さ大樹の谷


 行く手には、落ち葉の積もる遊歩道が続いていた。整備された跡があるのは、ここが少し前まで観光地として開かれていたせいだろう。普段は観光客でごった返しているだろう道は、今は人っ子ひとりいない。
 途中には立て看板があり、谷をぐるりと巡る遊歩道のルートについて解説がされている。遊歩道から離れないように、との注意書きもあった。ベンチや休憩所もそのまま残されている。途中の小川に渡された橋の向こうは、色とりどりの葉を持つ木々が、地面に落ち葉で美しく模様を描く広場になっていた。
 「うわあ、綺麗!」
ミズハは広場の真ん中まで飛び出して、宙に両手を翳した。
 「こんなの初めて見た。花じゃないのに、花みたいな色だ!」
 「この木の葉は、季節によって色が付くんだよ」
足元から葉を一枚拾い上げながら、ルークは説明した。
 「色がついて、こうして落ちて、次の年に生え変わる」
先がいくつもに別れた奇妙な木の葉は、鮮やかな赤に染まっている。色づいた葉をつけた木々は、冬にはすべて葉を落とし、春には薄紅色の花を一斉に咲き誇らせる。そして、夏には新緑に包まれるのだ。ミズハのいた島には、こんな木々は無いだろう。というより、この大陸でも、この地方以外ではあまり無い。
 「面白ーい!」
少女のはしゃぐ声が谷間に反響しているほかは、物音はしない。生き物の気配もなく、谷は静まり返っている。まるで、息を潜めているかのようだ。
 「ねえ、逆さ大樹って何処にあるのかな」
 「もっと奥のほうだと思う。さっき地図があったけど…。」
広場からは、道が幾つかに分かれていた。ルークは、そのうちの一つに「展望台」と書かれている坂道を見つけた。展望台から谷を見下ろせば、大樹も見えるはずだ。
 「こっちに行ってみよう」
しばらく人の通っていないらしい坂道には、蜘蛛の巣が張っている。それを払いのけながら、急な坂道を上がろうとした時、脇の茂みから何かが思いきりぶつかってきた。
 「わっ」
湿気を帯びた地面で、足が滑る。
 「ルー君!」
尻もちを付きそうになったルークの体を、ミズハの手が支えた。
 「せーふ」
背中に白い翼が現れている。咄嗟に飛んだらしい。
 「ごめん、ありがとう」
周囲に人がいなくて良かった、と思いながら体制を立て直したルークは、足元にいる丸っこい生き物に気づいてぎょっとした。たった今、ぶつかってきたものに違いなかった。よく見るとそれは、一体ではなく、ここにも、そこにも隠れていた。
 「…様?」
 「…ミズハ様ダ」
ざわめきが木々の間に広がっていく。
 「な、何?」
ミズハは頭上を見上げて、枝の間からもぞもぞと現れてくるそれらに眉をひそめた。
 丸っこいからだに、毛むくじゃらの手足。まんまるの目は顔の真ん中についていて、背中には長い尻尾が垂れている。
 「ミズハ様ダ、ミズハ様ガ帰ッテキタ」
 「…え?」
 「知り合い?」
ルークの問いに、ミズハはむっとして答える。
 「そんなわけないよ、ここ来るの初めてだもん」
 「だよな」
だとしたら、どうしてこの生き物たちはミズハの名前を知っているのだろう。というよりも、この生き物たちは何なのだろう。ハロルドの本には、谷に住む幾つかの変わった種族について書かれていたはずだが…。
 「白イ羽根ダ」
 「ミズハ様ダ」
 「…イヤ、何カ違ウゾ…?」
 「白い羽根ダ、言イ伝エ通リ」
 「飛ンデルゾ」
 「子供スギナイカ?」
 「ミズハ様ジャナイノカ?」
数は、増えていく。木々の間にざわめきが伝わり、それが谷じゅうに増幅されているのだ。いつのまにか二人は幾重にも取り囲まれて身動きが取れなくなっていた。どうすればいいのかわからず呆然としていた時、登ろうとしていた坂道の上の方から、少し違う声色の声が飛んできた。
 「ちょっと、ちょっと! あなた達! 一体何して…」
茂みをかき分けながら現れたのは、見慣れた人間の姿をした女性だった。長い黒髪に、しばらく洗っていないらしい探検ジャケットに破れたズボン。片目は、眼帯で覆い隠している。格好はむちゃくちゃだが、すらりとした体躯に、細い腰。町でされなりの格好をしていれば、異性の目を引かずにはいられないスタイルだ。袖口には、未開地学者を示すマークの腕章がつけられている。
 黒髪の女性は、侵入者の二人を見るなり足を止めた。
 「…あら」
丸っこい生き物たちが静まり、道を開ける。つかつかと近づいてきたその女性は、固まっているミズハの翼と、彼女の顔をじっくりと眺める。
 「あなた、どこかで会ったような気が…。というか、あなた達は… 一体、何?」
こうなっては仕方ない。

