◆62


死を越えて
金の鷹はイオナの地へ帰る
そは人々の喜びとなり
また人々の悲しみとなる
光が戦場を駆けし時
数多の戦士たちに 草の褥を整えん

 ちょうど一年前の夏にそうしたように、人々はエレリの軍と向かい合っていた。和平という言葉とは裏腹に、エレリの領主はルヴァインに援軍を求めていたと見え、カエルディフの小高い丘から見える先の平原には、今や隠されもせず、ルヴァインの旗がひらめいていた。
 「友の敵なるものとも手を結び、友なる者をも欺くか。」
呟いて、マース公は溜息をついた。「我らが従えば、その場でルヴァインとの同盟は破棄していたのであろうな。それが叶わなかったので、敵と手を結んで我らを討つつもりなのだ。」
 「人を欺く者は、いずれ自分も欺かれます、殿」
マース公は椅子に座したまま、顔だけを動かし、手招きした。
 「ここへ、近くへ来ておくれ。」
その手は以前見た時よりも細く、色あせ、指輪をはめた指も萎びて見えた。スェウが膝まづくと、公は両手を伸ばし、その髪に触れ、頬をなぞった。
 「もう、目があまり良く見えんのだ。息子も、妃ももはやおらぬ。そなたが姿を消したと聞いて、どれほど胸が傷んだことか」
 「ご心配をお掛けしました。どうしても、私を罠にかけたグロヌウから魔法の力を奪うまでは、戻れなかったのです。…いえ、何があったのかは、お聞きにならないでください。私にとっても、あまりにも辛い出来事でした」
 「そうだ。あまりにも心配しすぎて、幾晩も眠れぬほどだった」
そう言ったのは、従兄弟なるギルヴァエスウィの長男、ヘドゥンだった。「愚弟のこともある。お前の父上は怒りを鎮めるどころか、今も血眼になって裏切り者のヘッフドゥンを戦場に追い求めている。あれでは、いずこへ隠れようとも、この世にいる限り逃げ場はなかろう」
 「父上は、間もなく彼を見つけるはずです」
スェウは、静かに答えた。「けれど、それは父上の誓約なのです。リドランがイオナに仇なすことを許さない、と、亡きイヴァルド殿に誓われたのですから。私には止められません。それよりも、」と、彼は二人の従兄弟たち、ヘドゥンとブレイドゥンを見て言った。「あなた方は、叔父上、ギルヴァエスウィを殺めた者を探さなくては。」
 「なんと。」
 「グロヌウ・ペピルでは無いとしたら、一体誰が。」
ブランは、憂えるように天を仰いだ。「あれも災い成す悪しき魔法使いだったが、どうやら貴殿の父上は、魔法で葬られたわけではないようだ。」
 「彼とは幾度もともに狩りをした」
ダヴェドの王、プイスが呟いた。「未来を見渡す、良き予言者でもあったのだが。」
 「確かに、少し前までイオナの未来には、濃い霧がかかっていた」
アルヴォンの領主なるサウィルも、過去を思い出すように言葉を噛み締めた。「未来をはるかに見渡す者なら、とうに絶望していてもおかしくなかった。忘却と絶望の中に長く身を委ねすぎると、希望はむしろ毒にも思えてくるものなのだ。」
 「スェウ殿。」アベルフラウの領主、ゴヴァンノンがおごそかに告げた。「今や我らは、誰ひとり欠けることなく、異論なく、貴殿に剣を捧げてもよいと思っております。マース公の手より、王の印を受け取られるがよい」
 「そのようにしよう」
と、マース公。指にはめた金の輪に手をかけようとするのを、スェウは止めた。
 「おやめください。今はまだ」
 「どうしてだ」
不安そうなマース公に、彼は、微笑んだ。
 「ここには、歌を慈しむそぞろなる民の他の長がたがおりません。黒き風なる我が父も。皆が揃う日は、また別の機に訪れましょう。その日まで、マース殿、息災にあられませ。」
かくて指輪は、マース公の手に残された。
 「その日には、イオナの青月城なる玉座の御前にて。」
そぞろなる民の長なるテイルノンがつぶやき、一同は散会した。おのおのの陣に向かい、戦の準備を整えるためだ。日が暮れる前に陣を整え、歩哨を立て、攻め入る道を決めねばならない。突撃は日の出の頃と決められた。

