男事件


 列車は、予定時刻に大幅に遅れることなくフォルティーザ駅のホームに滑りこんだ。
 その日は、町の人々の心情を投影したかのような曇天。港から遠い高台にある駅からは、灰色に霞む水平線までが見渡せていた。

 到着してホームに降り立つとすぐ、三人は迎えに来ていたアネットの車に乗りこんで支部へと帰還した。息つく日間もなく支部の会議室へと通されれると、そこには緊急対策室が作られており、ルークとも顔見知りの生物部の学者たちが既に勢揃いしていた。壁には一面に海図が貼られ、これまでの被害地点を示す×印が赤い色で記録されている。
 旅の疲れも見せない様子で、ジョルジュはすぐさま議長席に着く。
 「皆さん、お揃いですね。まず現状から聞かせてください」
 「ご指示どおり、近隣の船にはしばらく出港を見合わせるよう通達を出しました」と、アネット。
 「万一の際は救助可能なように、必要な場合は数隻まとまって移動すること、また緊急時には救難信号を出せるよう通信機の携帯を義務付けています」
 「よろしい。では最新の被害は?」
 「昨日の未明、隣町の入江です。早朝、港前で釣りをしていた小船が一隻。乗員は無事です。」
 「今回も、襲われているのは船ばかりですか」
 「そのようですね。人間は直接襲われていません。」
 「ふむ…」
 「支部長」
と、生物部の学者の一人が手を挙げた。
 「今回の船体の傷と、前回の傷を照合した結果です。」パネルをかざす。「このとおり、完全に一致します」
 「支部長。」
また別の一人が立ち上がる。「傷口を、現在判明している海洋生物のツノないしツメの形状と比較してみたのですが。」
 「支部長…」
矢継ぎ早に挙げられてゆく報告。生物部の学者たちは、これまでに独自の調査を行なってきたようだ。曰く、前回とおそらく同じ生物によるもの。海中を高速で泳ぎまわり、海上では姿を目撃されていないことから、水中でのみ呼吸する海洋生物と思われる。入江など水深の浅いところにも出没していることから、大きさはさほどでもない。だが、鉄張りの船体を一瞬で切り裂くほどの力を持つ。…
 「情報ありがとうございます。概ね、状況は理解しました」
ひとしきり学者たちの話を聞いたところで、ジョルジュは片手を上げ、話を打ち切らせた。 
 「それでは具体案に移ります。目標は、今回の事件の首謀者の捕獲、ないし追放です」
小さなざわめきが起こった。誰かが呟く。
 「捕獲するんですか」
 「正体もわからないものを、殺害しろとも言えません」
きっぱりとしたジョルジュの言葉と、沈黙。
 「船体を切り裂ける生き物を捉えるのは困難でしょうが、出来ないとは言わせません。それこそ相手はサメだと想定すれば? 解析班の備品で、大型のサメ用の檻があるはずですが」
 「あります」
一人の学者が声を上げた。「海中に沈めるか、船上に設置することは可能です。でもどうやって追い込めば?」
 「…それは」
ジョルジュは、ちらとルークのほうに目をやる。それまで黙っていたルークだったが、ここでようやく発言した。
 「うちの船がやります」
室内の視線がいっぺんに注がれるのが分かって、ルークはちょっと怖気づいたが、なんとか次の言葉を継ぐことが出来た。
 「…その。うちの船は、海竜が牽引している船なので。」
 「みな知っているでしょうが、ハーヴィ号は、我が支部の抱える最速の船の一つです。小回りもきく」
と、ジョルジュ。
 「丈夫な鉄の網も用意して、囲い込むんです。今からみなさん手分けして、近隣でなるべく丈夫な船と、動ける探検船をかき集めてください。集合は明朝7時、フォルテ港舞前。全員で海竜をバックアップして追い込みます。六時間後に中間報告を。では解散!」
会議はあっというまに纏まった。生物部の学者たち、職員たち、それに秘書のアネットも、いっせいに立ち上がって部屋を飛び出していく。ケージや網を用意するもの、近隣に通信を飛ばすもの、港に走るもの、支部内は、てんやわんやの大騒ぎだ。
 ジョルジュは、ふうと息をついて眼鏡を押し上げた。
 「君たちも、明日に備えてください」
 「はい」
ルークは、壁の海図に目をやる。最初に救助した船の位置も、ちゃんと×がつけられている。今の被害状況を見ると、そこが最も西になっていて、×は西から東へ、フォルテに近づいてきて、その辺りで蟠って留まっているようにも見えた。何故だか、嫌な予感がする。やみくもに泳ぎまわっている軌跡ではない。もっとも、そんなことは学者たちも、ジョルジュだって、とうに気づいているはず。
 だからこその、捕獲作戦だ。
 ただの怪物なら排除すればいいが、万一知的な未知の種族、あるいは群れをなして行動する生物の一種だったら。
 「…本当に捕まえられるんでしょうか」
 「さて、分かりません。ですが、この作戦には君たちの船が要となります。二重の意味で」
ジョルジュは、ルークと、そしてミズハのほうに目をやった。
 「明日は、頼みましたよ」


