町フォルティーザ


 結局、目的の南西諸島へ付いたのは次の日の昼過ぎてから。
 急いだとはいえ並の船の半分以下の時間で辿り着いたのだから、ジャスパーはいつになく頑張ってくれた。
 「すまない、あと少しだから」
ルークが船首から覗きこむと、さすがに少し疲れた様子のジャスパーは、波間に顔を出して力なく一声、鳴いた。
 低いところに雲が流れているが、空は快晴。風も殆ど無く、波は穏やかだ。目の前には、緑を乗せた島々が幅広く連なっている。
 「…さて。」
ルークは、腕組みをした。「どの島から回ればいいのやら。」
 「取り敢えず、どれか港のある大きな島へ行ってくれ。そこで聞き込みをしてみよう。地元の人なら、知っているかも――」
 「船員の名前は、モーリス…なんだっけ」
 「モーリス・チャック」
 「そう、その人。」
アーノルドの話では、エレオノール号は、未知の海域からフォルティーザに寄港する前、この諸島のすぐ側を通過する航路だったのだという。モーリスはこの島の出身で、一年にも及ぶ長旅のあと、少しでも早く家族に会いたいからと、通りかかった仲間の漁師の船に飛び乗って帰っていった。その数日後、エレオノール号が安全なはずの海域で全焼しようとは、途中下船したチャック爺さんは知るよしもない。

 島の辺りは漁場になっているらしく、網を垂れる船があちこちに見られる。それぞれの島に家があり、島と島の間は、ほとんど歩いて渡れそうな狭い箇所もあった。
 「ミズハ」
 「なあに?」
のんびりと海を眺めていた少女が、振り返る。
 「どの島に行こうか。」
 「あたしが決めていいの?」
ルークは頷く。頼りになりそうなものといえば、彼女のカンくらいだ。 
 「そうだなあ…。」
ミズハは、あっさりすぐ目の前の島をさした。「近いし、そこかなー」
 「…まあ、手近なところから行くほうがいいよな」
ここまで大急ぎで泳いだのだから、ジャスパーも疲れているはずだし、手近な島に錨を下ろすのは悪い選択ではない。
 ルークが船を付けさせると、アーノルドはすぐさま桟橋に飛び降り、港で働く地元の人々のほうへ突進していく。
 「悪いものは、感じないのか? 海鳥たちが何か言ってたりしないか」
 「特に無いよ。何かあるの?」
 「いや、その可能性も…ってだけだ」
ミズハも、ひょいと船のへりから飛び降りる。ジャスパーは、目立たないよう船の真下の影に、するりと隠れてしまった。”協会”の支部のある町ならともかく、こんな小さな片田舎の港では、まだ海竜は珍しいからだ。
 ルークは、船を降りる前に港を見渡した。周囲を見る限り、まだ本部から来たらしい船の姿はない。先回り出来たということだろうか。
 「おおい!」
向こうでアーノルドが手を振っている。「見つかったぞ。隣の島だ! 橋でつながってるって」
 「…らしい。」
ルークたちが来るのを待ちきれず、アーノルドは、転びそうになりながら、もう通りを駆け出している。よたよたと走っていく青年の後ろ姿は、少し滑稽でもある。島の人々も、くすくす笑いながら道を開ける。少し遅れて、ルークとミズハも後を追った。

