男事件


 目を覚ました時、そこは見覚えのある自分の部屋のベッドの上だった。
 明かりはついておらず、辺りはもう真っ暗。手のひらに、柔らかいシーツの感触がある。まだ、闇の中を漂っているような奇妙な感覚が残っている。頭の芯がしびれたようになっていて、自分の体が、自分のものではないようだ。
 ルークは、ゆるゆると持ち上げた手を眺めた。これは手だ。確かに、自分の手だ。あれはやはり、夢だった――
 「…ん」
隣で何かが身動ぎした。見れば、ベッドの端に、ミズハが俯せたまま眠っている。
 「ミズハ?」
呼んでみるが、起きる気配はない。苦笑して、ルークは自分がベッドから降りる。少女の肩に掛け布団をかけてやろうとしたとき、肩に走った激痛に思わず小さく声を上げた。触れてみると、肩の左右ともに包帯が巻かれている。
 あの時、鮫男の爪で押さえつけられた傷だ。
 痛みとともに、今朝の出来事が蘇ってきた。あの時、白くのっぺりした顔が間近に迫った時、恐怖を感じる暇すら無かった。それが今になってようやく、生きている実感とともに襲ってきて、ルークは思わず両手で自分の肩を抱いた。
 なぜ? と問うても、誰も答えられないだろう。
 あれは、――あの生き物は、自分を狙ってきたのだ。今までに襲った船は、人違いだった? でも、何のために自分を?

 『ルールード』

あれは最後にそう言った。聞いたことがある言葉だと思った。記憶にある…はずだ。だが思い出せない。
 ルークは、祖母から引き継いだ書斎机に近づいた。カーテンの隙間から月明かりが忍び込み、青白く机の上を照らしだしている。三面の写真立ての空だった右の枠には、つい最近船で見つけた、あの写真を差し込んである。写っているのは三人。写真の左端に立っているのは、若い頃の祖母。真ん中は自分によく似た男。右端は…会ったことがあるような気がしているのだが、…目深な帽子で顔を隠していて、誰だかは分からない。
 「ルー君…?」
気配に気づいて、ミズハが目をこすりながら起き上がった。
 「ごめん、起こしちゃったか」
 「ルー君!」
ルークが吃驚するほどの勢いで、少女は駆け寄ってきた。「だいじょうぶ?! 気分悪くない? 痛いところない? おなか、すいてないっ?」
 「あー、えーと。大丈夫だよ、何ともない」
 「ほんとに?」
見る間に、表情が崩れてゆく。
 「よかったあ…。全然目覚まさないし、うなされて苦しそうだったし、傷口から毒とか入ったんじゃないかって…」
 「ご、ごめん」
ルークは頭を掻いた。
 「その。…ジャスパーは?」
 「怪我してるけど、大丈夫。ちゃんと手当してもらったから」
 「そうか」
船は、…あのぶんだと、しばらく航海は出来ないだろうな、とルークは思った。浸水、船体の深刻な損傷。港まで曳航して貰えたとして、修理できるかどうか。祖母から引き継いだ年代物の船とはいえ、子供の頃から馴染んできた船だ。祖母にも申し訳ない。
 「あの生き物は…」
 「逃げられちゃった。海に落ちたんだけど、そのあと探してもどこにも居なかったって」
 「……。」
一瞬、その姿とともに黄色く濁った目がよぎり、ルークは額を抑えた。あんな生き物は、知らない。一度も見たことがない。――はずなのに、何故だか、自分が狙われていたことがはっきりと分かる。その理由があることも。
 「だ、大丈夫?」
 「――目眩がしただけ」
 「まだ動かないほうがいいんだよ。ベッドに戻って」
言われるまま大人しくベッドに戻ったものの、もう一度眠る気にはなれなかった。胸の辺りが訳もなくずきずきと痛む。頭の奥底で、何かが渦を巻いている。
 ベッドに横になりながら、ルークは片方の腕を目の上に置いた。
 「ミズハ」
 「なに? 飲み物とか、とってこようか」
 「いい。ここにいてくれ」
 「分かった」
少女は、ちょこんとベッドの端に腰を下ろした。互いの吐息が聞こえるほどの距離。なぜだろう、――ざわついていた気持ちが、少し、落ち着いた気がする。不思議だった。海は嫌いなはずなのに、海の気配は嫌いではない。会って間もないはずなのに、この少女には昔から知っているような懐かしさと、安心を覚える。
 「嫌な夢を見てたんだ。」
 「夢?」
 「たぶん、…昔の夢。」
暗い谷間、誰も側にいない、屍だらけの恐ろしい地獄を、ひたすら走り続ける夢。子供の頃にはよく、そんな恐ろしい夢を見ては泣きながら目を覚ました。そのたびに、グレイスは「夢は夢だ」と至極冷静に言いくるめた。夢に見る風景は、現実にあるものではない。けれど夢は、見るものの心を写すもの。楽しいことを考えなさい、そうすれば、夢もきっとそれに応えてくれるから。
 いつしか恐ろしい夢は見なくなっていた。それどころか、大人になるにつれ、夢じたいを見ることが稀になっていた。
 忘れられたと思っていたはずなのに。今になって――。
 「何処だったのかが思い出せない…」
祖母について旅したことは、覚えている。写真も、日記もある。それらは隙間なく今までの十七年間を埋めている。…そのはず、なのに夢に繰り返し見る光景は、知らないはずの場所ばかりなのだ。
 「本で読んだとか? あたし、この前、王子ルードヴィッヒのお城にいる夢見たよ」
 「かもね。でも、妙にリアルで」
ルークは、目を閉じた。「…いや、よそう。気のせいなんだ。何でもない」
 「もう一度、いままで行った場所を辿ってみればいいのに。」
ミズハは、どこまでもあっけらかんとしている。「気になるのにほっといたら、芽が出て大きくなっちゃうよ?」
 腕を離すと、少女の大きな緑の瞳が、すぐ目の前にあった。
 「ね。」
黄色く濁った不気味な目の輝きを打ち消していく輝き。その時、窓の外から聞こえなくなっていた波の音が戻ってくるのを感じた。暗い谷に降る雨の音ではなく。
 「そうだな。…船も修理が必要だし、しばらく休めたら…」
海の気配が静かに夜を満たしていく。落ちてゆく海の底は、暗いままではない。