 ルークは、順を追って説明した。
 自分たちはフォルティーザからやって来たのだということ、観光目的だったのだが、未開地学者の身分を利用して谷に入ったこと。
 黒髪の女性は意外に驚かなかった。本部に所属する伝承学者カーリーと名乗り、この谷に住んでパークレンジャーまがいの仕事をしながら、谷の住人たちの文化を研究しているという。そして、驚いたことに、ミズハの父親のことを知っていた。
 「ハロルド君の娘ですって? あはは、どおりで見覚えある気がしたよのよ! 確かにそっくり〜」
展望台へ続く道を歩きながら、隻眼の女学者、カーリー・バークレイは陽気な笑い声をたてた。
 「驚かないんですか? 彼女の翼のこと」
 「んーまあ、この谷は変わった子が多いからねえ。飛べる子はいないけどね。」
ミズハは翼を仕舞い、カーリーのすぐ後ろをついて歩いている。頭上の木々の間には、あの丸っこい生き物が走り回りながら付いてきている。カーリーいわく、それはピクシーと名付けられた生き物で、たぶん猿の一種なのだという。人の言葉は解するが、人ほどの知能はないらしい。
 「お父さんのお友達だったの?」
 「友達っていうかー、腐れ縁の先輩後輩の関係ね。向こうが年上なんだけど、彼、大学は留年しまくってて同時に卒業したわ」
ということは年はそう離れていないはずなのだが、見た目はずいぶん若い。ハロルドも若作りなほうだと思ったが、それより遥かに年下に見える。
 「んーでも、娘の名前がミズハ、とはねえ。ハロルド君らしいけどー」
 「さっきピクシーたちも言っていましたが、そのミズハって何なんです?」
 「瑞羽日女<ミズハノヒメ>。言い伝えにある、この谷の守り神様のことよ。普段は純白の鳥の姿をしていて、何でも人間の姿になった時はそれはとても美しい女性だったとか」
 「なるほど」
それで、ハロルドの娘はミズハという名前なのだ。フィオナはもちろん、ハロルドの故郷であるメテオラでも一般的ではない、変わった名前だと思っていたが、ようやく謎が解けた。
 「でも、その守り神と間違えられるなんて」
 「名前が同じだし、言い伝え通り羽根が生えてるからねえ。ま、あの子たちには区別つかないわね」
笑いながら、カーリーは歩を進める。ルークはふと、坂道の途中に、焼け焦げたような区画があることに気がついた。周囲の木々には引っかき傷がつけられ、山の崩れたような跡がある。何か事故でもあったのか。だが聞く暇もなく、カーリーは先へ先へと歩いている。

