◆9


 夜明けを待たずして、金の髪の子供は床の中で目覚めた。
 それは、小鳥たちが、まだ暗いうちから巣穴の中で目を覚ますように、寒さに震え、羽毛を膨らましながら、陽が地平に近づき、不可視の闇を追い払うのを切望するように。白み始めた空に張り出した枝の影が、窓辺に浮かんでいる。
 傍らの男は、かすかに身じろぎしただけで、まだ半分、眠りの中にいる。ここには敵意あるものも、近づいてくる野の獣の気配も存在しなかった。あるのは、ただ、死を間近にしたような静寂だけ。城の人々が目覚めているのか、この、広い館の中のどこかに、今も生きた人がいるのかすら、おぼろげだ。
 壁には、重々しい金の額縁がかけられ、その中には、今はもう遠い昔となってしまった幸福な時代の笑みをたたえた貴婦人が、過ぎ去りし時を留めたまま、佇んでいる。

 子供は、与えられた上等な夜着の裾を引きずって、音を立てぬよう寝台を滑り降りた。暖炉には、まきの燃えかすが仄かなぬくもりをたたえて、まだ燻っている。高い天井、分厚い絨毯。そこは、森とは何もかもが違う。
 物言わぬ彫像たちと、何か言いだけに見つめる肖像画と、その間にわだかまる重い沈黙と。

 こつ、こつと足音が廊下に響いた。途端に、グウィディオンは目を開き、ベッドの上に半身を起こした。
 「スェウ?」
その時、子供は窓辺にいた。呼ばれて振り返り、ちょっと首をかしげる。
 「もう起きていたのか。床は冷たいぞ。おいで」
時を同じくして、誰かが扉をノックした。
 「グウィディオン様。お目覚めですか? 朝食の準備が整いましたが」
 「分かった。支度が済んだら出向く」
ドア越しに答えると、グウィディオンは、ベッドの側まで戻ってきたスェウのほうに、腕を伸ばした。
 「どうした。何かいたのか?」
子供は、首をふり、壁の肖像を指した。
 「あの人…」
 「ん」
グウィディオンは、まだ曙の闇に沈んだ、部屋の隅に目をこらす。
 「この国の、ずっと昔の王妃だ。もう百年も前に死んだ」
 「もう、いないの?」
 「そうだ。もういない。あれはただの絵だ。あの人は今、土の中にいる。」
  「悲しいの?」
子供は、グウィディオンの顔を見上げ、唐突に聞いた。
 「誰かが土の中にいるの? まだ、他に誰か」
 「……。」
この子には、激しい感情の表出は無かった。心の内の、読みにくいこともあった。
 だが、さながら野生の獣のように、側にいる者の胸のうちは、敏感に感じ取るのだ。微かな声の調子からも、ごく僅かな表情の揺らめきからも。
 「そうだ」
グウィディオンは、子供の肩に大きな手を置いた。
 「我が友も、弟も、みな土の中にいる。俺も、いつかは土の下に行くだろう。だが――」
静かに、付け加える。
 「それは、まだ、先のことだ。」
その力強い手に、スェウは深い悲しみを感じ取っていたはずだ。
 孤独を、寂しさを、そして悲しみを、彼は知らず子供に教えていた。己の内に潜むものを、その子が感じ取っていることを疑わなかった。
 だのに、子供は、ただの一度も、涙を流して泣いたことがなかった。
 まだ、声を上げて笑ったことも無かった。
 グウィディオンは、密かにそのことを悩んでいたのだった。自分では、その子に喜びや幸せを与えてやることは出来ない。何故なら、それらは、彼から遠ざかって久しいものだったからだ。