 その夜は、もう、夢は見なかった。


 翌朝、ルークはハーヴィ号とジャスパーの様子を見に赴いていた。
 船は損傷がひどく、そのままでは沈んでしまうため支部専用のドックに回されたのだ。そこには、最近「鮫男」の被害にあった近隣の船も、状況見聞のためまとめて回されていた。ルークたちが姿を現すと、既に現場に来ていた支部の調査班が、大きくざわめいた。原因は、ルークというよりミズハのほうらしい。
 「あの子だろ? 昨日の」
 「…らしいぞ。見た目は普通なんだが…」
さざ波のように広がるささやき声が、船を修理する工具の立てる音に混じって断片的に耳に届く。あれだけ大々的に姿を見せてしまったら、もう隠す意味はない。とはいえ、聞こえてくる囁きの大半が好奇心からで、恐れではないことは救いだった。
 「お、お前さんたち」
船大工たちに指示を出していた老人が、こちらを見た。頭に手ぬぐいでねじりハチマキをし、腰に工具入を下げたその男は、モーリス・チャックだった。エレオノール号づきの船大工、そして、かつてハーヴィ号を造った技師でもある。
 「船を探しにきたのかい? ちょうど今、傷口の調査をやってるところだぞ。」
指差す方には、丸太の上に引っ張りあげられたハーヴィ号が、無残な脇腹を晒していた。
 傷は、三層ある船倉の外壁を二番目まで切り裂いていた。三本の大きな傷口のほか、無数の引っかき傷のようなものや大きなへこみもある。まさに満身創痍といった風体だ。
 「…ひどいな」
ルークは、絶句した。丈夫な調査船ですらこれなのだから、そのへんの漁船などひとたまりもなかっただろう。
 船の側で、黒っぽい影が動いて力なく声を上げた。
 「ジャスパー!」
ルークは、相棒に駆け寄った。ジャスパーのほうも、こっぴどくやられたようだ。ひれには何箇所も傷が出来、もっとも大きな切り傷は前足のひれを1/3も引き裂いて、今も血が滲み出している。それを生物学者がてきぱきと手当していた。
 「治りますか?」
 「ええ、このタイプの海竜は丈夫だし、骨までは傷ついていないから。」
若い生物学者は、包帯を巻く手を止めてにっこり笑った。「一ヶ月もすれば、傷口は完全に塞がるわ。」
 「一ヶ月…ですか。」
思っていたより、ずっと長い。ジャスパーは消毒薬の匂いから顔を逸らしながら、不満気に鼻を鳴らした。
 「ルークを守れなかったこと、すごく落ち込んでるみたい」
ミズハが通訳する。
 「しょうがないだろ、あれじゃあ。ジャスパーは頑張ってくれた」
 「って言ってるんだけど、グレイスさんとの約束が守れなかったからって…あ。」
少女は口に手を当てた。「これナイショだった」
 「…知ってるよ。そのくらい」
ルークは苦笑する。
 ルークが子供の頃から、ジャスパーは側に居た。家族同然、というより、兄弟のように育ったのだった。
 海竜の寿命は人間よりも長い。まだ成竜ではないらしいが、これでも既にルークの二倍近くは生きている。グレイスはいつもジャスパーに、ルークを見ているようにと言いくるめていた。人の言葉をどこまで理解できているのか、子供の頃のジャスパーは、何かにつけてルークを庇ってくれた。今では、ただ一人の家族だ。
 「ジャスパーに、気にするなって言ってやってくれ。あれは、おれの判断ミスだ」
 「うん…」
ミズハは、手当されているジャスパーの傍に残り、何か話しかけている。そのあいだに、ルークはモーリスのもとに戻った。
 「直りますか? ハーヴィ号」
 「難しいな。老朽化してて、直すより作りなおしたほうが早そうだぞ。今回ので船体は丸ごと張替えにゃならんし、船底は中までやられとるからなあ」
 「…そうですか」
これまで、ずっと一緒に旅をしてきた船だ。海の思い出の中にはいつも、ハーヴィ号があった。こんな形で失うことになろうとは。
 「そんな顔をするな、ぼうず」
モーリスは、困ったような顔でルークの頭に手をぽん、と置いた。
 「大事にしてくれた船には、魂が宿るもんだ。大丈夫、わしに任せとけ。できる限り元の素材を残して、なんとか直してやろう」
 「本当ですか?」
 「あぁ。元は、わしが造った船だしな」
そう言って、船大工は力強く頷いて見せた。「どうせ、そこの海竜に合わせて作り替えたいと思っとったところだ。ケガで弱っとるうちに寸法を測りゃ楽だろう」
 「よろしく、お願いします。」
ルークは老人に深々と頭を下げた。
 「なに、良いってことよ。さあ、もう行った行った。ここはこれからもっと忙しくなる。素人にチョロチョロされちゃ邪魔なんだ」
追い出されるようにしてドッグを出ると、外には資材を積んだ馬車が並び、搬入が始まろうとしているところだった。人が走り回り、声が飛び交っている。なるほど、邪魔はしないほうがよさそうだ。