 支部を後にして、二人は家に戻らず、まずはジャスパーに会いに行った。明日のこともあるし、先に話をしておきたかったのだ。
 「ジャスパー」
ハーヴィ号の下に向かって呼びかけると、黒い頭が水面に現れた。ルークは、桟橋にしゃがみこんで手を伸ばした。
 「ただいま。元気にしてたか?」
ジャスパーは、鼻づらをルークの手に押し付け、一声鳴いた。
 「…どうした? 元気ないな」
 「怖いって言ってる」
と、ミズハが横で通訳する。「何かがずっと港の周りをぐるぐるしてて、落ち着かないって。」
 「鮫男かな?」
 「…うーん」
ミズハとジャスパーは会話するように視線を合わせた。
 「…わからない、ものすごく速い、って言ってる。どんな海の生き物とも違う。背中がぞわぞわする、だって。」
 「困ったな。明日、おれたちそいつを捕まえに行かなくちゃならないんだ。ジャスパーが怖いってことは、そいつデカいのかな?」
ミズハは、ちょっと考えたあと、ルークの隣にしゃがみこんだ。
 「ジャスパー、頑張れる?」
海竜は、不安げに一声、鳴いた。
 「頑張ってくれる、って。だけど、危なくなったら逃げてもいいよね」
 「もちろん。」 
 「じゃあ、明日は皆で頑張ろう。その、よくわかんないのを捕まえるんだよ。」
少女がにっこり微笑むと、ジャスパーも、少し落ち着いた様子だった。ルークは感心したように言う。
 「もう、すっかり仲良しだな。こいつ、けっこう人見知りなんだけど」
 「ふふふ」
ミズハは、立ち上がって港のほうを見た。出港が禁じられた港はいつもより静かで、活気がない。
 「さ、帰って休も。明日、朝早いんだし」
 「そうだな」
ジャスパーは、元のように船の下へ沈んでいく。心なしか海鳥たちも鳴りを潜め、波の音だけが、不規則に辺りを包み込んでいた。
 「……。」
 「どうしたの?」
不安げなルークの表情に気づいて、ミズハが覗きこむ。
 「正直に言っていいかな…」
 「? うん」
 「おれ、泳げないんだ」
ミズハは、一瞬、目をぱちぱちさせた。
 「…そうなの?」
 「うん」
 「船に乗ってるのに?」
 「そう。海辺の町育ちなのに、おかしいよな」
何故か昔から、海が怖かった。というより、泳ぐという概念が今ひとつ理解できない――と、言うべきか。いくら習っても、まず流れのある水に浮かぶということからして出来ない。
 「池や湖なら問題ないんだ。だけど、海だけは…昔から」
 「そっか。じゃあ、しょうがないね」
少女は、あっさり言う。「船から落ちそうになったら、ジャスパーかあたしが助けてあげるから心配しなくていいよ」
 「そういう事態にならないことを祈ってるけど。」
ルークは、ハーヴィ号の甲板を見上げた。祖母から引き継いで、だいぶ古くなってはいるものの、これは大事な仕事の相棒だ。だが、なぜか、以前遭遇した船腹に大きな傷を負って傾いた貨物船の姿が、脳裏をちらついて離れないのだった。