 まもなく、行く手の視界が開け、木立の間に青空が広がった。
 「さて! 着いたわよ。ここが展望台」
そこは谷に向かって張り出した大岩の上だった。眼下には谷底を流れる小川が見えた。広場の手前を流れていた小川に繋がっているのだろうか。向かいの崖との間は百メルテほどあり、太陽の光が斜めに照らしだす加減で深い陰影が刻まれている。
 谷間に、一本の大樹がずしりと立っていた。
 岩とも見まごう無骨さ。来る途中に馬車から見た水色の縞々模様の岩を背景にして、太い幹の上の方は何かに切り取られたように欠けており、上の方の枝は枯れ果てて、まるで根を空中に張り出しているような姿に見せているのだ。
 ミズハは、落ちそうなくらい勢い良く岩の端に身を乗り出した。落ちるから危ない、という注意は、彼女にだけは不要だ。
 「あれが、逆さ大樹なの?」
 「そー。この谷の住人たちの神聖なもの。だから観光客は下には降りられないんだけどねぇー」
五十人は手を繋げそうな太い幹の周りにはぐるりと縄が渡され、奇妙な稲妻型の飾りがぶら下げられている。
 「おっきいけど…あんまり木っぽくないね」
葉が生えているのは、木の下の方の一部の枝だけだ。上2/3には全く緑がない。そのせいで上下が逆転したような印象を与えている。
 「あれは瑞羽日女が宿るとされたご神木なの。ずっと昔、大きな雷が落ちて幹が裂けて、ああなってしまったそうよ。彼らの守り神である瑞羽日女も、その時いらい姿を見せなくなったらしいわ。」
カーリーは、腰まである長い髪をかきあげた。ろくに手入れもしていないらしい黒い髪は、しかしそれでも、不思議に艶々している。
 「…神魔戦争の影響ですか?」
 「たぶんね。それを研究するのが、わたしのお仕事。…なんだけど、この谷の住人って警戒心強くて、もう十年近く一緒に暮らしてるのに、なっかなか大事なことは教えてくれないのよぉ。」
女学者は、あっけらかんと笑った。「その点、現地住人としっかり懇意になってるハロルド君は流石だわぁ。」
その”住民”というのが一人しかいないうえに、人ではないのだが――。
 詳しく聞かれると厄介だ。ルークは、さりげなく話題を変える。
 「この谷の住人は何処にいるんですか? 一緒に暮らしてるっていうのは」
 「あー、そうそう。そうだった」
と、カーリーは手を打った。「紹介しなきゃねえ。きっと驚くわー、面白そう!」
 「面白い?」
 「来て来て」
髪を振りまきながら、カーリーは遊歩道の脇の茂みをまさぐった。「こっちよ!」 そこには、遊歩道とは違う、地図にはない細い道が隠されていた。注意書きには「遊歩道を離れないように! 自然を大切に」…などと書かれていたが、今は忘れることにしよう。


 歩くこと数十分、下り坂の道は谷底のどこかへ通じていた。
 足元をさらさらと水が流れている。長い年月が削りとったらしい、すべすべした丸い石が足元に積み重なっている。普段、観光客は降りてこない場所なのだろう。
 ルークは、見上げた谷間を夢に見た風景と重ねあわせた。

 ――あの夢の風景は、ここではない。

 こことは雰囲気が違うし、繰り返し見ていたあの灰色の谷は、もっとずっと険しくて、空はほとんど見えなかった。それに、こんなに木々が生い茂っては居なかった。そもそもこの世に実在するのかどうかも定かではないのだが、もし過去に訪れたどこかの記憶だったとするならば、この谷以外の場所を探さなければならない。
 「おーい、ナユタくーん」
カーリーは先に立ち、進行方向に向かって誰かを呼んだ。声に応えるように、それまで背景に同化したように隠れていた人影が、ゆっくりと立ち上がる。白っぽい服に薄い水色の腰帯と鉢巻。崖を形作る岩と同じ色だ。沢で魚を取っていたらしく、腰にはびくを提げている。
 それは、普通の人間とほとんど変わることのない姿をした存在だった。違うところは、髪に隠れるようにして垂れた耳と、人間にしては尖すぎる目付き。敵意に似た視線は、カーリーを通り越してよそ者であるルークたち二人に注がれている。それが、ナユタと呼ばれた人物らしかった。
 「カーリー、よそ者を連れてきたのか?」
 「お客さまよー? 面白いの。ルークくんと、ミズハちゃん」
 「…ミズハ?」
あからさまに不快そうな顔をするナユタの口を自分の手で塞ぎ、カーリーはニコニコしながら、もう片方の手で二人を手招きした。
 「ミズハちゃん、羽根出して羽根」
 「…こう?」
 「!!」
少女が翼を広げると、ナユタはカーリーの手を振りほどき、数歩あとすさった。
 「…まさか、そんな」
 「しかも、聞いて吃驚よー。なんと、あのハロルド君の娘さんなのだー!」
 「あいつの?!」
ぴくぴくと耳が動くのを、ミズハはぶしつけにじーっと見つめている。
 「ね、反応面白いでしょうー。」
 「うん。」
少女は素直に頷いた。視線はまだ耳に注がれたまま。
 「あの、すいません。」
ついていけていないルークは、片手を上げた。「この方は…」
 「あーっと、紹介が遅れたわね。彼はナユタ君、見ての通りこの谷に住む獣人で、我々外の世界の学者ともお話してくれる、貴重な”協力者”なのでーす。」
 「協力者…」
なるほど、入り口で兵士が言っていた”協力者”とはそういう意味か、とルークはようやく合点がいった。身分証の「ミズハ」という名と、未開地学者との組み合わせから、この谷の住人なのだと、良い方向に勘違いしてくれたということらしい。
 「この人も、お父さんを知ってるの?」
 「そりゃもう。ハロルド君がこの谷を発見した時、最初に接触したのが彼、ナユタ君よ。その縁で、彼は今もわたしに協力してくれてるってワケ。」
 「驚いたな」
ナユタは、まだミズハをじっと見つめている。「…その羽根は、本物なのか」
 「本物って?」
 「飛べるのか」
 「当たり前でしょ」
少女は、胸を張って浮かんで見せた。「飛べないのに羽根なんてついてないよ。」
 「…そうか。」
ナユタは、納得のいかないような顔をしている。「ミズハという名で、その羽根とは…。」
 「ハロルド君らしい発想よね。ね、彼らに谷を案内してあげてもいいか、長老たちに許可を取って貰えない? 遠路はるばる、ここまで来てくれたんだし、色々見せて上げたいの。」
 「…それは」
ナユタは、僅かに表情を曇らせた。「今は、こんな時期だ。長老たちも気前良くはないだろう」
 「でももう、ミズハちゃんのことはピクシーどもに知られちゃってるのよ」カーリーは、にやりとする。
 「隠しても、谷じゅうの噂になってると思うわー」
 「……。わかった、確認だけはしてこよう」
獣人の青年はやれやれ、という顔をして、釣竿を片手に器用に岩から岩へ飛び移った。僅かな出っ張りを利用して、飛ぶように崖の斜面を駆け上がり、まもなくその姿は頂上に消えた。高い身体能力と鋭い五感は獣人の特徴なのだと、確かハロルドの本にも書いてあったが。
 「”こんな時期”って、なあに? 入り口を閉じてたことと、何か関係あるの?」
 「ああ――うん、説明するわね」
女学者は説明し始めた。

