さ大樹の谷


 宴のあと、カーリーは調査目的で滞在するために借りているという小屋にルークとミズハを案内した。狭いが、台所から物置小屋までひと通り揃っている。彼女はずっとここに住んでいて、町へはほとんど戻らないという。
 「というわけで」
カーリーは、高らかに宣言した。「これから温泉を体験していただきます!」
 「…温泉?」
 「そうよ。この地方名物、あったかい水が湧く泉のことなのです! 浸かると健康になったりお肌すべすべになったりするのよ。さぁー行くわよっ」
仁王立ちの彼女は、凛々しく湯気のたつ区画を指さした。
 「ナユタ君はルーク君を案内すること。いいわね?」
 「え、ルー君とは別なの?」
 「そりゃーもちろーん。この谷に混浴風呂はないのよぉ。殿方は別クチよ別クチ」
言いながら、カーリーはにこにこ顔でミズハの手を取る。このテンションは、少し酔っ払っているのかもしれなかった。賑やかな女性陣は、連れ立って茂みの向こうへと消えてゆく。
 ふと気がつくと、隣には仏頂面の獣人の青年だけが残されていた。
 「言っておくが」
ルークが口を開くより早く、ナユタは腕を組みながらぶっきらぼうに言った。「俺は見知らぬ奴と風呂に入るほど暇ではない」
 「…別にいいですけど」
 「あと、獣人の寿命は人より長い。こう見えて、俺はあんたより年上だからな」
同年代と無意識に思っていたルークは、少ながらず驚いた。見た目は同い年くらいなのだが。
 「最高で何年くらい生きるものなんですか?」
 「長老は、今年ニ百歳になられるそうだ。」
 「へえ、すごいな…。」
言ってから、ふと気づく。「…ってことは、神魔戦争の時代を知ってるってことか」
 青年は、じろりとルークを睨んだ。だが、核心をついたことは間違いない。
 そうか。
 だからカーリーは、この谷で昔のことを調べているのだ。
 彼女がここに住み着いている理由に合点がいった。神魔戦争を実際に体験した者がまだここには生きているから。だが彼らも、知っていることは限定的な情報でしかないだろう。散らばったパズルのピースを根気強く拾い集め、繋ぎ合わせることで、ようやく、過去の一部が再生される。

 「瑞羽日女さまのお姿を直に見た、最後の世代だ」

沈黙の続いたあと、青年は硬い口を少しだけ開いた。
 「カーリーは何があったのかを知りたがるが、瑞羽様に何があったのか、知りたいのは我らのほうだ。」
 「ずっと気になっていたんだけど、あなたは、どうしてカーリーの助手を?」
 「…長老の意向だ。ハロルドが谷に来て以来、我々は異種の人間とも協力する必要があることを知った。人間すべてを信用するわけではないが、もはや関わりあいを完全に避けては過ごせそうもないからな」
 「人間が嫌いなのか?」
ナユタは、静かに首を振った。
 「そういうわけではない。だが、我らはお前たちの好む文明や機械は好きではない。それらは必要のないものだ。」
確かに、この村には―― この素朴な獣人たち里には、外の世界の列車や車、電灯などといった文明の利器は見当たらない。
 「我らにとっては、この谷が全て。ここは我らの故郷であるとともに、神聖な場所なのだ。外界との接触は、最低限でいい。それで今まで平和に過ごせてきた。いままでは…」
その表情には、谷の守り手を失った不安と、百年以上に渡る拠り所の不在が生み出した苦しみが、微かに滲みだしていた。
 「…とにかく、この件は、俺たちの問題だ。じきに日が暮れる。夜は外に出るな」
 日は傾き、谷が作る長い影が村に落ち始めている。巣へと急ぐ鳥たちの声が山々に響き渡り、涼しい風が木々の間に眠りを運んできつつあった。


