さ大樹の谷


 目を覚ましたのは、いつもより早く床に付き過ぎたせいだろうか。ほとんど明かりのない暗がりの中、ルークは手探りで寝具の上に起き上がった。
 カーリーの使っている小屋の寝室を区切って、泊めてもらうことにしたのだった。部屋の真ん中を仕切るように吊るした織物の向こうからは、微かな布ずれの音以外、何も聞こえない。ミズハもカーリーも、ぐっすり眠っているようだ。台所とダイニング以外は、居間を兼ねた寝室しかない小さな家だ。扉を開ければ、そこはすぐ土間になっている。
 足音を忍ばせて外へ出た。人工的な明かりを灯さない獣人の村は、町より暗く、家畜の寝ぼけた声や虫の声のほかは、しんと静まり返っている。風もない。星の感じからして、夜半を過ぎた頃だろうか。夜明けまではまだ、遥かに遠い。
 ルークは、裸足で窓辺に近づいた。こんな時間に目を覚ますことなど滅多になかった。驚くほど目が冴えて、眠気は欠片もない。時が止まったような夜。
 「…?」
かすかな違和感があった。
 そっと上着をはおり、眠っている二人を起こさないよう外に出る。星明りの照らしだす白い道は、村の外に通じている。村の外というと、ここに来る時に通ってきた、逆さ大樹から続く道のことだ。
 道まで出ると、村の外の暗闇に向かって目を凝らす。
 音、――そう音だ。
 ほんの微かな音。そして囁くような人の声。
 「ルー君」
振り返ると、髪の毛を垂らしたままのミズハが、目をこすりながら立っていた。
 「ミズハにも聞こえた?」
 「…聞こえた、って何が?」
聞こえていないのか。気のせいならいい。
 だがルークは、何か確信にも似た胸騒ぎを覚えた。
 「気になることがあるんだ。一緒に来て」
夜着のまま、ミズハの返事も待たず音の聞こえた方へ走り出す。村から外へ通じる、星明かりだけが照らす静かな道。自分の呼吸と、自分と後ろをついてくる足音以外は聞こえない。木々の作る複雑な模様の影はぴくりともせず、時が止まっているかのようだ。
 道は途中で別れ、ルークが選んだほうの道は小川を越えて続いていた。昼間辿った、逆さ大樹から続く道とは別の方向だ。村からはだいぶ離れたはずだ。
 ここまでくると、はっきり分かる。金属音、激しい人の声。闇の中で何かが戦っている。ほどなくして、闇の中で蹲る人影を見つけた。
 「…ナユタ?」
はっとして、人影が振り返る。闇の中、瞳は興奮したように闇の中で黄色っぽく輝いていたが、間違いない、ナユタだ。背を丸めたもう一人を脇から抱えあげようとしている。
 「お前たち、どうしてここに」
 「怪我してる!」
小さく声を上げ、ミズハがナユタのほうに駆け寄る。目を凝らすと、辺りには点々と血らしき染みあとが続き、壊れた武器が放り投げられている。間違いない。戦っているのは、彼らだ。
 「この血は俺じゃない。心配するな」
ナユタは、気を失っている怪我した仲間の傷口をきつく縛り、止血だけして立ち上がった。
 「…帰れ。家から出るな、絶対に。」
ただならぬ口調だった。
 「敵が現れた。聖域荒らしの犯人だ。怪我する前に帰れ」
言い残して、ナユタは獣の俊敏さで道の奥へと仲間たちを追って駆け去ってゆく。応急手当された男は、道の脇に寝かされてぐったりしている。
 ミズハは、何もいわずいきなり翼を広げた。
 「ミズハ?!」
 「手伝わなきゃ。あたしだって、戦――」
飛び上がろうとした彼女は、ふらっとバランスを崩した。「…あれ」翼をばさばさとはためかせ、首をかしげる。ここも海から遠い。海と同じようには飛べないはずだ。
 だが、彼女は飛べない理由に自分で気がついたようだった。
 「そっか。風がないから――風、起こせばいいんだ!」
翼が白っぽい輝きに包まれてゆく。彼女の周りには、海にいた時と同じように風が沸き起こっていた。
 「これで、飛べる!」
言うなり、少女はぱっと夜の中に飛び出してゆく。 
 「おい! ミズハ――」
ルークは、慌てて後を追う。月明かりに輝く翼、道に沿って飛んでいるから見失うことはないが、空をとぶ鳥に走って追いつけるはずもなく、距離はどんどん引き離されている。
 走りながら、ルークは闇の中に耳を澄ませた。声や音は次第に近づいてくる。道の途中には、点々と戦いの跡が残されており、傷ついて戦線から脱落した獣人も何人か見かけた。宴の時には見かけなかった、村の男たちだ。村人たちが宴で不安を紛らわせている影で、中座した長老は、この戦いのために準備していたに違いない。ナユタもそれを知っていて、客人たちに悟られまいとしていたのだろうか。
 「そっちだ! 灯りを!」
声が、はっきりと聞こえてきた。松明の火が踊り、影が揺らめいている―― そこは、広場のようになっている谷間だった。丘のようになった場所に磨かれた青い石が一つ置かれ、逆さ大樹と同じように太い縄が周囲に張り巡らされている。
 これが聖石だ、とルークは思った。
 周囲の谷の石とは、確かに何かが違う。
 その石へと続く階段を守る武器を持った男たちの列の前で、何か黒っぽい異質なものが踊っていた。影揺れる炎に影はなく、まるで、それ自体が影のよう。

