さ大樹の谷


 谷の奥は、展望台から見えていた逆さ大樹の根本に通じていた。
 木の根元には、太い縄でつながれた二本の柱のような青い石が立っていて、落ち葉ひとつない砂利の敷き詰められた道が一本、まっすぐに延びている。
 「実は、わたしもここに入るのって初めてなのよねえ…」
カーリーの口調は、何故か少し面白そうだ。
 上から見た時と、谷の雰囲気は全く違っていた。思っていたより谷は深かったのに違いない。空が遠く感じられ、周囲の切り立った崖に閉じ込められているような感覚があった。太陽はほぼ真上にあり、大樹の影が周囲に落ちている。岩のような無骨な姿に見えていた幹を近くで見ると、半分結晶化した樹皮に覆われ、枝は優雅な曲線を描いて根本を完全に覆い隠していた。
 ミズハは、その樹の根元に立って幹に手を当てていた。
 「おい、そこ入っちゃだめみたいだぞ」
木の周りに張り巡らされた綱を越えるのに気が引けて、その外側からルークは呼んだ。
 「見つからないうちに、こっちへ来い」
 「ちょっと待って」
振り返って、少女は首を振る。
 「この中に、何かいるよ?」
 「何か、って…。」
 「瑞羽日女、じゃない?」
隣の女学者が呟く。ルークは、カーリーを見上げた。
 「言ったでしょう、あの木は瑞羽日女が宿る木だって。ま、見たことのある人はもうほとんど生きていないし、今もいるかは分からないんだけどねえ。」
 「ミズハ」
ルークは、縄の向こうから声をかけた。「何かって、どんなものなんだ?」
 「わからないよ。ちょっと周りと違う感じだけど…」
 「そこまで」
どこからともなく、威厳のある声が谷に響き回った。いつの間に集まってきたのか、周囲は手に弓や槍を持った同じような格好をした獣人たちに取り囲まれている。物々しい雰囲気だ。群れの中には、硬い表情をしたナユタもいる。
 一人の、長いあごひげを蓄えた老人が、杖を突きながら輪の中に進み出した。
 「ご神木には触れないでいただこう、お客人。」
ミズハは、ぱっと手を離す。おそらくそれが、長老なのだろう。勝手に神木に近づくなど、彼らにとっては非礼な行為だろうに、長い耳を持つ獣人の老人は、なぜかミズハに敵意は見せなかった。
 近づいて、少女をじっと検分する。
 「…ふむ、確かに似ている」表情を和らげると、老人はおもむろに両手を挙げた。迎の仕草らしい。
 「ようこそ、我らの友ハロルド・カーネイアスの息女。我らは貴殿を歓迎する」
それが合図だった。獣人たちの輪が崩れ、一本の道を形作った。ミズハは、木を離れて人の行列が指し示す道へ歩き出す。ミズハを先頭に、ルークたちも後に続く。
 周囲には、興味津々のピクシーたちが集まり、一同を取り囲んでいた。