 海からの風が草原を覆う熱気を洗い流し、うっすらとした霧が空の低い場所に鈍色の滲みを作っている。だが雨の気配は遠く、空は高く晴れ渡っていた。
 丘の上に高々と掲げられたイオナの旗印の下、スェウは月の照らす草原のように青いマントを纏い、背の高い金の鬣の馬に真っ白な馬具をつけ、一際目立つ場所に佇んでいた。その姿は、どちらの陣営からも良く見えた。エレリの兵たちは、その強弓の的になるのを恐れ、必要以上に近づこうとはしなかった。痛手を負ったグウィンもまた、苦々しげに遠くから眺めてはいても、敢えて挑発しようとはしなかった。エレリの軍勢とともに居並ぶルヴァインの、赤毛の兵たちは、がらがら声をはりあげて、ひっきりなしに歌っている。辟易したように、その声から離れて身を寄せ合っているのがケルニュウの、イオナに従わなかった支族の人々だ。彼らは戦士ではなかったが、戦場の後方にいて歌い、戦士たちを高揚させ、また鎮め、昂ぶる夜にも深い眠りをもたらした。そぞろなる民の複雑に入り組んだ地形にも詳しく、あらゆる小道を知っていた。また薬学に長け、優れた医者でもあった。名医モルガン・ティッドもまた、もとはといえば、そぞろなる民のひとりだった。
 「若君」
風のように、スェウの側に長い黒い髭の男が立った。
 「お知りになりたいですかな。我らがなぜ、このように、イオナに従う者と従わぬ者に別れたか」
スェウがうなづくと、男は歌うような口ぶりで語り始めた。
 「我らケルニュウの十二の民は、そもそもは一人の男から成る。類まれなる歌い手タリエシン。あらゆる良き古歌は彼から生まれた。偉大なる王、始祖なるマクセン・ウレディクは海を越えてきた。その中の一人が彼だった。王についてその冒険を歌い、祝いの日には人々を喜ばせ、また、亡き高貴な人々を、遠き栄光の日々を悼ませた。
 タリエシンの子は十二人。王よりケルニュウの地を与えられし後、彼らがひとつずつの支族となり、かの地に歌の絶えぬよう、記憶を語り継いできた。王の友なる歌い手たちは、王の血筋に忠誠を誓うかわりに、ひとつの約束を交わした。王は決して我らに命じず、我らの歌をやめさせぬこと。忠誠を誓う代わりに、我らは王の敵に悪しき歌を歌い、王のために良き歌を歌うだろう。それが我らの誓約となった。
 その約束が破られたので、彼らは今や王との盟約を守らなくなったのだ。そぞろなる民にとって、歌を禁じられることは、息を止めよと言われることに等しいがゆえに」
 「一体だれが、歌をやめさせたのでしょう。彼らが歌おうとしたのは、どのような歌なのでしょうか」
 「おお、それこそ肝要なこと。一つ目は、エレン姫の海に消えられし時に。波間に消えし美しき戦の乙女を讃え偲ぶ歌、気高き白き胸のブランウェン殿それを禁じられた。そして一つの支族が去った。
 二つ目は、猛きグウィディオン殿が異国へ去られた時に。自由なる風の行方を思い、悲しき宿命を嘆く歌、そしてまた一つの支族が去った。
 三つ目は、輝けるイヴァルド王の亡くなられた時に。誉れある王の去りし時、その哀歌は禁じられていた。
 四つ目は、戦場に数多の兵たちが倒れ、母たち、妻たち、娘たちの嘆きがイオナに満ちた時に。誰も戦の結末を歌わなかった。
 五つ目は、勇敢なる戦士ギルヴァエスウィが卑劣な者どもによって引き裂かれし時に。その死は隠されていた。人々は風の噂にすら耳にしなかった。
 六つ目は、玉座預かるマース公が、いかなる挑戦も受けず、また、いかなる宴も開かなかった時に。王は侮られることを恐れ、我らの嘲りの歌を厳しく戒められた。