 翌朝、予定通りに港へ。
 うっすらと靄のかかる水平線に、朝日はまだ昇りきっていなかった。午前6時、普段なら町はまだ静まり返っている頃合いだが、今日は、騒ぎを聞きつけた住人たちが不安げな面持ちで港を遠巻きにして集まっていた。
 港には、大小様々な船が集っていた。近隣の町からかき集めたぶんもあり、緊急で呼び戻した支部所属の調査船もある。大きな頑丈な檻と、鉄網。作戦の中心となるルークたちのハーヴィ号は、その真中に取り囲まれていた。
 「これから作戦を説明します。各艦、通信機の波長を通達どおりに合わせてください」
入江に、ジョルジュの声が響き渡る。今日はジョルジュも、燃料で動くピストン式の動力部を積んだ大型の船に乗船して、直接現場で指揮をとるという。最も装甲の厚いその船には、ターゲットを捕獲する檻がクレーンに固定されていた。
 ルークは、手早く通信機の波長を合わせ、キャビンの入り口に固定した。救命同意を巻き、舳先から海中を覗きこむ。
 「ジャスパー、いけるか」
黒い鼻面が浮かび上がり、ぷしゅーっと水を噴き上げる。

 作戦は、こうだった。各船が沖合いに出たら、各々がターゲットを探す。補足したら網を展開し、その中に囲い込む。囲い込みに成功したらジャスパーの出番だ。
 「檻に追い込むのが一番の大役だからな。頼むぞ、ただし無理はするな」
ジャスパーは分かったというような仕草をして、水中に沈み込んだ。
 海域には他にも、海竜に牽引させるタイプの調査船が何隻か来ているが、そちらはジャスパーよりも小型の白い海竜で、気性もおとなしい。獲物を大きさで圧倒するくらいは出来るかもしれないが、攻撃されたら逃げるしかない。
 船団は、何隻か固まってフォルティーザの港を出発していく。あらかじめ決められた海域で、それぞれの担当配置に付き、回遊しながら餌がかかるのを待つ、というわけだ。
 『通信機テスト、こちらA班。応答願います』
 『こちら旗艦司令部、通信は良好です。』
 『こちらB班、敵影ありません。海鳥が低空飛行しています。』
通信機からは、周波を合わせた他の船からの声が次々と流れだしてくる。ルークたちは少し離れた沖合いにいて、岸沿いを探索する船の群れを眺めていた。謎の「鮫男」は岸に近い場所に出没することが多い。沖合いの、全体を見渡せるところに居て、どれかの船がターゲットを見つけたらすぐに急行できるように、という位置取りだった。
 もっとも、理由はそれだけではないのだが。

 海鳥が、すうっと通り過ぎていく。
 「…何もいないのか?」 
 「今のところ。」
この位置なら、甲板の上に立つ少女の翼に気づかれることは、まず無い。
 海域を低空飛行している海鳥のいくらかは、実はミズハの出したものだった。この辺りにもよくいる海鳥と姿形はほとんど同じなので、誰も気がついていない。鳥たちは海面に近い場所の異変ならすぐに見つけられるはずだ、と彼女は言う。反応がないということは、この辺りにはいないか、よほど深い場所に潜っているのだろう。
 沖合いからの朝の海風に乗って、ミャウ、と本物の海鳥が、鳴きながら通りすぎてゆく。
 ルークたちのいるところは、一番沖合いだ。通信機から聞こえてくる声以外は、風の音だけ。遠くを忙しなく行き交う船の喧騒も、ここまでは届かない。ミズハは船尾で潮風に栗色の髪を散らしながら、鳥たちの舞う姿を見つめている。あまりにも静かだ。気を抜いてはいけないのに、つい気が緩みそうになる―― 