 朝餉の匂いが漂う、小さな部屋に、マース公はひとり、昨夜と同じ陰鬱な表情で腰を下ろしていた。
 食卓には、暖めたミルクとオートミール、それにゆで卵の、質素な朝食が並んでいる。
 グウィディオンとスェウが部屋に入ってきたのを見ると、視線だけを上げ、昨夜はよく眠れたか、と、形だけの問いかけをし、グウィディオンが答えるのを黙って聞いていた。
 マース公の隣の席は、空のままだった。
 妃は、気分がすぐれぬのだ、と言い、マース公はひとつため息をついた。
 「ご気分がすぐれぬのは、私に会いたくないからでしょう」
と、グウィディオン。
 「その通りだ。あれは、貴殿と食卓を供にしたくないと言うておる。だが、そなたの望みはかなえてやりたいと申しておる。」
 「在り難く存じます。」
だが、マース公の表情に落ちる影の理由は、それだけではなかった。

 昨夜、部屋に戻った夫から、客人をもてなしたことを聞かされた妃は、ひどく憤慨し、なぜその場で亡きものにしてしまわなかったのか、と良人をなじった。あまつさえ、図に乗った頼みを受けるとは、と。
 その激しい怒りがグウィディオンたちの寝む部屋にまで届かなかったのは、ひとえに、館が広かったからである。
 そして、あるじ夫妻の寝室が、あらゆる騒々しさをかき消す海側にあったからでもある。高貴な婦人の激しい怒りは、マース公を打ちのめし、ひどく悩ませた。もとより、王家の血筋を引くのは、この女性。妃であるブランウェンである。
 王家の男子が絶えたため、最後に残った王の直系である姫の夫が、国王となれたのだ。本来であれば、地方領主であったマースに、王冠が渡ることは無かったのである。
 そのことが、この国の位高き人々の不満のたねとなり、あわよくば、その王冠をもぎ取らんと狙う人々の野心を生んだ。

 マースは懸命に、理にかなった言い方で、怒涛に歪む妻の美しい顔を元に戻そうと試みた。
 客人として招き入れた者に刃を向けるのは、この国を預かる者として相応しくない。まして、十五年も昔の恨みを未だに抱き続けるとは。
 だが弁術の才に長けた妃は、飽くことなく言い返した。
 「わたくしは、あの男のせいで国と兄弟を失ったのですよ。血の復讐を遂げるのに、十年も二十年も長くはありません。本来ならば、あの時、すぐにも手を下すべきでしたのに。そう為さらなかったのは、ひとえに、あなたに力が無いゆえでしょう。それゆえに諸侯にまで侮られて。
 ああ、わたくしは不幸です。男に生まれ変わることも、夫に頼んで復讐を遂げることも出来ない。非力な女の身に生まれては、一体何が出来ましょう? あの、呪われた男、思い上がりから自らの招いた不幸を、この国にまで与えていった、あの男を葬らねば、この国に明るい陽のさす日は来ないだろうに。」
 「お前、それは言いすぎだ」
妃が息を継ぐのを待って、マースはようやくの思いで口を挟んだ。
 「あの男の背負った運命は不運なものだ。しかし、その代わりに、あの男は他の全ての運命を退ける力を得たのだ。」
 「そう、わたくしの妹に約束された、輝かしい未来までも」
ブランウェンの顔はますます歪んだ。
 「あの子が何をしたというの? あんな惨めな最期を遂げるような罪は、何もしていないというのに。」
 「恨むのなら、グウィディオンに呪いを与えた運命の精霊を恨みなさい。彼が辛くなかったはずはない。それゆえに、自ら追放の身となり、この国を出たのだから。」
 「そして、外からもこの国に呪いをかけたのですよ。あなた、イヴァルドがどうして亡くなったかは、ご存知でしょうに。わたくしの息子、グウェルンの死とて、あの男が告げたものなのですよ」
 「……。」
言葉が何も返って来ないのを知ると、勝ち誇ったように、ブランウェンは良人を見下ろし、こう言った。
 「とにかく、わたくしは、仇の顔など見たくありません。ただ、その男のつれて来た子供には会って差し上げてもよろしくてよ」
もはやマースに、妻をいいくるめる力は無かった。
 そして彼は、妻の企てた恐ろしい計略を覆しきれぬまま、王にあるまじき不義を胸に抱くこととなったのであった。


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