◆8


 丘を取り巻く建物はみな、荒れ放題だった。
 かつて国が大いに栄え、王の冠に栄光の光が宿っていた頃、偉大なる王マクセン・ウレディクによって築かれた白、かつて白い石組みに光り輝いていた城は、今では暗く沈みこみ、雨に濡れそぼりながら、眠っているようにも思えた。
 グウィディオンの黒い馬、ヴィンドの蹄の音は、その眠りを妨げぬよう、静かに響く。 かさかさと、風のような音が建物の中から聞こえる。それが密やかに行き交う人々の足音なのか。
 襤褸布にくるまり、物陰にうずくまる宿無しがギョロリとした目を向けた。壁の崩れた廃墟の床の上で、細々と焚き火をしているのだ。いずこかから、家をなくして流れてきた者なのだろう。
 誰も、グウィディオンに関心を抱かなかった。彼らは凍えそうになる身を暖めることと、空きっ腹をなぐさめることに精一杯で、視線はただ一瞬、ちらりと向けただけで、すぐに自分たちの手元に引き戻される。
 この中庭の不法な住人に一人や二人加わったところで、今更何も変らない。今やこの町は、行き場の無い者たちの吹き溜まりとなっている。綻びだらけのマントを羽織ったグウィディオンの姿は、確かに、彼ら無宿者と大差無い。
 こうして、彼は誰にも騒がれることなく、城の前庭を進んで行った。

 馬が止まったのは、固く閉ざされた門の前だった。歴史ある門柱には、首の無い女神の像が、寂しげに項垂れ、手入れする者のいなくなった茨の蔓は、雑草とともに絡み合い、蕾を付けることも忘れている。
 かつては壮麗だったであろう王城の正門も、今や、原野と変わらない。
 スェウは、灰色に汚れた屋敷の壁を見つめた。
 窓に、ちらちらと何かが走る。
 「誰か…いる」
 「ああ。そうだろうな。だが、気にすることはない」
グウィディオンは、馬から降りないまま、門を見上げた。そして、大音声で呼ばわった。
 「イオナを受け継ぎし王、気高き姫ブランウェンの夫君、マースよ!」
ぎょっとして、門の前にたむろっていた四、五人の宿無したちが腰を浮かせた。
 静まり返っていた門の向こうが、俄かに騒がしくなる。
 「ここを開き、客人を受け入れよ! 貴殿に知らせをお持ちした。」
グウィディオンの、低く、太い声は空を震わせ、城の中まで響き渡る。相手を確かめるように、小窓が開かれ、そして、重々しい音とともに、扉が内側から開いていく。
 くすんだ色の、青い旗が揺れた。
 「まあ待て。武器は向けるな」
兵士たちが槍を手にしているのを見て、グウィディオンは静かに手を振った。腕の中に幼い子供を抱いているのを見て、彼らは慌てて敵意を隠す。まだ、年端もいかぬ子に武器を向けるなど、恥ずべきことだった。
 「王と王妃、お二方にお伝え願いたい。ドーンの息子、グウィディオンが参ったと。」
小さなざわめきが起こる。
 その名に聞き覚えがあるからなのか、この城に正式な客人など来ることが珍しかったからなのかは、分からない。

 入り口の扉が開かれ、グウィディオンは、その中へと招き入れられた。濡れそぼったマントからは大粒の雫がしたたり落ち、かつては真紅であった、くすんだ色の厚い絨毯の上に点々と黒い染みを落とす。
 スェウは、高い天井とゆらめく無数の燭代に驚きもせず、静かに男の側に佇んでいた。この子の目は、暗がりの中に続く、廊下の先に向けられていた。明かりに照らされた白い顔は、全てが色あせた、この城の中で、はっとするほど美しかった。
 「馬は厩に入れてくれたろうな」
グウィディオンは、マントを受け取るべきかどうか、考えあぐねている侍従をあしらいながら、ぞんざいに言った。
 「荷は、どうなさいます」
 「運んでくれる必要はない。マース公はいずこにおられる」
無言の視線が、廊下の奥を指していた。
 「そうか。」
男は、ちらとスェウに目をやり、ついてくるのを確認して、ゆっくりと歩き出した。

 それは、奇妙な光景だった。
 髪も髭も伸び放題で、黒い眉の下に目を爛々と光らせた、まるで悪魔のような黒い襤褸の男の傍らに、絹のように美しく光り輝く金の髪をした、静かな青い目の子供が立っている。子供は、見れば人が怯えるだろう風体の男に、親しげに、そっと寄り添っているのだった。