 と、その時だった。
 船のすぐ近くで、不自然に大きな波が立つのが見えた。海面に白っぽい何かが浮いている、と思った瞬間、それが、一直線にこちらに向かって突撃してくるのが分かった。
 「まさか…あれ!」
ルークは、振り返って通信機に向かって叫んだ。「こちらハーヴィ号。不審な物体が接近… うわっ!」
 左舷に何かがまともにぶつかり、その衝撃で船が大きく揺れた。がりがりという金属を引きちぎるような重たい音。
 『こちら旗艦司令室。ハーヴィ号、何があった。応答せよ』
 「…っ」
床に叩きつけられて滑り落ち、すんでのところで甲板から投げ出されそうになったルークの体を捕まえたのは、ミズハだった。波しぶきが傾いた船の甲板を洗う。通信機は、辛うじて固定された位置で保たれている。
 「こちら旗艦司令室。ルーク!」
 「こちらハーヴィ号っ」
ルークの腕を掴んで波に逆らうように翼をはためかせながら、ミズハが怒鳴る。「船が沈みそう! 重たくて、あたしだけじゃ持ち上げられな…っ」さらに船が揺れ、大きな波をかぶってミズハの声が途切れた。「…っぷ。体当たりされてるの! ルー君が落ちちゃうっ」
通信機の向こうで息を呑む音がした。
 「すぐに救援に向かう。高速船、海竜挺はただちにハーヴィ号の支援に!」
揺れが少し収まったようだ。ルークは、ようやくのことで体制を立てなおす。見れば、水面近くで白っぽい何かと、黒いジャスパーの首とが絡むように揉み合っている。
 「ジャスパー!」
ハーヴィ号は大きく傾いたままだ。キャビンの床下でゴポゴポと音がする。船体に穴が空き、浸水している予感がした。
 「…くそっ。」
海竜が牽引している船をわざわざ襲いに来るとは、思っていなかった。知能がある相手なら、大量の船に恐れて姿を見せないか、海底を沖合いに脱出してほとぼりが冷めるのを待つかすると踏んでいた。相手が知的生物ではなかったか、或いは、襲いやすい船ならどれでもよいという思考の持ち主だったのか。
 考えが甘かった。完全に相手の行動を読みそこねたのだ。
 「ルー君、船の屋根に登って!」
スカートを絞りながら、ミズハが怒鳴った。
 「もう怒った!」
彼女の周囲には次々と、白い光に包まれた海鳥たちが現れる。周辺の海域に散っていた鳥たちも集まってきて、船の周りは、まるで鳥たちの渦巻きの中だ。
 水面では、まだ2つの生き物が絡み合ってもがいている。
 「ジャスパー、離れて!」
ミズハは水面に狙いを定めている。「そこっ」
 黒い海竜の首が外れたのを見さだめて、少女は海面を指さした。空中に舞い上がった海鳥の一団が、まるで滝のように海面に鋭いくちばしを突き立てる。ぱっ、と赤いものが飛び散ったものの、白っぽい何かは素早く水中に逃れ、そのまま姿を消してしまう。
 「仕留めたか?」
 「だめ、速い。間に合わない」
ミズハですら驚きを隠せない。「…こんな速い生き物、初めて」
 ずずん、と再び船に衝撃が走った。屋根の上にいたルークは、滑り落ちそうになって出っ張りにしがみつく。ジャスパーが声を上げた。高々と上げたヒレの先がすっぱりと切られている。
 「ジャスパー!」
今やルークにもはっきりと分かった。
 明確な敵意。
 謎の生物は、「この船を」狙ってきている。ルークの背中に冷たい汗が流れた。
 ぐいぐいと押し付けるような波が、甲板を洗い、船をひっくり返そうとしている。
 「このっ」
ミズハの海鳥たちが波の中に次々と突入していく。そのたびに敵はさっと水中に逃れてしまい、追撃することが出来ない。相手も無傷では済んでいないはずだ。鉄網を張り巡らせた船が周囲に迫ってきている。海竜たちの援軍は、もう声が聞こえるところまで来ている。
 にもかかわらず、海中に潜む何者かは逃げようとする素振りすら見せず、執拗にハーヴィ号の周囲にとどまり続けている。
 ついに、包囲網の中にジョルジュの載る旗艦が姿を現した。
 「ルーク、ミズハ!」
甲板に現れた男は、傾いたハーヴィ号の屋根にしがみつくルークと、その周囲の赤黒く染まる海面に絶句した。
 「ジャスパーが戦ってるんです。でも傷を負って…」
