖を掴み石を引き剥がす。崖が崩れ、道を塞いだ。もうもうと立ち上がる砂埃の中を、白っぽい影が切り裂いていく。旋回するミズハは、更に鳥たちを生み出し、影を何とかして大樹から遠ざけようと試みている。
 「おかしい。アストラル体なのに、物質に干渉しているわ。これも想定外だわ。うーん…まさかとは思うけど、既に”コア”を取り込んだ後なのかしら…」
カーリーは何かを思考し続けている。
 村の方から声が戻ってくる。消えていた松明が再び灯りはじめた。村に知らせが走り、援軍が来たのだろう。途切れていた攻撃が再会され、次々と矢が放たれる。影はゆらぎ、鳥たちを払いのけながら、咆哮を上げ、ミズハに狙いを定めた。岩の上から、こびりついたままだった土と樹とが、一緒くたになって滑り落ちていく。
 狙いの先に気づいて、ミズハは動きを止めた。
 ルークも、そしてカーリーも同時に気づく。
 「まずい…」
たった今、到着したばかりの獣人たちは、まだ状況が分かっていない。突如目の前に現れた巨大な影に驚き戸惑う彼らの頭上めがけて、巨大な岩が投げ落とされる。
 「逃げて!」
カーリーが悲鳴に似た叫び声を上げる。だが彼らは、自分たちの立っている場所を心配すべきだった。

 突如、地面が揺れた。

 二人は、地面に倒れこみ、しがみついた。何が起きたのかを理解したのは数秒後。そこは、空中の只中だった。
 影が向きを変え、展望台と反対側の崖を掴んで引き剥がしたのだ。そしてそこは丁度、ルークたちの立っている場所だった。
 眼下には、さっき岩の落とされた場所に砂埃が立っているのが見えた。放り出された松明が虚しく消えかけた火をゆらめかせ、辺りには声もなく。ルークは思わず目を閉じる。この高さから地面に叩きつけられたら、ひとたまりもない。


 予測した衝撃は、こなかった。
 恐る恐る目を開けた時、ルークが見たのは、舞い散る砂埃の中で地面に倒れているカーリーと獣人たち、それにミズハの姿だった。 
 「…生きてる?」
頭上を見上げた彼は、自分の目を疑った。さっき投げ落とされた岩は二つとも、すぐ頭上にぴたりと浮かんでいる。まるで、”霧の巣”の光景だ。真下には、ミズハが倒れている。
 「ミズハ!」
駆け寄って、少女の上に落ちている小石を払って抱き起こす。「おい、しっかりしろ」
 「…う、ん」
完全に意識を失って、翼も消えている。だとしたら、これは彼女の意図した現象ではない。
 いや。
 ヴィレノーザで壁から落ちた時のことを、ルークは思い出していた。あの時も、ミズハの周囲には石が浮かんでいた。これもミズハの力、ただし本人に意識がなくても発動する力なのだ。もしかしたら、”霧の巣”の大岩を浮かべている力と同じものなのかもしれない。
 「…う、うん」
カーリーが、よろよろと起き上がる。
 「生きてる、の?」
 「みたいです。でも…」
ルークは近づいてくる影を見上げた。岩の下でまだ生きている者がいるとは思っていないのか、こちらには見向きもしない。
 見守るしか無かった。影はゆっくりと大樹に近づくと、既に半透明になり、消えかかった片方の腕で、幹の真ん中を思い切り殴った。メリメリと幹の裂ける音がして、木の上部が引き裂かれた。岩のようになった樹皮が周囲に剥がれ落ち、隠されていた生きた白い表面をさらけ出す。
 影は、その中から何かを掴み出した。
 そして、ゆっくりとそれを飲み込み、するすると小さくなると、元来た道を引き返そうとしている。
 「逃げるわ!」
カーリーは、よろめきながら走りだす。「追わなきゃ」
 ミズハは、意識を取り戻し頭を振るう。
 「いけるか?」
 「うん」
立ち上がりかけて、あ、と彼女は小さく呟く。浮かんでいる岩を叩き、「…これ、どうしよう」
 「どうしよう、って。退けられないのか」
 「ちょっと待って…」
しばらく悩むそぶりを見せたあと、ふるふると首を振る。
 「だめ。重くて持ち上がらない。降ろすから、下にいる人たち、退いて!」
獣人たちは顔を見合わせ、言われた通り、動ける者が動けない者を抱えて岩の下から退去する。全員が避難したのを見計らって、ミズハはすうっと息を吸い込んだ。
 「いくよー…」
岩がそろそろと地面に降りて行き、音もなく、静かに着地する。岩といってもほとんど岩盤のようなもので、かなりの大きさのあるものだが。
 「これで、よしっ。追いかけよう!」
 「あ、ああ」
この力について考えるのは後回しにして、影を追っていったカーリーのほうだ。既にその姿は見えなくなっている。
 「今から追いかけて、追いつけるかな」
 「空から行こう」
と、ミズハは翼を広げる。「ルー君、捕まって」
 「え」
 「いいから、早く!」
捕まる、というよりミズハに腕を捕まれ、次の瞬間には足が地面を離れている。 
 「うわ、ちょっ…うわ、あ!」
あれよという間に地面は遥か下、体が空を切る。空をとぶのは人生初の体験だ。だが、恐れよりも不思議と、楽しさが上回った。

