鳥の舞う島


 半開きにした窓からは、穏やかな潮騒が満ちてくる。午前七時、空は澄み渡り、風速は三メルテ。

 揺れる船の上、ルークはいつものように手帳ペンを走らせている。
 もう何ヶ月も整えていない灰銀の髪は乱雑に顔の左右に押しのけられ、もともと白い、日焼けしづらい顔も、海の日差しで少しは小麦色に近づいた。少年と大人の狭間にある何処か幼さを残した表情も、今は真剣そのもの。計測器は正常。座標は昨日とほぼ同じ。窓の外に目をやる。そこには、昨日までと変わらず、巨大な壁とも見まごう岩の塊が、静かに海表面に浮かんでいた。
 まとわりつく濃厚な乳白色の霧を従えて青空に堂々と浮かぶ、黒々とした、巨大な一塊の岩山。
 それが、この船の――、 調査船「ハーヴィ号」の、今回の調査対象なのだ。

 頭上を舞う鳥たちに視線をやり、ルークは、その動きを目で追った。
 初めて海鳥を見つけたのは一週間ほど前のこと。長い白い翼を持つその鳥は、本部に電信した写真鑑定では「ほぼ間違いなく新種」と判明している。長距離を飛ぶに適した翼を持つ種類に見えたが、だとしても渡りをしている飛び方ではない。この周囲百ケルテ以内には、海鳥たちが宿営している陸地があるはずだった。まだ誰も、この海域の正確な海図を記していない。海鳥たちの宿営場所があるとしたら、未知なる島のはずだった。
 そうして、鳥たちの翼の跡を辿って、ようやくこのポイントにたどり着いたのだった。昨日は見えなかったものも、今ならはっきりと見える。
 目指していた島は、かなり大きな陸地に見えた。それも驚くべきことに、最も有り得ない場所にそれは存在した。
 ――浮かぶ、巨大な岩の真下に。
 岩は、上の方は白く靄がかって青い空の彼方に消えている。彼はこの岩を探してここまでやってきたのだ。海鳥たちの島は、文字通り岩の真下、近寄らなければ絶対に気づかないだろう場所に、低く薄く、海水面とほぼ平行に広がっているように見えた。

 と、ふいに風向きが変わり、霧の流れる方向が変わった。風に合わせて向きを変え、海鳥たちが舞う。
 風速六メルテ、南南東から北北西へ。ルークは、いったん止めた手を再び動かし、素早く状況を計った。「闇の海」の入り口に接するこの海域は、海図に記された範囲の中でも特に難所と言われ、一瞬ごとに風向きと風の強さが変わってしまう。さきほどまで鏡のようだった海の表面には白い波角が立ち始めている。ハーヴィ号も大きく揺れたが、すぐに落ち着いた。この船は風に頼らず海を奔り、どんな波もものともしない。この船でなければ、ここまで調査対象に近づくことは出来なかっただろう。

 だからこそ、彼は此処にやってきた。
 まだ年若いルークに、この危険な調査航海が許可されたのは、ひとえに、彼がハーヴィ号を扱えるこの世で唯一の人物だったからだ。

******

 ルーク・ハーヴィは、”未開地学者”だ。

 冒険家のようなものだと世間的には理解されている。地図が作られていない、或いは何らかの事情で載っていない”未開地”を順繰りに巡って調査・研究する職業のことで、ただの冒険家と違うのは、国家の援助を受けた公職にあること。船の元の持ち主だった祖母グレイスの指導のもと、若干十七歳のルークは、これでも複数の学位を取得している資格十分な学者だ。この調査も、彼の所属する”協会”及び国家連邦の支援と勅命を受けて行われている。今も通信機の向うでは、本部の面々が定時連絡を首を長くして待っているはずだ。
 ルークは、ひと通り測量を終えると、ペンを止め、椅子を回して引き出しを開けた。小さなオルゴールのような小箱を取り出し、机の上に固定する。ネジを巻いて蓋を開くと、蓋の裏側にある虹色に輝くすべらかな鏡のような魔石が輝いた。
 「――こちら、調査船ハーヴィ号。ルークです。本部、応答願います」
 『はい。こちら本部。エリザです』
聞き慣れた、良く響く済んだ声。ハーヴィ号との通信を受け持っている本部の担当者だ。
 「航海は順調。こちらは快晴です。少し風が強まって来ましたが十メルテは越えていません。海鳥の"巣"を見つけました。上陸の許可を」
一瞬、息を呑むような間があり、通信機の向こうでぼそぼそと会話する気配があった。
 『確かですか?』
 「ええ、目視できています。起伏はなく、ここから見えるのは海抜数メルテ程度の陸地ですが――見えている限りでは、島幅は…五〜六ケルテといったところ。”霧の巣”の真下です」
 『真下…』
 「電信で送ります。」
そう言いながら、実はこの通信を始める前に今朝の大岩の写真は送信済みだった。ここから本部まで、映像のやり取りに半時間はかかる。今日の写真は我ながら良く撮れた、とルークは思っていた。青い空に、乳白色の輝く雲を纏いながら浮かぶ黒々とした大岩。不思議を詰め込んだようなその岩は、未だ誰も知らない秘密を抱えて浮かび続けているのだった。
 『――わかりました。こちらで審議します。指示をお待ちください』
通信が途切れた。今すぐにも島に接近してみたいところだったが、気長に待つしか無い。まどろっこしいことだが、本部の許可なく未開地へは踏み入れない、というのが、国家の支援を得て行われる”未開地学者”の絶対のルールだった。世界が大きく変わってしまってから、まだ歴史は浅い。人類の知る世界はいまだ狭く、その力は弱い。不用意な接触は避けるべき、というのが、国家連邦の方針だった。

 およそ百年前、最後の戦争が終わった。

 この世界が何度大きな戦いや災害を経験してきたのか、正確に覚えている者はおそらくもう居ない。だが前回の、そして最後の大きな戦いである「神魔戦争」は、千年近く続いたことがわかっている。”神と魔王が戦った”とは、言い伝えの中の比喩にしか過ぎず、結局のところ何が起きたのかは未だ謎のままだ。
 戦争は、世界を大きく変えてしまった。
 それ以前の歴史は大半が失われ、地理学、天文学、魔法学、宗教、その他あらゆる学問が無意味と化した。もはや、かつての世界地図は使えず、世界の法則も、生物も、何もかもが未知なるものへと変化した。生き残った人々は、世界の地図さえないままに、未知なる大海に放り出されたも同然だった。
 戦争が終わっていらい、あらゆる学者と呼ばれる種の人間たちが、それぞれの特異とする分野で、眼の前にあるこの「世界」の新しいことわりを調査し直し続けてきた。いま目の前にある浮かぶ大岩のような誰にも説明できない不思議な光景も、世界中のかしこにある。それが何時、どのように作られ、どうしてそこにあるのかは、これから知っていくしかない。
 ”未開地学者”は、いわばそうした学者たちの先鞭をつける役目を担っている。未知の世界に地図をひき、可能な限りの情報を集めて報告すること。そして、今回のルークのターゲットが、二十年前に一度報告されたきり、以降だれも確認することの出来なかった「浮かぶ岩」――”霧の巣”と、その周辺海域なのだった。


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