◆7


 悲しや、人の子は、無常なるもの。永久なるものを知らぬ。
 争い、奪い合い、おのがものとしたところで、時の流れは指の合間より
 掴んだものを押し流す。

 哀しや、月の子は、無情なるもの。刹那なるものを知らぬ。
 さすらい、求めようとも、時の流れに交じることは出来ず
 掴もうとするもの、ただ、流れてゆく。


 互いの道は、交わることなく、されど近い。



 旅に暮らす夜明けはいつも、鳥と一緒に目が覚めて、朝日の昇る前に起き始めるが、この日は珍しく、違っていた。
 スェウが目を覚ましたのは、耳元に鳴る冷たく、湿気た風の音のせいだった。
 雨が近いのだろう。空は灰色に蹲り、夜のうちに雲で覆われている。
 グウィディオンの姿は、無い。ヴィンドは立ったまま眠っている。霜の降りた荷物は、すぐ側に残されていた。
 スェウの体には、体が凍えないようにと、ごわごわした大きな上着が、かけられていた。

 昨日、グウィディオンが町で何を買い込んでいたのか、誰と話していたのか、スェウは知らなかった。グウィディオンが、少しずつ自分を遠ざけようとしている理由も、知らなかった。
 増えた荷物は、いつもより多いようだった。冬着や体を温めるためのきつい酒、森の食べ物が食べ物が乏しくなる季節、大地の恵みの代わりに口にする、干した肉や塩漬けの野菜。
 グウィディオンは、それらを丁寧に皮に包み、浅く掘った土に埋め、石を積んで隠した。予見の力ゆえにそうしたのか、普段の習慣なのかは分からなかったが。
 彼らが一晩を過ごしたのは、それら秘密の蓄えから、そう遠くは無い場所だった。
 スェウは上着を体に巻きつけ、そっと、岩の下から這い出した。
 東の空が明るい。グウィディオンの足跡は、草の上に、真新しい跡になって残っていた。

 グウィディオンの姿を見つけたのは、切り立った崖の上だった。
 気配を感じて振り返った男は、お早うと言いながら、子供を側に招き寄せた。スェウの視線は、男の後ろにある、見たことも無い大きな湖に注がれていた。深緑の水は生き物のようにうねり、轟々と物凄い音をたてている。
 「夜明けに、海鳴りの音を聞いた気がしてな。」
グウィディオンは、そう言って、離れたところに立ち尽くしている子供を見た。
 いつしか、海の近くまで来ていたのだ。
 「海は、嫌いか?」
スェウは首を振りもしなければ、頷きもしなかった。それが「海」という名前であることを、はじめて知った。
 「海の水は、塩辛い。そして、海は生き物だ。機嫌の悪い時はひどく荒れ狂う…特に冬の海はな。」
灰色の崖に大きな波が打ち付けるたび、水しぶきが激しく上がり、轟音が響く。いつしか夜は明け、白く淀んだ空の向こうに、太陽の光らしきものが見えていた。
 はるか遠方まで見渡す水平線は、果てしなく、どこまでも続き、これまで旅してきた草原よりもずっと広かった。
 「あの向こうには、国がある。大きな島もある。だが、大きな船でないとたどり着けない。この国は、周りを海に囲まれているのでな。」
 「行ったことが、あるの?」
 「若い頃に。」
ふっ、とグウィディオンの顔に、影が過ぎる。
 「雨が降り出す前に出発する。うまくいけば、昼までは本降りにはならないだろう。」
大きな手が、子供の頬に触れる。その指先は、冷たく凍えていた。子供の来るよりずっと前から、もう長いこと、海を見ていたのかもしれなかった。
 スェウは、そっと、その指先に触れた。
 グウィディオンは驚いたように子供を見下ろし、そして、かすかに笑った。
 「…お前の手は、温かいな。」
それは、自分の子として赤子を抱いた時にはできなかった、自然な微笑みだった。この男が忘れて久しかったものだった。
 何故だという理由も理解できぬまま、子供は、ただ、嬉しいと感じた。
 凍えた大地でさえ、春が来れば、溶けて目を覚ます。

 簡単な朝食を済ませ、馬を走らせはじめた時、すでに空からは冷たい雨が降り注ぎ始めていた。霧のように白く、行く手を阻む雨粒の壁の中、ヴィンドは風のように走り続けた。
 やがて、行く手に黒っぽい、大きな塔のようなものが見え始めた。
 灰色の町。それも、かなり大きな町だ。草原の向こうに、まだこんなに離れているのに、すでに形が見え始めている。
 馬が、町を目指して走っていることは確かだ。だが、グウィディオンは、何も言わなかった。
 かつては道があったが、今では通る者も途絶えたと見えて、草に覆われ、荒れ果てている。道標の石は苔むして、誰にも顧みられずにいる。
 やがて、町の入り口に着いた。
 出迎える者もなく、大きな通りはしんと静まり返っている。崩れかけた門柱が何本か、大通りの入り口を虚しく飾っている。
 雨に濡れそぼった建物はみな、何百年も前のもののように精細なく沈み込み、辺りはひっそりと静まり返り、石畳を歩くヴィンドの蹄の音だけが響いている。
 スェウは、人のいない町を見たのも、初めてだった。
 「この町の名は、イオナ」
静かに、グウィディオンが口を開いた。
 「俺の故郷だ。かつては大きな栄えある町だったが、その面影は、もう、無い」
ぱしゃん、と、軒から落ちた水滴が水溜りに落ちて…、馬と、馬に乗る黒い人影を映し出す。
 崩れた城壁の向こうには港があり、海が見え、町の中心部には、かつて王の威光とともに栄えた城が、曇天を背に冷たく聳え立っていた。
 その町では、風が歌うのだった。
 複雑な建物、入り組んだ路地、すぐ近くに広がる海で生まれた風が町を通り抜けるとき、声を生む。
 それが、町に住む人々の声なのか、かつてこの町に住んでいた人々の残滓なのかは、分からない。
 重く垂れた黒いマントに身を包み、黒い馬を進ませる男は、この、死に掛けた町に最後通告を突きつけに現れた、死神のようにも見えるだろう。
 通りには誰もおらず、窓は固く閉ざされ、人の気配は、かすかだ。
 ひづめが泥を撥ねる。道はやがて、ゆるやかな上り坂になる。
 丘の上には、灰色に沈んだ大きな建物が見える。グウィディオンは、そこに向かっているらしかった。
 「王の居城、青月城だ。」
子供は、耳を押し付けた厚い胸の中で、心臓が尖った音を立てるのを聞いた。見上げると、男の顔は、かすかに歪んでいた。
 悲しみとも、苦しみともつかない、その複雑な思いは、生まれたばかりの子供には、まだ、理解することが出来なかったのだが。

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