 重く、閉ざされた扉が開かれ、晩餐用の長机の向こうに、陰鬱な面持ちをした男が一人、料理の皿を前にして、椅子に腰を下ろしていた。
 「よく戻った、グウィディオン。そなたが、まだ生きておったとは、驚きだ。」
マース公は、億劫そうに気の進まぬ口を開き、そして、ひとつ溜め息をついた。
 机の上には、二人分の食事が用意され、給仕たちが控えていた。不思議なことに、それは、予定されていた来客を待っていた風景だった。
 「何ゆえに私が参ることを?」
 「塔の占い師が言ったのだ。望ましからざる報せを持って、死の色を纏った、呪われた男が帰還すると」
グウィディオンは、ちらと部屋の中を見回した。武器を持つ兵士の姿は何処にも無く、隠れているような気配も伺えなかった。いるのは、ただ形ばかりの歓迎の色を浮かべた、召使たちばかり。
 「奇妙なことです。この町を追放されて、十と余年。帰還すれば命は亡いものと申しつけられておりましたが。」
 「それだけの年月が流れれば、人の思いも変わるだろう。」
グウィディオンに座るよう、マース公は促した。一礼し、グウィディオンは長机の向かいに腰を下ろす。
 「…占い師は、こうも言っておった」
男が傍らの椅子を引き寄せ、子供を座らせているのに目を留めて、マース公は言った。
 「その男が、光を連れてくると。それは人の形をしているが、人ではないものだそうだ。貴殿の息子か?」
 「いかにも。名は、スェウと与えました。光とはそのことでしょう」
スェウは、青く澄んだ瞳で、じっとマース公を見、それから、手元に視線を落とした。いかにも子供らしい仕草だったが、その瞳には、計り知れない静けさがある。
 「…して、食事を始める前に、そなたに伺っておこう。そなたが運んできた報せ、とは?」
グウィディオンは、荷物の中から包みを取り出し、召使を側に呼んで、マース公のもとへ運ばせた。
 包みは細長く、ずしりと重い。受け取ったマース公の表情が、かすかに歪んだ。
 「ご子息のものと思われます。」
 「…これを、どこで」
 「ハスィルの谷の出口にて。ご存知の通り、街道からは外れた平野、私が通りかからねば、何ヶ月も発見されることは無かったでしょう」
マースの口から、深く、低い絶望の唸りが発せられた。
 「息子は、殺されたのか」
 「そのようです。」
 「おお…。」
震える指先で剣を撫で、髭を歪めて、男は片手で顔を覆った。
 「悪い予言は当たるものだ。あれが出て行くとき、母親のブランウェンは何度も十字を切ったものだ。だが、叶わなんだ。祈りは通じなんだ。やはり、一人で行かせるべきではなかったのだ」
 「何処へ行かせたのです」
 「リドランだ」
マースは顔を上げ、唇の端を上げた。
 「…そうだ。そなたのもう一つの故郷だ、グウィディオンよ。リドランで今、何が起きつつあるか、知っておるか」
 「ある程度は。風に乗る人のささやき声と、森の獣たちの感じ取る、不吉な足音が教えてくれます」
 「それで十分だ。息子は斥候に行かせた。おそらく、リドランの者に殺されたのであろう」
グウィディオンは驚きもしなかった。無表情にじっと虚空を見据える。
 その胸に去来するものが皆無であるはずは無かった。平静でいられるものではない。
 暗い燭台の炎が揺れ、広間は沈黙に覆われた。
 「我が弟、ギルヴァエスウィはどうしたのです?」
ややあって、彼は口を開いた。
 「死んだ。もう、七年にもなる。知らなんだのか」
グウィディオンは沈黙を守った。無骨な男の顔は影になり、いつもよりも暗く沈んでいた。
 「今はその息子たちが治めておる。リドランの主たちだ」
 「では、やはり私は、ここでは忌まわれし者だ。同じ腹より生まれた者の子らが、貴殿の息子を殺し、この国を奪おうとしているのだから」
 「そういうことになる。だが、料理に毒などは入れておらぬよ」
陰鬱な笑みを浮かべたまま、館の主は食事の始まりを告げた。途端に、時を留めていた給仕と召使たちが、決められた動作のままに、くるくると動き始める。杯にワインを注ぎ、暖かいスープを取り分ける。
 スェウの前にも皿が置かれた。だが、子供は、きょとんとしてそれを見ているばかりだ。
 「そういえば、スプーンの使い方は、まだ教えていなかったな」
今までは、野原の真ん中で、食器もなく、ほとんど手づかみで食事をしていたのだ。