 ハロルドの探検後、観光客が訪れるようになってから今まで、外の世界との接触による大きな問題は起きてはいなかった。にも関わらず、この半年は事件が相次いでおり、そのため谷は一時的に閉ざされたのだということ。
 「谷を荒らして回ってる奴がいるの。主に夜間、彼らの神聖な場所ばかり狙ってる。犯人はまだ、捕まっていない」
狙われたのは、獣人たちが神聖視する聖木や聖石など、大切な場所。それはこの谷の住人たちにとって、生活に関わる大問題だった。
 観光目的で一部が開かれたとはいえ、谷の大部分は獣人たちの生活空間であり、遊歩道以外は厳しく立ち入りが禁じられている。遊歩道を外れて立入禁止区域に入り込むだけでも大騒ぎなのに、聖木を傷つけられたり、聖岩をひっくり返されたりして、獣人の長老たちに不信が高まっていったという。そしてついに、一ヶ月半ほど前には、逆さ大樹に次ぐ重要な岩が真っ二つに割られた。厳重な警戒の中での出来事だった。
 いらい、谷は閉ざされたままだ。今や谷の住人たちは今、ひどくよそ者を警戒する状態にあるという。谷に入った時、辺りが静まり返っていたのも、ピクシーたちに突然襲われたのも、そういうわけだったのだ。
 「犯人の見当もつかないんですか? あれだけピクシーたちがいても?」
 「みたいなのよね。素早い黒い影、としか分からないみたい。ま、ピクシーたちってそれほど頭いい訳じゃないから、人か、獣かくらいしか区別がつかないんだけど。」
だが獣であるはずはない。神聖なものを集中的に狙うなら、人か、それ相応の知能と目的があるはずだ。
 「…あれ」
ふと、ルークは周囲を見回した。
 「ミズハ?」
いつの間にか、少女の姿がない。
 「ミズハー!」
ルークの呼ぶ声が、虚しく谷間に反響する。
 「ありゃ…」
カーリーは、ぽりぽりと頭をかく。「どこ行っちゃったんだろう」
 元きた道を戻るとも思えない。行くとしたら、谷の奥しか無い。
 ナユタが戻ってこないうちに奥へ進むのは気が引けたが、彼女を一人で行かせるほうが拙い。


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