◆残光



 静かな波の音が打ち寄せて、窓辺に優しく眠りを誘う。 
 それは、この国の霧が晴れてから、何度目かの聖霊降臨祭が終わった日のことだった。客人たちはみな寝静まり、王も従者たちも寝室へ退いている頃合い。夜半も過ぎ、明け方がひたひたと足音をたて、東の地平に歩み寄っていた。
 浅い眠りに落ちていたスェウはふと目を覚まし、寝台の上に体を起こした。その僅かな動きに気づいて、傍らに眠っていたブロダイウェズが目を覚ます。
 「どうされました。」
 「風が吹いて来たような気がして。」
窓はかたりとも鳴らず、紺碧の空に雲もない。しかし彼は傍らに脱いであったマントを手にとった。
 「心配ない。すぐに戻る」
広間に出ると、ちょうど執事が余計な明かりを消して回っているところだった。残ってグウィズウィズに興じていた最後の客人も床へ向かい、宴のご馳走は片付けられた跡だった。
 音もなく現れたスェウに驚もせず、エイディルは軽く会釈をした。
 「これは、王。何か御用でしょうか」
 「散歩だよ。月が綺麗だから」
これを聞いて、エイディルは朗らかに笑った。彼らは幼き日に雪玉を投げ合って以来の友だった。エレリとの戦が終わった次の年、スェウは、村から職を求めてイオナへやって来た友の姿を見つけ、即座に執事として雇い入れたのだった。それ以来、エイディルは最も信頼のおける第一の従者として、常に側に付き従ってきたのである。

 城はまるで、魔法にかけられたかのように静かだった。厩番も、門番たちも寝静まっている。
 スェウは青いマントだけを羽織り、月明かりを頼りに静かに階段を降りてゆく。その姿を見咎める者は、誰もいない。
 城壁から外へ。海へと続く高台に、一人の男が立っていた。傍らに立つ黒い馬はヴィンドではない。かつて島じゅうを駆けた名馬は、もう何年も前に土の下へと去った。気配に気づいて、灰色のローブの男が振り返る。
 「お久しぶりです、父上」
スェウは声をかけ、両腕を広げて男と親しみをひめて抱擁を交わした。「そろそろ、戻られるのではないかと思っていました。」ローブの端からは、遠い異国の海の香りがした。
 島を去って、旅を続けてもう何年にもなる。その間に、髪には多くの白いものが交じり、かつての威容は影を薄めた。日に焼けた太い腕はそのままに、いまだかつての力を保ってはいたが、もう彼は、剣を振るうことは考えていない。
 傍らの馬の上には、年端も行かない少年がその背にしがみついて、器用に眠っていた。父の、そのまた父に良く似たきかん気の強そうな顔と、黒い髪。
 「途中までは起きていたのだがな。」
自然と、グウィディオンの顔が綻んだ。
 「いかがですか、この子は。」
 「なに、お前とはちっとも似ていない。良く泣くし、良く騒ぐ。子供というのがこんなものとは、考えてもみなかった」
二人は笑いあい、その声で子供は身じろぎしたが、すぐにまた寝入ってしまった。
 「お前に、この子を育てて欲しいと言われた時は、どうしたものかと思ったが。」
 「お一人では、どんな無茶をされるか分かりませんから。それに、息子の一人は、信用できる養い親のもとに預けたかったのです。」
 「この子の兄は? どうしている。」
 「元気ですよ。明るくて、弓がうまい。ディランのところのスィールと、仲がいいんです」
スィールというのはディランの息子だった。彼の妻は遠いロスの地の出身だった。どのように出会ったか、ある時ひどい嵐の晩に、船が難破して流れ着いたのを、ディランと仲間たちが掬い上げたのだという。父と同じように、その息子もまた、生まれながらにして海のものの性質を備えていた。彼らはともに、次の代の、陸と海の王となるさだめだった。
 「今年の冬は、ミル・カスティスの館においでになるのでしょう」
 「ああ。そうする予定だ」
 「では、皆を連れて行くことにします。ブロダイウェズや、この子の新しい妹たちもきっと会いたがるでしょう。その時、聞かせてください。旅の話を」
子供の髪を撫で、スェウは、二人に別れを告げた。
 「そうだ」
馬に乗りながら、灰色のローブの男は、ふと思い出したように口にした。
 「この間、――夢をみた。お前に良く似た若者が、船に乗り、遠い西の海へ、波を越えてどこまでも突き進んでゆく夢だった」
 「私も夢を見ました。モール・リッドの島々を越えて、四方にどこにも陸の見えない、広く青い大海原をゆく船。海の果てには闇がどこまでも広がっているというのに、へさきに立つ若者は恐れる様子もなく、意気揚々と進み続ける――」
金の鷹の印を胸に。
 「西の彼方には、誰も見知らぬ大地があるのだという。いつか、お前の子孫の誰かが、そこへ向かって旅をするのかもしれん」
 「遠い未来の話ですね。我々の見ることのない」
スェウは、馬上の男を見上げて微笑んだ。「お元気で、またお会いできる日まで。」
 風はとどまることなく歌い続け、季節は移り変わり、時は巡ってゆく。どんなに遠い未来でも、いつかは始まりとなり、終わりとなる。
 振り返れば、西の海に沈みかける月が、波間に銀の光を投げかけ、岸部まで続く長々と、輝く光の道を描いていた。


 これが、この物語の最後の歌となる。
 最後の偉大な王エヴニシエンが、西の海に、誰も知らない新大陸を見つけるのは、それから三百年たった後のことであった。


―Fin.

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