 「うっひょー、久しぶり! いいお湯だわああ」
豪快に湯船に飛び込んだカーリーは、長い髪の毛を頭の上に束ねてゴキゲンだ。熱いお湯が初めてのミズハは、おそるおそる足をつけている。周囲は植物を編んで造ったゴザに囲まれ、源泉から引かれたお湯は絶え間なく岩を組み合わせた湯船に流れ込んでいる。このあたりには、こうした個室のようになっている湯船がいくつもあるらしく、周囲のあちこちから湯気が上がっていた。
 独特の熱気と、何か鉱物の溶け込んだ匂い。温泉というものに馴染みのないミズハは、「熱い水が湧いてくる泉」に大喜びで飛び込むカーリーを訝しげに眺めている。
 「どーお、気持ちいいでしょぉ」
 「…熱い」
 「慣れれば大丈夫! ほらほらっ」
半ば無理やり湯船に押し込まれ。ようやく体全体を浸けたミズハは、その熱さに驚き、また目の前に浮かんでいるものにも驚いた。それは、カーリーの胸元のあたりに二つ、並んでる。
 「…胸が浮かんでる?」
 「あははー、そうなの。わたし無駄にでっかくってさー」
 「……。」
 「だぁいじょうぶ、ミズハちゃんもそのうち大きくなるし! 多分」
 「……うん」
少女は、どう言っていいのか分からない表情で白く濁った湯に顔半分まで沈んだ。
 「あはは、可愛いなあもう。ハロルド君そっくりなのに、こんなに可愛い!」
飛びついて、ぐいぐい抱きしめる。ミズハは、押し付けられる柔らかいものの感触に目をぱちぱちさせている。
 「ねーミズハちゃん、島にいるときはお風呂ってどうしてたの」
 「いつも海で泳いでた」
 「あー、そうなんだ! そっかー、そうだよね。いいな南の島かー。海キレイだろうなー」
カーリーはテンションが上がりっぱなしだ。
 「ねえ」
と、彼女は悪戯っぽい表情で少女を覗きこむ。「ここで羽根出してみてよ。出せる?」 
 「えっと…うん」
微かな輝きとともに、翼が湯船の上に現れる。
 「やっぱり。思ったとおり、お湯が揺れないわね。」
手を伸ばし、少女の背中と羽根の付け根をぺたぺたと触ってみる。
 「感触がない。羽根は物質じゃないわね、アストラル体だわ。これだけ完全なのは、初めて」
 「え、アストラ…?」
 「霊体、とも言いかえられるわね。すべての生き物は、肉体と霊体を持っているの。普通は分かちがたく結びついていて、こんなふうに霊体だけ形を変えて自在に操ることは出来ない。肉体を失った場合でも、霊体は肉体と同じ姿で現れることが殆ど…。幽霊なんかはそうね。」
 「幽霊?」
 「幽霊とよく似たエネルギー構造、ってこと。呼び名はどうでもいいわ。キミ、もしかして2つの姿を持ってたりしない? たぶん人とは違う姿」
少女は、翼をしまいながら小さく頷く。
 「あの子、いっしょにいた男の子は知ってるの?」
 「うん」
 「そっかー」
体を離し、泳ぐような動作で乳白色の水の中を反対側の縁まで遠ざかる。眼帯で隠されていないほうの目が、ふいに少しだけ遠くを見た気がした。
 「キミたちは、友達? けっこう長いの?」
 「まだちょっとだけだよ。ルー君は島に来たの、お父さんの研究記録を外の世界に運ぶために。」
 「へええ」
 「…でもね。それだけじゃない」
ミズハは、片手で額に垂れてきた髪をかきあげる。「上手く言えないけど、ルー君は、誰か一緒にいてあげないとだめな感じだから…」
 「やだ、何それ。愛? 愛なの? もう! お姉さんちょっと照れちゃったゾ!」
 「……。」
ミズハは、困ったように微笑んで、お湯の中に頭までどぷんと浸かった。
 「…あなたもそうだけど、あの子も、なんだか不思議な感じがするわ」
そう言ってカーリーは、閉じたままの片目に指をやる。「確かにそうね、安定性のない不連続なアストラル体…。」
 湯気が、夕闇の近づく空に雲のように広がり、やがて静かに消えてゆく。


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