 グウィディオンは、テーブルの上から銀のスプーンを取り、子供の手に握らせる。一度、スープを掬って口に運ばせると、子供はすぐに要領を覚え、自分からスープを飲み始めた。
 マース公は、不思議そうな顔をしていた。この男に、子供を慈しむ心があるとは、かつては思っても見なかった。
 「貴殿が妻をめとるとは思わなんだ。いつ、所帯を持ったのだ。その子供の母親は、いずこにおる」
 「さて。それは申し上げることが出来ませぬ。これには少々事情がございまして」
 「事情と?」
 「ここへ参ったのには、もう一つ、この子のこともあります」
男は、真っ直ぐにマース公を見た。
 「追放されたこの身では、頼るべき親戚縁者もなし。いずれ息子が成人した時、譲ってやれるものが何もないことが残念です。この子を、生まれながらに宿を持たぬ放浪の身にするわけにもいかぬ」
 「なるほど、最もなこと。」
 「そこで、お願いがございます。この子の髪を整え、後見人となってはいただけぬか。」
マースは、口に運びかけた杯を止め、それを、そっと下に下ろした。
 「…勝手な願いだ。常時であれば、姉の息子の子を祝福するのは縁者として不思議なことではないが、そなたの子とあってはな。一つ聞かせて欲しい。その子は、人と同じものか?」
沈黙があった。
 グウィディオンは、スェウに目をやり、その子の頭に手を置きながら、静かに言った。
 「呪われた身に、普通の息子は授かれませぬ。人と交じり暮らしてゆけるよう、私が教えてやらねばなりませぬ。されど、この子には、人の心がございます」
 「人の形でありながら人ではないものに、人の心は宿るものか?」
 「不可能ではございませぬ。人の形すら無い犬や馬の如くにも、親しく長年接すれば、人に似た心が宿ります。まして人として、人の形を持って生まれた者に、それが出来ぬはずはありませぬ」
マース公は、自分のことを話されていると知って、側で発せられる低い声にじっと耳を傾ける子供の表情を、用心深く見つめていた。
 姿は、確かに、どんな人間の子よりも美しい。
 だが、ここへ入ってから一言も発せず、初めて見るであろう広間に驚きもせず、真夜中の湖の表面がごとき瞳をした子供に、彼は違和感を覚えはじめていたのだった。
 「その子を抱いてみてもよいか。人の子ならば、暖かいであろう」
グウィディオンはうなずき、子供を抱いて席を立った。手から手へ、渡される時、スェウの表情にかすかな驚きが走った。見知らぬ腕に抱かれることには、慣れていない。
 「そなた、名はなんという」
僅かな兆候も見逃すまいと、マースは子供の表情を食い入るように見つめながら問うた。
 「…スェウ」
 「そなた、年はいくつになる」
その問いは、成された事が無かった。しばし、考えるような間があった。
 ややあって、子供は、俯いて小さな声で答えた。
 「わかりません」
 「そうか。」
マース公は表情を緩めた。自分が抱いたものが、悪魔の子でも、妖精に取り替えられた子でもないことに、確信が持てたからだった。
 「暖かいな。そして重たい。わしの息子にも、このくらいの時があった。そして、この子は…そうだ、不思議なことだが、イヴァルド殿の幼き日に、瓜二つだ」
 「やはり、そう思われますか」
 「妃は喜ぶだろう。子供は好きだからな。――だが、あれは、まだ、そなたのことを許してはおらんよ」
グウィディオンの表情に、暗い影が落ちた。
 「当然のことです。それに、此度の報せのことも、あるでしょう。ブランウェン殿には、私はお会いするのを控えます」
 「そのほうが、よいであろうな」
城の主は、給仕と召使たちに合図を出した。召使たちがいそいそと、広間を出て行く。客人の泊まる部屋を用意するためだ。
 椅子に腰を下ろしながら、マースはため息とともに、こう言った。
 「妃にはわしから話しておこう。今夜は、この城で休むが良い」

 夜は更け、雨はいつしか、細い絹糸のようになって、音も無く天から降り注ぐ。
 蔦の葉をすべった水滴が闇の中に吸い込まれていく。地面も、壁も、庭に佇む彫像も、しっとりと濡れ、町は、沈黙の中で眠りに就こうとしていた。


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