 ――闇夜に包まれた広い世界、遥か彼方には弧を描く地平線が見えている…。

 上空からは谷の全貌が見渡せた。逃げてゆく影と、そこから少し距離を置いて転びそうになりながら必死に追いかけるカーリー。影の行く先は、谷の入口、最初にルークたちも通ってきた、兵士たちの警備していた門のほうだ。
 「先回りしよう、ミズハ」
 「うん」
少女は向きを変え、門の方へと急降下していく。


 影は、既に消えかけていた。
 半透明になり、最初の頃より小さく、動きも緩慢になっている。獣人たちとの戦いで、相当にダメージを受けているのは間違いない。よろめきながら谷の出口へさしかかり、もうまもなく、門にたどり着く…というところで、影の前に人影が立ちはだかった。人間の男女――いや、片方には、人間では有り得ないものが背中に生えている。
 少女の周囲に白い鳥たちが四、五羽浮かび上がる。それが自らに致命傷を与えるものであることを知っているのか、影は、一歩あとすさった。
 「返しなさい」
ミズハは、きっと影を睨みつける。
 「この谷から盗っていったもの。返しなさい!」
いやいやをするように首をふり、影は、胸元に抱いた何かを隠そうとする。逃げ道は、すでに鳥たちに塞がれている。四方の空中から、影が少しでもおかしな動きを見せるなら、容赦なく襲いかかろうと身構えている。
 だが、もし倒してしまったら?
 ルークは、カーリーとの会話を思い出していた。

 ”アストラル体と肉体は表裏一体で生命を成しているから、本体の肉体が死ぬかもね…”

 「ミズハ、ちょっとだけ待っ…」
言いかけた時、乾いた音が響き渡った。
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。痛みすら感じる暇もなく、ルークはそのままの形で、その場に崩れ落ちる。
 「ルー君!」
ミズハが駆け寄る。その隙をついて、影が動いた。さらに乾いた音が何発か響き、鳥たちが打ち消されてゆく。銃声だ。ミズハは咄嗟にルークを抱えて岩陰まで飛んだ。足元の地面が抉られ、岩に当たった弾が甲高い摩擦音を響かせる。
 ルークは、胸を押さえていた。
 「ルー君、やられたの?!」
 「だ、…いじょうぶ」
息が苦しいが、意識ははっきりしている。何処を撃たれたのかはあまり考えたくない問題だ。
 「ルーク君! ミズハちゃ…」
追いついて来たらしいカーリーの声。再び銃声がする。
 「来ちゃ駄目!」
叫んで、ミズハはそっと岩から覗いた。黒っぽい人影が蠢き、逃げようとしているのが微かに見えた。二人いる。一人が、たぶん影の本体で…もう一人が、いま銃を撃った方。
 ばたん、とドアの閉まるような音とともに、車のエンジン音がした。
 「逃げるわ!」
カーリーが飛び出す。走り去っていく車は、門の外。外から閂がかけられ、閉ざされた門を両の拳で叩き、彼女は汚い言葉で一頻り罵ったあと怒鳴った。
 「なんてこと! あいつらが犯人だったの!」
 「あいつらって」
 「ここにいた警備兵よ!」
カーリーの指さしているのは、門の側にあった駐屯所だ。確かにそこには、二人の兵士がいた。片方は雑誌を読んでいて見向きもせず、もう片方はガムを噛みながら銃の手入れをしていた…。
 そう、銃を持っていた。そして、誰にも疑われることなく、ずっとこの谷の入り口に居ることが出来た。
 「もっと早く、気づいていれば…」
息を押し殺すように呟き、それから彼女は、はっとして顔を上げる。「っそうだ、ルーク君は? 撃たれたの?」
 「大丈夫…です」
ルークは、胸を抑えながら立ち上がる。シャツには派手に血が滲んでいるが、痛みはそれほどでもない。
 「見せて」
カーリーは、強引にシャツをめくりあげ、傷口を確かめる。
 「…弾は貫通しているわね。服が破れてるわりに、傷口は大きくない…」
ほっとした表情になる。
 「よかった、あいつらのヘッポコな腕に感謝しなきゃね。もう、こっちの心臓が止まるかと思ったわよー。」
と、いっときは緩んだ表情だったが、またすぐに険しくなる。
 「とにかく、犯人は分かったわ。これからどうするか考えなきゃ。」
 「……そうですね」
”逆さ大樹”は破壊され、カーリーの言う”コア”は奪われた。そして犯人は、谷の警備のために送り込まれた兵士たち。
 犯人が分かっても、事件は解決していない。そして、結果から言えば、犯人たちには目的を完遂されてしまった。

 完敗だった。
 


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