 目的の家を含む集落は、狭い水路の上にかけられた浮き橋を渡ったすぐ先にあった。小さな入り江には、仕事を終えた漁船が並べられている。
 「こ、この辺りのはずなんだ。」
アーノルドはすでに息を切らし、眼鏡を外して汗を拭っている。
 「聞いてみよう」
ルークは、すぐ近くの家の前で焚き火をしてゴミを燃やしていた老人に話しかけた。その間に、ミズハは、ポケットからハンカチを取り出してアーノルドに渡している
 「アル」
ルークが戻ってきた。
 「はあ…はあ…。」
 「この人みたいだぞ」
 「はあ… えっ?!」
眼鏡をかけ直し、アーノルドは慌てて振り返る。火をかき回す手を止めて、こんがりと海焼けした、いかにも海の男風の逞しい老人は、怪訝そうにひょろりとした青年を見ていた。
 「なんじゃい、わしに用事というのは。」
 「あの、失礼、あなたがエレオノール号の船員だったモーリス・チャックさん?」
 「だった、じゃない。まだ定年になっとらんわ。」
モーリスは、むっとした表情で言いながら、屈めていた腰を伸ばして家の扉のほうへ歩き出す。
 「あんたら、本部の人間かね。」
 「そうです。話せば色々とあるんですが…その、後から正式な依頼は来ると思うんですが」 
 「回りくどいな。ちゃっちゃと話せ」
言いながら、家に入っていく。アーノルドは、モーリスを追った。ルークとミズハも、顔を見合わせ、後ろに続く。
 ようやく息の落ち着いてきたアーノルドは、とにかく単刀直入に、手短に事の次第を説明した。エノオノール号が全焼したこと。原因は積荷の鉱石の中に混じっていた未知な生命体ーのようなもの―であること。それらは危険として処分される。モーリスが土産として鉱石のいくばくかを持ち帰っていたことを聞き、調査した上で廃棄したい――ということ。
 話を聞き終えて、モーリスは首を振った。
 「…信じられんのだが、あのエレオノール号が燃えただって? 船を降りたのは、ついこの間だというのに」
 「僕らだって、信じられませんよ。鉱石から何か出てくるなんて誰も予想もしていなかった。でも事実なんです。その場にいたんですから」
 「…あの石が、ふむ」
モーリスは、若者たちにしばらく待っているように言い、二階に姿を消した。やがて戻ってきた手には、無造作に布に包まれた小さな石の塊が握られている。
 「わしが持ち帰ったのは、これだけだ。」
 「み、見せて貰えますか」
アーノルドは慌てて手袋をはめ、震える両手で大事そうに石を受け取った。光にかざし、透かし、じっくりと眺める。
 「うむむむ」
 「どうなんだ?」
 「見た目はどう見ても… どう見てもただの溶岩だ…。有機物には見えない…」
言いながら、ポケットから拡大鏡を取り出す。横から見ている限り、ルークの目にも、それはただの溶岩石の塊にしか見えなかった。表面によった皺は冷えた時に出来たものだろう。少し変わっているといえば、石の真ん中に異質な半透明の石が埋め込まれているところだ。その部分は赤っぽく、明らかに地の石とは異なっている。だが溶岩が冷えてできた石には、別の石が埋まっていることなど良くあることは、支部に保管されているサンプルを見ているから知っている。
 叩いてみたり、持ってきた試薬につけてみたり、小一時間も過ぎただろうか。
 ついに諦めて、アーノルドは石を手放し、テーブルの上に置いた。
 「何もないよ。これはただの火山岩だと思う。真ん中の石だけは成分が分からないけど…」
疲れた様子で、彼は手袋を外した。
 エレオノール号が持ち帰った石も、すべてが生き物に変わったわけではない。この石は、ただの石なのだろう。ルークもそう思った。
 「だが、今回持ち帰ったサンプルは全て廃棄することに決まったんだろう。」
 「ええ。」
 「なら、本部の決定にゃ従わんとな。」
言いながら、モーリスは元通り、布で石を包んで掴んだまま、表に出ていく。「土産のつもりだったが、仕方ないな」
 老人は、戸口でまだパチパチと音を立てて燃えている焚き火の中に包布ごと石を突っ込んだ。ぼっ、と音を立て、炎が石を包み込む。アーノルドは肩を落としている。
 「すいませんでした、急に押しかけたりして」
 「なに、何もないほうがいいんだ。それにしても、船が燃えちまったってことは… 船員たちは? 仲間たちは無事なのかね。修復には人手がいるんじゃないのかい」
 「その辺りの話は、追って沙汰が来ると思いますが――」
アーノルドとモーリス老人が戸口で話している間、ルークは、外に出て待っていた。
 きらめく水平線の向こうに、浮かぶ小船の背が見える。この島の住人たちは、昼間はほとんど海に出払っているらしく、低い屋根を寄せ合う家々の間は静かだ。家の前はすぐ海になっていて、いつでも船を漕ぎ出せるようになっている。この辺りには、あまり嵐がこないから、このくらい波打ち際に近くても大丈夫なのだろう。