 七つ目は、世継ぎなる若君グウェルン殿が、儚く旅路に散った時に。いかなる哀歌も、また復讐者たちを駆立てる戦の歌も、作られたことはない。
 八つ目は、金の髪のスェウ殿が、栄光失われて久しき青月城に光をもたらしたときに。
―― そして残るは、我ら四つの支族だけとなったのだ」
テイルノンは、パイプの煙をくゆらせた。「わしらにとって、歌うということは、息をするのと同じこと。また現実を現実とするために必要なこと。バルズが歌わねば、いかなる出来事も、またいかなる記憶も、時とともに流れ去ってしまうだろう。ほむべきことも、いみごとも、歌われねば忘れられてしまうのだ。無かったことになってしまうのです。ガルウィリ、カカムリ、イナウク、いずれも一族を率いてここへ来ております。彼らはみな、人々の忘れた過去を覚えている。霧が晴れたなら、途切れた歌声も元に戻るでしょう」
 「忘却の霧は去ろうとしています。」
スェウは、風に乗って響いてくる。ルヴァインの猛き戦の歌をかき消すように、こうべを左右に振った。「歌ってください、テイルノン・トゥリヴ・ヴリアント。過ぎ去りし、遠き日の物語を。失われた記憶を。それが悲しいものであろうとも、むごたらしいものであろうとも。」
そうして、類まれなる歌い手たちの長は、そうした。その夜、イオナの陣には夜通し、過ぎ去りし日々のことが語られ、多くの人々に、かつてのイオナの栄光と、いかにしてそれらが失われていったか、またかつてのルヴァインとのいくさで、いかに多くの人々が飛び去ったかを、思い出させていった。それは長い、とても長い物語だった。語り部は、全てを記憶していた。
 スェウは草の上に腰をかけて、じっと歌を聞いていた。
 夜が明ける頃、すべての物語が語り終えられた時、彼は静かに口を開き、たったいま、口を閉ざしたばかりの歌い手に尋ねた。
 「長よ、父はどのようにして、そぞろなる民の地へ行ったのでしょうか。それは、戦の終わったあとだったのですか?」
 「さよう。あの方が、我らの友となられたのは<鷹の砦>で二人の王が倒れたのち、さすらいの旅に出られたあとのことだった。我らの知らぬ戦場を、遠き海の果ての国々を、あの方はよくご存知だった。そして我らにそれを伝え、悲しみの歌を作られた。

 白い月 銀の星 赤い花びら はらはらと
 零れ落ちるのは涙 過ぎてゆくのは命
 

…」
スェウは、それに続けた。

 「青いたそがれ 金の夕暮れ 天の船は運ぶ 」

 「そして我らは友への贈り物として、黒き駿馬をお譲りしたのだ。父君は、歌い手の良き友、バルズたちの頭目と呼ばれた。それゆえに、我らがここにいる、と言ってもよい。」
そう言って、男は、錆びた色のチョッキから使い込まれたパイプを取り出した。もう、日が昇る頃だ。戦士たちは起きだして、戦の準備を整えている。
 立ち上がりながら、スェウはひとりごとのように、こう言った。
 「僕は今日、はじめて土の下に行った人々の物語を知りました。父の愛した人、父の友、若かりし日の人々のこと、戦に散った人々のこと。」
朝日と共に風が吹き、とりどりの旗をはためかせ、
 「いつか… 今日という日も歌になる」
どちらの陣営からともなく、角笛の音が響き渡った。谷間を反響し、夜霧を散らし。
 数多の血が流された。
 ディノディグの領主、ブランと、サウィルの息子のひとりが倒れたのは、この時の戦場である。


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