 外の出ると、とたんに空気が変わった。真昼の港の喧騒と、潮風と。いつものフォルティーザの町だ。
 さっきまで薄暗いドックにいたおかげで、日差しが眩しい。目を細めるルークの目の前を、逞しい海の男が魚とりの網を積んだ荷台を引っ張ってゆく。
 ただ、まだ完全に平和になった気分はしない。何しろ、立て続けに事件が起きすぎた。あちこちに、事件について囁き合う住人たちの姿がある。まだ海に出るのを控えている船もある。町が完全に元の日常に戻るのは、まだ少し先のことだろう。
 ルークは何となしに町の大通りのほうへ足を進めていた。しばらくは海へも出られないし、自分から面倒ごとへ首を突っ込みに、支部へ行く気にもならない。かと言って、家に戻るには早すぎた。
 隣を歩くミズハに尋ねてみる。
 「どこか行きたいところは?」
 「うーんと」
考えながらショーウインドウを見回していたミズハは、はたと視線を止めた。
 「あ!」
ほぼ同時に、向こうから歩いてきた女性が足を止める。
 「あらあら、あなた達。」
アネットだ。幼い少女の手を引いて、買い物袋を提げている。「ルーク君、怪我は大丈夫なの?」
 「ええ、なんとか」
実際、それほど深い傷ではなかったらしく、一晩寝たあとは痛みも殆ど無い。
 「お買い物?」
 「ぶらぶらしようかと」
 「そうなんだ。私は、娘の新しいお洋服を買いに」
そう言ってアネットは、きょとんとしている少女の頭を撫でた。「うちの娘よ。今年二歳なの。ほら、ご挨拶して」
 促されて、少女はちょっとだけお辞儀して、さっと母親の後ろに隠れてしまう。可愛い盛りだ。アネットは、いつもとは違う母親の顔になっている。
 「そういえば、ミズハちゃんのお洋服もまだそれ一着よね。今度、ほかのも買いに行こうか」
 「え…、うん。でもこれ、まだ着られるし」
そう言ってスカートをひっぱるミズハに、アネットは、口元に手を当ててくすくす笑う。
 「いやだ、年頃の女の子なんだし、何着持っててもいいのよ? もっとお洒落しないと。あなた可愛いんだから」
 「…おしゃれ…」
アネットの娘が、もう行きたいというように母親の腕をぐいぐ引っ張る。
 「あらあら。分かったわ、じゃあまたね、二人とも。ルーク君、しっかりエスコートしてあげてね!」
娘に急かされるように、アネットの姿は人ごみに消えてゆく。
 「おしゃれ…って何だろう」
ミズハは悩んでいる。さすがに、そんな言葉はルークの家の蔵書には出てこない。ハロルドが教えたはずもなかった。
 「そのうち分かるさ。そうだ、行くところが決まらないなら、――そうだなあ。ケーキでも食べに行くとか?」
 「ケーキって何? たべられるの?」
 「……。」
島育ちで、見たことがあるはずもない。大半が海と空で締められた、広いが閉ざされた世界が、これまでのミズハの全てだった。こちら側の世界についてはまだ、知らないことだらけ。考えてみれば、まだ町の案内すら、まともにしていなかった。
 せめて今日くらいは、町で色々なことを紹介して回ろうと、ルークは思ったのだった。