 「ぐぁっ」
声を上げ、一人の獣人が地面に叩きつけられる。手から槍が転げ落ちた。
 影のような敵の前には、もうナユタしか残っていない。松明を手に周囲を遠巻きにしている男たちは、一方的な攻撃の前に恐れをなし、じりじりと後退しつつあった。
 「…くそっ、化け物め」
ナユタは、口の端に滲む血を拭い、磨いた剣を構え直した。影がゆらぎ、攻撃から身を逸らそうとするように動く。照らしだす炎がつくる、ナユタの影だけが踊る。相対する黒いものは、じわじわと這い寄ってゆこうとしている。
 「悪霊など…信じるものか!」
噛み締めるように叫ぶや、ナユタが跳躍した。掲げられた武器が輝く。黒い影が形を崩し、攻撃をかわそうとしてぬるりと滑る。その時、影の頭上で白い輝きが生まれた。
 「いっけええー!」
ルークは、頭上に白い翼を見た。ミズハの創りだした鳥たちが地面めがけて突っ込んでくる。獣人たちが慌てふためき、炎の輪が崩れた。ナユタの剣は虚空を切ったが、上空からの不意打ちは黒い影の真ん中を、見事に貫く。 
 「命中!」
地面近くまで急降下してきた少女に、ルークが駆け寄る。
 「ミズハ」
 「手応えはあったよ。大丈夫、仕留め…」
言いかけたミズハは、地面に倒れたはずの黒い影が、まだズルズルと動こうとしているのに気づいて、ぽかんとした。 
 「…え、嘘」
 「とどめを!」
誰かが叫ぶ。ナユタは向きを変え、鈍っている影に向かって突進した。だが、一瞬だけ遅い。
 疾風のように素早く、それは僅かな人と人の合間の隙を突いて、丘の上に向かって突進した。 
 「だめ!」
ミズハの周囲に再び鳥たちが姿をあらわすが、僅かに遅い。
 「止めろおおーー!」
ナユタの叫びも、階段を守っていた獣人たちの動きも、間に合わない。影は、目標の青い石の上に立ち上がり、雄叫びを上げながら、渾身の力を込めて両腕を振り下ろした。
 鈴のなるような透明な音を響かせて、聖石が砕け散る。
 その瞬間、谷の空気が変わったことに、ルークも気がついた。何が、とはいえない。何かが… 谷を覆っていた、何か薄い膜のようなものが、消え失せてしまった感じ。
 声を上げ、獣人たちがその場に崩れ落ちる。ナユタは、呆然とした顔で振り返った。
 「…お前たち」
 「ごめんなさい」
ミズハは、鳥を肩に止まらせたまま、しょんぼりしている。
 「海にいる時みたいに出来なくて。ここだと、あんまり威力出ないみたい…」
 「そんなことはいい。何故、来たんだ。危ないだろう」
咎めるような口調とともに、安堵の色も浮かんでいる。「怪我はないようだな」
 「うん、でも、」
ナユタ自身は、あちこち切り傷や擦り傷だらけだ。
 「大した怪我じゃない。さあ、本当にもうもう村へ帰るんだ。あとは、我らが処理すべき問題だ」
影は石を打ち砕いた直後に溶けるように消えてしまった。もう、近くに気配はない。打ち沈んだ空気の中、人々は嘆きの声を上げ、割れた石を前に途方に暮れている。

 確かに、今ここで成せることは、もう何も無いようだった。


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