さ大樹の谷


 考えてみれば、内陸へ旅をするのは祖母が亡くなって以来のことだった。

 グレイス・ハーヴィは船での調査にあまりこだわりはしなかった。生物学が専門だったから、必要とあらば山にも登ったし、未開の森にも分け入った。所属している支部の得意分野が海だったこと、他の船では燃料や動力の関係で行けないような場所でも海竜ならば行けることから、結果的に海での調査が多くなっていたというだけだ。だがルークは、ジャスパーと旅の出来る海のほうを好んだ。地理を専門にしていたこともあり、内陸よりは、人手の足りない海洋調査に回されることも多かった。結果的に、内陸部は随分ご無沙汰になってしまっていた。
 「傷は痛くないの?」
列車の網棚に荷物を上げようとしているルークに、ミズハが尋ねた。
 「ああ、うん。もう痛くない。昔から傷が治るのは早いんだ」 
 「そっか。」
ミズハとの列車の旅は、二度目だ。ヴィレノーザを通過するのも二度目。短期間に同じ路線を往復することになるとは、前回は思ってもみなかった。
 今回の目的地である”逆さ大樹の谷”は、大陸の東の果てにある、ティエラという国の中にある。国家連邦の中でも小さな国の一つだ。大陸を東西に貫く路線の経路上にあるため、フォルティーザからは列車でまずヴィレノーザまで行き、そこから東の国への列車に乗り換えて、更に数日。列車が到着てるティエラの首都からは乗合馬車を乗り継いでようやくたどり着く。
 簡単には行けない場所のようだが、これでも、かつてよりだいぶ行きやすくなったのだ。ハロルドの本が出版され、その地域のことが公に知られるようになってから、探検家や観光客がどっと押し寄せるようになり、道や宿が整備された。研究も進み、そこに住む種族についても、ある程度は知られるようになっていた。

 列車の旅の道すがら、ルークは改めてハロルドの本を読み直しておいた。
 前にそこへ行ったのは随分昔で、覚えていることといったら春に一斉に咲く薄紅色の樹の花が見事なくらいなものだったが、そこには「半獣人」と分類づけされる種族が、外界との接触を絶って暮らしている。かつて谷を訪れた時に会った覚えはないが、人とは異なる文化、外見を持つが言葉は通じ、人間に対しては概ね好意的だという。それから、「彼らは木や石を聖なるものとして信仰する。それら聖なるものを侵されることを何よりも嫌うことに注意する必要がある」。
 遠い記憶は曖昧で、本に書かれている内容を読んでみても蘇っては来なかった。


 目的の駅で列車を降り、そこからはバスに乗り換える。道が尽きれば、バスは馬車に。そして馬車の外の風景は、既に見知らぬものへと変わっていた。
 白と淡青が縞々に組み合わさった岸壁。風にそよぐ長い髪のような枝を持つ濃い緑の木々。泡のような白い花を咲き誇らせた低木の茂み。風も、フォルティーザを吹き抜ける、遠い果ての世界の香りを孕んだ奔放な海風ではなく、二人にとってはあまり馴染みのない、しっとりと湿った萌ゆる大地に抱かれた柔らかな風になっていた、。
 まもなく谷に到着する。
 乗合馬車の乗客はまばらで、ルークたちの他には地元民らしき人々が荷物を抱えて背を丸めているほかには居ない。何度か話しかけられもしたが、このあたりの地方の訛りは強くて、よく聞き取れなかった。
 馬車が止まった。終点のようだ。
 乗客たちが、ぞろぞろと降りていく。ルークは地図を広げた。
 「えーっと。谷の入口は…」
 「あれじゃない?」
ミズハは、通りの向こうを指した。高い柵に扉がつけられ、脇には兵士の駐屯所がある。
 「まさか。あれじゃ国境警備か軍施設の入り口だよ。」
 「でも、ほら。」
柵の脇には、「逆さ大樹の谷 入り口」という看板が建てられている。とても観光地の入り口には見えない。ルークは眉をひそめた。
 「…何かあったのか?」
立入禁止になったという話は、聞いていなかった。だが、ここまでの間に観光客らしき旅人に全く会わなかったのも確かだ。どこかで案内を見落としたのだろうか。
 駐屯所の入り口には、退屈そうに欠伸をしながら銃の手入れをしている兵士が一人。もう一人は、こちらに背を向けて新聞を読んでいる。
 「あの」
近づいて声をかけると、銃の手入れをしていたほうが顔を上げた。
 「観光なら許可が必要だぞ」
 「許可?」
 「先月からそうなったんだ。調査目的以外の立ち入りは制限中。」
しまった、と思った。先月は、まだ海の上だ。ニュースを見てはいないし、今回、改めて調べて来ようともしていなかった。
 「調査目的ならいいんでしょ」
ルークの後ろから、ミズハがひょっこり顔を出す。「ルー君は”未開地学者”だよ。」
 「ほう? 随分と若いな。身分証」
兵士は、くちゃくちゃとガムを噛みながら手を出す。ルークは、平静を装いながら言われるままに身分証を取り出した。兵士は、ヤル気なさそうにぱらぱらと中を捲る。
 「フォルティーザ支部所属か。ふん、若いくせに随分御大層な肩書きを持ってるな。エリート様か…まぁいい」
ぽい、と身分証をルークに投げて返し、ミズハのほうに向き直る。
 「で、そっちの嬢ちゃんは?」
 「あたし?」
 「身分証…ほら、この間アネットに貰っただろ」
 「あー、」
ミズハは、肩にかけていたかばんから、茶色い真新しい表紙の手帳を取り出す。
 「これ?」
国家連邦の中でも、国境を超えるときには場所によっては身分証の提示が必要になる。旅をする時は必須なので、身に着けているように言っておいたのだ。
 表紙の色だけ見て、兵士は怪訝そうな顔をした。だが、中をぱらぱらとめくって、ああ、とつまらなさそうな声を出した。
 「”協力者”か。いいぜ、通りな」
兵士は扉の脇のロックを外した。鉄の棒を組み合わせた檻のような扉が、軋みながら奥へ向かって開いていく。
 あまりにもあっさり通してくれたので、拍子抜けするくらいだ。
 門を通りすぎながら振り返ると、兵士はもう、自分の銃を磨く仕事に戻っていた。学者のやることに興味はない、といわんばかりだ。
 歩き出す二人の後ろで、背後で扉が閉じていく。
 「うまくいったね」
 「ああ。でも、”協力者”って何だろう」
あの兵士が、なぜミズハの身分証をあっさり返してきたのかも分からなかった。彼女の持っている身分証は、国家連邦の外から来た者に発行される滞在許可証、しかも、人とは異なる能力を有する者に対して出される”特殊”滞在許可証の印がついていた――はずなのだが。


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