 時間は、あっという間に過ぎていた。
 日暮れが近づいたフォルティーザの町は、早くも昼間の熱が冷めつつあった。ヴィレノーザと違って、この町では、日が暮れる前には人の波が引く。海で働く人が多く、翌朝も日の出とともに海へ出るから、夜が早いのだ。既に店じまいをはじめているところも多く、かわりに、仕事上がりに一杯楽しむ酒場が開店しはじめる。
 家路に着こうと海岸通りを目指していた時、ミズハはふと、本屋の前で足を止めた。
 「どうした? また欲しいのがあるのか」
 「これ」
ショーウインドウに飾られているのは、大判の立派な本。開かれているページには、大きなカラー写真が載せられている。
 空に浮かぶ島。
 ミズハの故郷。
 ルークも足を止め、積まれている本の表紙に目をやった。”霧の巣の二十年――探検家ハロルド・カーネイアスの記録”。
 「…もう出たのか」
島で預かり、持ち帰ったハロルドの調査資料の中で、航海記録と日記の部分については近々一般向けにも出版されるという話を聞いていた。学術的で難しい要素は少なく、読みやすい部分だ。もともとハロルドは、組織や国家に支援してもらうことをあまり好まず、探検にかかる費用の大部分を手記や写真集の出版で自前で補っていた。彼の書く冒険物語は、一般読者受けもよく、二十年前から今まで売れ続けている。
 行方不明になっていた探検家が実は生きていたというセンセーショナルなニュースは、既に国家連邦の国々に知れ渡っている。今回の新しい出版で、再び売上が上がることは間違いない。”霧の巣”の本の隣には、過去にハロルドが出版した本もずらりと並べられていて、それぞれに”今、売れています!”だの、”ベストセラー!”だの、吹き出しが張りつけられている。
 「ハロルドさんの本、いま人気みたいだな。」
 「そうなんだ」
 「新しく買わなくても、全部うちにあるはずだ。読みたければ、あとで出してくるよ」
言いながら、ルークの視線はふと、一冊の本に止まった。
 ”逆さ大樹の谷”。
 新装出版! の吹き出しを貼り付けられた、同じく大判のその本の表紙には、いつも夢に出てくるあの谷によく似た深いV字の谷の写真が使われていた。
 ルークの視線に気づいたミズハは、本のタイトルを読み上げた。
 「ここ、行ったことあるって言ってなかったっけ」
 「…ある」
ほとんど覚えていないが、五歳くらいだったはずだ。
 「いいなー。行ってみたいな。ここから遠いの? 」
 「遠いけど、近くまで列車があるから…」
 「じゃあ、行ってみようよ! 明日」
 「ええ? いきなりか」
 「ダメ?」
ルークは、考え込んだ。しばらくは…調査航海はしたくても出来ない。家でじっと船の直るのを待っているわけにもいかない。あの、「鮫男」の件もある。正直に言えば、しばらく町を離れたい気持ちもあった。
 ジョルジュに相談してみるべきだろうか。
 いや。今は忙しいはずで、手をわずらわせるべきではない。それにもう、ルークはこの国では成人とされる年齢に達している。このくらい、自分できめてもいいはずだ。
 「…そうだな、久しぶりに陸路もいいかもしれない。行ってみるか」
 「やったー!」
賑やかな二人の姿を、暮れてゆく町の物陰からじっと見つめる目があったのだが、彼ら自身はまだ、そのことには――気づいていない。
 そして、この思いつきの旅は二人を、思わぬ方向へと導くことになる。


表紙 ┃ 戻る ┃ 次へ