 日は、天頂を過ぎている。いい加減、そろそろ本部からの船が来る頃だ。
 面倒なことになる前に、島を離れたほうがいいかもしれない。
 「アル、そろそろ…」
言いながら振り返ろうとしたとき、側の焚き火の中で、ばちっ、と大きな音がして何がはぜた。
 「えっ…」
 「ルー君!」
振り返るより早く、ルークは突き飛ばされていた。「あぶないっ」
 砂地に勢い良く突っ込んだルークの頭上を、熱い空気が掠める。
 「ミズハ、何す…」
起き上がろうとしたルークは、袖が焼け焦げていることに気づいて、ぎょっとした。シュウシュウと音を立てながら、それは、さっきまでルークの立っていたあたりを転がりまわていた。赤く熱された石の塊が、少しずつほぐれながら形を作っていく。
 「うわ、わ…」
アーノルドは口に手を突っ込んで、言葉も出ない。
 「ど、どうして。さっきまで、ただの石、石だっ」
モーリスも絶句していたが、さすが年の功、すぐに正気を取り戻して壁に立てかけてあったスコップをむんずと掴んだ。
 「ええい、この!」
叩きつけようとする一撃を、石は転がって器用に躱した。尾のようなものが現れ、さらに両手両足。真ん中の赤い石が眼のように輝いて、それは真っ黒な石のトカゲのようになった。
 あの夜、港で見た生き物とそっくり――。
 「貸してっ」
ミズハは、モーリスの手からスコップを奪い取る。彼女の動きは素早く、そして、的確だった。誰の思考よりも。
 「ていやー!」
一声とともに、彼女は誰も予想しなかった行動に出た。すなわち、石の生き物を側面からふっ飛ばして、海に叩き込んだのだ。


 一瞬の出来事だった。

 硬い音がしたかと思うと、黒い塊が円弧を描き――水しぶきとともに、ちゃぽん。という音。
 ジュウっと水蒸気を上げ、石はもがきながら水の中に消えた。ルークでさえ、ぽかんとしたまま、動かない。
 「ちょっ…ミズハ」
 「熱いんでしょ?」
少女は、胸を張る。「冷やさなきゃ。」
 「そ――それはそうだけど」
言いかけて、ルークは、はたと気がついた。
 「…そうか。火の中に放り込んだら、あの石は生き物の形になった」
砂を払いながら立ち上がる。「港にあれが現れた時も、船が燃えていた。…もしかしたら、熱が関係しているのかもしれない。」
 呆然としていたアーノルドの目が、眼鏡の奥で正気を取り戻す。
 「熱で、石から変化する生き物だと?」
 「たぶん。」
ルークは、アーノルドの肩にぽんと手を置いた。「あとはアルの出番だ。」
 「あ、うん…。」
赤毛の青年は、ふらふらと波打ち際に近づいた。
 「もしそうなら、あの石を探さないと。海水で冷えたなら、元に戻っているかも…」
呟きながら、並の奥に目を凝らした。岸に近い辺りは浅瀬になっている。
 ルークは、ミズハと顔を見合わせた。ここは彼一人で十分だろう。
 「おれたちは、先にフォルテに戻ってる。」
波間で必死に石を探すアーノルドを置いて、二人は島を後にした。すれ違うようにして、甲高いエンジン音を響かせた小型の船が一隻、島に向かってゆくのが見えた。新型の高速プロペラを積んだ船が、他にあるはずもない。本部からの伝令船だな、とルークは思った。ハーヴィ号も快速船とは言われるが、あくまでそれは長距離の外洋においてのこと。瞬間的な短距離の速度なら、燃料とエンジンを積んだ最新式の船には到底、かなわない。