 案内されたのは、谷の奥深くにある、木々に囲まれた静かな集落だった。
 谷の両側に畑や家畜小屋があり、藁ぶき屋根の特徴的な家が連なっている。入り口の静けさとは裏腹に、この谷には、思っていたより沢山の住民が住んでいたらしい。見物人野中には、入り口で出会ったピクシーたちに、女性や子供、家畜らしい四本足の馬に似た動物もいる。ここにはあまりよそ者は来ないと見え、みな、突然の来訪者を遠巻きに眺めていた。
 ルークたちは、集落の一番奥にある高い床を持つ屋敷に招かれていた。上座に座らされた三人の前には次から次へと料理を盛った皿が運ばれてくる。カーリーは大興奮だ。
 「すごいわあ、こんなに歓迎されたのってハロルド君に連れてきてもらって以来よぉ」
 「…そうなん、ですか?」
 「うんうん。だって普段長老の家とか入らせてもらえないもん」
ルークは、太い梁の巡らされた高い天井を見上げた。宴の間の壁は取り払われ、吹き抜けの状態だ。梁からは彼らの服と同じ模様が織り込まれた布が、カーテンのように垂れ下がっている。ちょろちょろと走り回っている小さな影は、ピクシーたちだろうか。
 三人が席についたのを見計らって、長老の合図で、獣人の少女たちがいっせいに給仕を始めた。次から次へ、ごちそうが運ばれてくる。見慣れぬ楽器が聞いたことのない不思議な調べを奏てる。ピクシーたちが梁の上で騒ぎ始めた。
 「ささ、ご遠慮なく」
 「はああいー」
カーリーは便乗で早速料理に舌鼓を打っている。隣にはいつの間にかナユタが、むすっとした顔で控えていた。
 長老が、ミズハの隣に腰を下ろす。
 「ところでミズハ殿、…と呼ぶのも我らにはいささか奇妙な気がするのだが、ハロルド殿は、お元気かな」
 「うん、とっても元気よ。今は島にいるの」
 「島…?」
 「そう。大きな岩の浮かぶ下にあるの。お母さんと一緒だよ。」
長老はからからと笑い、獣人の少女の差し出す盃を手に取った。
 「それは結構なこと。その方には羽根があるのですかな」
 「うん」
 「成る程。それで――」
ミズハがこの谷の守り神の言い伝えに似た白い翼を持つことは、既に知れ渡っているらしかった。
 老人は、ハロルドのことや島での暮らしについて尋ねている。ハロルドには、強い好意を抱いているらしい雰囲気だった。ちらとカーリーのほうを見ると、彼女も全く意に介さないふりをしながら、さりげなく聞いているようだ。
 「こちらへ来られたのは…」
 「谷を探検したかったの。お父さんから話は聞いてたから。あ、あと、ルー君も昔来たって言ってたっけ」
 「あ、うん…」
いきなり話題に挙げられてルークは緊張したが、長老の興味は連れのほうには無いらしかった。
 「さようですか。何も特別なことはできませんが、どうぞごゆるりと。ただ、谷は今――」
言葉が途切れた。
 演奏の音が高まり、酒の回った列席者の一人が宴の間の中央に踊りだす。どっと笑い声が上がり、声がかき消された。
 「失礼。どうぞ、そのままお楽しみを」
ふいに老人は席を立ち、ナユタに一瞥をくれると柱の陰に消えてゆく。柱の陰には、獣人が数人集まって長老に話しかけていた。
 「長老様、お忙しそうねぇ」
振り返ると、カーリーは視線を長老の消えた先に向けていた。笑顔だが、目は笑っていない。
 「あれで、色々と気を煩わされておいでなのだ。」
 「例の、聖域荒らしの件?」
 「…宴の席で言うことでもなかろう。」
ナユタは、むっつりとした表情でカーリーの盃に酒を注いでいる。
 「あら、いいじゃないの。彼らが犯人じゃないのは確かなんだし、谷に来て知らないままっていうのもおかしいでしょー。」
 「さっき言っていた、神聖な場所ばかり狙ってるっていう?」
 「そうそう、それそれ。」
ぐいと盃を干し、カーリーは酒で少し顔を赤くしながらルークのほうを向く。
 「ここ半年で壊された聖木や聖石っていうのは、瑞羽日女の残した”結界”だと言い伝えられてるものでねー。それらは逆さ大樹を中心にして、谷を守るように散らばっているのよ」
 「その結界の大半が既に打ち壊され、」ナユタは仕方なく、といった表情で後を引き継ぐ。「…残るは、村の近くにある聖石一つだけなんだ。」
 「結界が無くなると、どうなるんですか」
 「分からない」
獣人の青年は、力なく首を振る。
 「――お前たち外の人間は迷信というかもしれないが、我らは、結界が悪霊から谷を守ってくれていると信じてきた。それが無くなるなど、考えたくもないことだ。」
木の実を摘んでいた手を止めて、少女はナユタを見た。
 「結界って元に戻せないの?」
 「それが出来るとしたら、瑞羽日女様だけだろう。だが瑞羽様はもう、百年以上も姿をお見せにならないとう。神魔戦争で深く傷つかれ、そのまま…」
 「そっかぁ」
少女は、ちょっと考えこむ。「…でも、結界が壊されているってことはさ、その中に入りたい悪霊が犯人ってこと、だよね?」
 「えっ」
 「人間は壊しても意味ないよね」
ナユタとカーリーは、顔を見合わせる。
 「いや、しかし…。悪霊などというものは、本当にいるわけでは」
 「じゃ結界とか作る意味なくない?」
 「まあ、そうなんだが。」
 「あは、ミズハちゃんの言うことも一理あるかもねえ」
カーリーは、笑いながら自分で自分の盃に酒を注いでいる。
 「夜目のきく獣人でも正体が分からないなんて、悪霊じゃないにしても、相手はこの世のものじゃないかもよ?」
 「冗談はよせ、カーリー」
 「冗談は言ってないわ。攻撃も通じないんでしょ? そういう存在もこの世のどこかにいるかもしれないじゃない。」
宴は変わらず続き、楽器の演奏は盛り上がり、宴もたけなわといった雰囲気だ。だが、人々が楽しんでいるように見えるその裏では、不安を抱えて見えない敵に怯えている人々もいる、ということ。

 宴はも日が暮れるまで続いてお開きとなった。
 長老は、結局戻ってこなかった。


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