波をかぶりながら、ルークは叫んだ。「この船を狙ってきてます。海竜で追い込むのは無理だ。この船ごと囲んでください!」
 「し、支部長」
ジョルジュの後ろから、ついてきた生物学者が恐る恐る、船の上を旋回する夥しい数の鳥と輝く翼をもった少女を指さした。
 「あれは…あの、あれは一体…」
 「あとで説明します。」
やはり拙いことになった、と思いながら、ジョルジュは務めて冷静を装った。
 「あの子は私の預かりもので、味方です。目標の補足は?」
 「あ、はい。船の周囲をかなりの速度で動きまわってます。海底までは十五メルテ、網は閉じました。大丈夫、このまま引き上げればいけます」
ハーヴィ号の周囲を囲む船は、網を巻きとりながら、次第に距離を詰めてゆく。海竜たちは、網をゆるめた場所から逃がされる。傷ついたジャスパーも同様に。網の中には、不運にも取り残された魚たちと、目標の謎の生物しかいないはずだった。網の底が見え始め、追い込まれた魚たちが水面を飛び跳ねて大騒ぎしはじめた。目標は…まだ見えない。この状況でも、一番深い場所に用心深く隠れているのか。ミズハは、まだ臨戦態勢のまま空中から船の周りに視線を配っている。
 「檻を降ろせ!」
水面に檻が吊るされる。このまま網をスライドさせ、中に捉えた生物を攫えば、ここ何週間か海を荒らしていた恐怖の主が明らかになるはずだった。すべての船員たちが、固唾を飲んで見守っている。あと少し。ようやく、魚たちの群れの奥に、ひときわ大きな、何か異質なものの姿が見え始めた。サメ…のような形状をしているが、サメではない。長く尖った尾と、水面に角のようなものが見えた、次の刹那。
 網が大きく激しく揺れ、魚ごと、水がはじけ飛んだ。
 「うわ、あ、あっ」
 「目標が逃げるぞ!」
悲鳴が上がる。ジョルジュは甲板の手すりを握りしめ、思わず身を乗り出した。
 だが、その生き物が跳躍したのは、予想もしなかった方向だった。
 網の外ではなく、ハーヴィ号の甲板へ。そして、トカゲのような素早い動きで、屋根へと続くハシゴを駆け上ったのだ。
 「…!」
逃げる間もなかった。
 予想もしなかった攻撃に、ルークは、成すすべなく後ろ向きに突き倒された。背中から叩きつけられ、気がつけば物凄い力で屋根に押し付けられている。肩に痛みが走った。人のような腕が、爪を食い込まれている。目の前には、ぽたぽたと海水を滴らせる、生臭い顔があった。半魚人、そう呼ぶしか無い白くのっぺりした顔の左右には、黄色く濁ったトカゲの目が、真正面からじっと見据えていた。
 「ミツ…ケタ…」
サメのような細かな歯が並ぶ口が、かぱりと開いた。食べられるのか…、呆然とした頭の片隅に恐怖が呼び起こされるより早く。
 頭上から降り注いだ輝きが幾条も、鮫男の体を貫き、引きはがした。
 「ルー… ル… ド……!」
後ろ向きに崩れ落ちてゆきながら、それは、絞りだすように叫んだ。
 嗄れた、耳障りな声。
 何故だか、その声を、ルークははっきりと聞き取ることが出来た。脳裏にずきりと走る痛み。フラッシュバックする濁った目。
 「ルー君!」
意識が遠のく。ミズハの声に答えようとするのに、体が動かない。
 「ルー君っ!」
急降下してきた少女の手が触れる直前、糸がふつりと切れるように、意識が途切れ、周囲は暗転した。
 暗い海の底へ沈んでいく。どこまでも。
 ――どこまでも。



 聞いていたのは、波の音ではなかった。
 雨の音、たぶんそうだ。それもほとんど音を立てず、静かに、声を上げずに鳴く女のように降り続く雨。灰色の谷には夥しい生き物の骸が積み重なり、おそらく足元には血が、今は泥水に紛れて判別のつかない赤が流れている。空は見えない。暑く垂れこめた雲。谷はどこまでも続く。谷に沿って、惨劇の跡も続く。
 歩いているのか、飛んでいるのか、風景は流れてゆくのに動くものは何一つ無く、ただ空虚な雨の音だけが、谷間を満たしている…。


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