 危ないところで”説明”という厄介な仕事を免れたルークたちは、穏やかな海を元来た航路へ乗り出した。波は、往路より少し高くなっているが、天気が崩れる気配はない。
 島はもう、はるか背後に遠ざかっている。急ぐ必要もない旅だ。ルークは、袖の焦げたシャツの燃えた部分を調べていた。酷い焦げ方をしているが、腕の皮膚は傷ついていない。あの時ミズハに思い切り突き飛ばされたお陰で、すんでのところで火傷せずに済んだようだ。
 「あの石、何だったんだろうね」
ミズハは、納得いかなさそうな顔でキャビンの椅子に腰を下ろしている。
 「それは、これから調べるんじゃないか。」
 「生き物…なのかな?」
 「分からない」
上着を羽織りながら、ルークは首を振った。「動きは動物みたいに見えたけどね。もし、そうだとしたら――」
 白い波が船体で砕け後ろの海に尾を引いてゆく。陸地から離れて航行するハーヴィ号の周りには、他に船はいない。
 「あいつらは、遠い大陸から知らない土地に、無理やり連れてこられた、ってことになるのかな。訳も分からず、眼を覚ましたら閉じ込められていて…、もしそうだとしたら、暴れたくなるのも分かる」
 「考え過ぎだよ。」
ミズハは、あっさり言う。「あれは、そんな心なんて持ってないよ。言葉も通じないし」
 「…そうなのかな」
 「そうだよ。」
ルークは、キャビンの外に目をやった。
 「…ジャスパーの時も、そう言って反対されたって、グレイスは言っていた」
 「グレイス?」
 「おれの、お祖母さん。この船の前の持ち主さ。君のお父さんほどじゃないけど、そこそこ有名だったらしいよ」
グレイスは、未知な領域を次々と開拓し、数々の新種を発見し、その生態を解明した海洋生物学者だった。特に、人間にとっては驚異的な害獣とされていた海竜の生態については権威で、はじめてその飼育に成功し、海竜との共存を可能にし、人類にとっての益獣に変えた人物でもある。
 「白い海竜は大人しくて、そんなに難しくはなかったらしい。でもジャスパーと同じ黒い海竜は凶暴で力が強くて、頭が良いぶん簡単には懐いてくれなかった。ジャスパーを町で育てようとした時も、一度暴れだせば殺処分するしかない、と、最初は反対されたらしい。」
 「なんで、そんな! お話すればいいのに」
 「おれたちは、君みたいに海の生き物と話すすべを持ってないんだよ。でも、言葉が通じなくても、ジャスパーは、ただの獣じゃない、…だろ?」
 「……。」
 「見た目とか、言葉とかだけじゃ、分からないと思うんだ。おれは、全ての生き物には生きる権利があると思う。出来れば傷つけたくないんだ。もし、出来るんなら…」
少女の視線が、じっとこちらに向けられているのを感じる。語りながらルークは、次第に恥ずかしくなってきて頬をかいた。「いや、ミズハが悪いってわけじゃないんだ。今回は、その。仕方なかったし、あれがどんな生き物かはまだ分からないんだし…」
 口ごもっていると、少女は、ひょいと椅子から飛び降りた。
 「ルー君ってさ。優しいんだね」
 「いや…」
 「そういうとこ、お父さんに似てるかも。ふふふ」
笑いながら、少女は甲板に出ていく。船首から海の中を覗きこんで、ジャスパーに話しかけている。ルークは、なんとなく恥ずかしくなって奥の部屋に引っ込んだ。

 ”未知なるものと触れ合う時は、それらを受け入れる心が必要だ”

祖母は、口癖のようにいつもそう言っていた。自分は、どこまでその言葉に従えているだろうか。



 少し風が出てきた。

 船が大きく揺れたのに気づいて、船室にいたルークは窓の外に目をやった。三角の波の頭が白く見えているが、速度を落とすほど高くはない。遠くに見えている岬は、行きにも通った場所だ。航海は順調。航路も外れていない。壁に貼った海図に指を走らせる。
 何も気を引くもののない、平和な航海――のはずだった。
 異変は、その時起きた。
 突然、机の中からブブブブ、と小さな振動音が響いてきた。ルークは弾かれたように椅子から立ち上がり、引き出しを開ける。音をたてているのは通信機だった。振動で、特徴的なリズムを繰り返している。ネジを巻かずに蓋をあけると、蓋の裏側の魔石は、ふだん通信する時とは違う色に輝いていた。
 「何? どうしたの?」
キャビンにいたミズハが顔をだす。 
 「救難信号だ。この近くにいる」
振動は、繰り返し続いている。ルークは壁にかけてあった遠望鏡を掴み、キャビンに駆け出した。救難信号に応じるのは、受信したすべての船の義務だが、それ以上に、生命の危険にあるかもしれない船を放っては置けない。
 「船が遭難してるの?」
 「ああ。あの信号は、緊急時に通信を全周波帯に向けて出力してる時のものなんだ。広域通信が届く範囲は、半径2ケルテ。」
 「手伝おうか?」
一瞬迷ったが、緊急事態だ。目立つからいけない、などと言って居られない。
 「頼む」
その返事とともに、ミズハは、すっと背に翼を広げた。と同時に、彼女の周囲に白く輝く海鳥の群れが現れる。
 少女が視線をやると、鳥たちは微かな羽音を立てて海風の中を四方に散ってゆく。
 「探してくるね」
そう言って、本人も甲板を飛び立つ。ルークは、遠望鏡を手に波間に目を凝らした。近くに船の姿は見えなかった。ここから見えないとすると、沖合いの、ぎりぎり通信が届く辺りかもしれない。
 彼は船首まで駆け下りて、海面に向かって叫んだ。
 「ジャスパー」
海竜が、黒い頭をもたげる。
 「どこかに遭難者がいる。もう少し沖合いに出てみてくれないか。」
近づけば、救難信号の強さは変わる。船室に戻り、石の輝く色を確かめた。しかし、振動はさっきよりずっと弱まっている。通信機の出力には限界があり、一定時間をすぎると途切れてしまい、しばらく経たないと復活しない。あるいは、最悪の場合だが、既に船が沈みつつあり、水面からの距離が遠くなっている可能性もある。
 嫌な予感が頭をよぎった時、頭上に羽音がした。
 「見つけたよ」
ミズハの声だ。ルークは、甲板に駆け出した。「どこに?」
 「あっち。案内するよ」
くるりと弧を描いて向きを変え、ミズハは波の上を飛んでいく。ジャスパーがその後を追う。まもなく行く手に、波をかぶって傾き、半ば沈みそうになっている小さな漁船が見えてきた。ミズハの海鳥たちは、その上に集まって旋回している。
 「中に誰かいますか?」
船を寄せ、甲板に向かって叫ぶが、返事はない。船体は脇腹を何かにえぐられて、ひどく傷ついていた。大きな凹み。鋭く抉れた、三本の傷あと…。
 「ルー君、ここ。」
ミズハが先に甲板に降り立っている。彼女は屈みこんで、倒れていた人物を支えて立ち上がらせた。船の持ち主だろうか、壮年の船乗りが一人。頭を押さえている。転んで打ち付けたのか。
 「大丈夫ですか? 怪我を?」
 「ああ… ちょっと気を失ってただけ…」
 「こちらへ移ってきてください。船が沈みそうなんです」
ジャスパーは、ハーヴィ号を目一杯まで傷ついた相手船に寄せた。ミズハが支えて、船の間を渡した板を渡らせる。その後ろで、船は傾き、ゆっくりと波間に船体を浸していった。
 男は、ひどく頭を打ち付けたらしく、額に大きな瘤を作っていた。他に船員はいないという。ひとまず救出はこれで終了だ。
 「すぐに港に戻ろう」
海図を確認する。、ここから一番近いのは、母港フォルティーザの町だ。
 「ジャスパー、ごめん、急ぎでフォルテに戻ってくれ。怪我人がいるんだ」
海竜は頷いたが、何処か普段とは様子が違った。用心するように周囲を何度も見回し、不安げに潮を吹き上げる。ミズハが反応し、眉をひそめる。
 「…何かいるみたい」
 「調べるのは、後だ」
言いながら、ルークは、波間に姿を消しつつある船の脇腹に刻まれた、特徴的な三本の傷跡をしっかりと目に焼き付けた。岩に衝突した跡でないことは明らかだ。この辺りに暗礁はない。
 船は動き出した。ルークは手早く、同じ広域通信で「救助終了」の信号を流す。流しながら、船体の傷跡を脳裏に思い浮かべていた。
 よく似た傷跡を、数年前に写真で見たことがある。未知な生き物に、この辺りの海で船が無差別に襲われた事件。犯人は姿を消し、事件は未解決のまま収束したはずだったのだが。


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