◆60



 ブレイドゥンとは、ディノディグに入る街道沿いで別れた。リドランの守りを案ずる彼は、一刻も早く領地へ戻ることを望んだからである。
 一方のスェウは、ゆっくりと馬を進めていた。アベルフラウから続くディノディグの北の地は、いまだ島を覆う暗い影を知らず、戦火からも遠かった。
 ミル・カスティスに戻るのはおよそ一年ぶりのこと。そう長く離れていたわけでもないというのに、スェウには、そこが生まれて初めて見る場所のように思えた。
 夏の盛り、草木は伸び盛り、遠い空に鳥たちが歌い、花々はここぞとばかり誇らしげに咲き誇り、黄色や白の色を織りなしている。空は青く、どこまでも澄み渡り、放牧された羊や馬たちが、のんびりと草をはむ。重苦しい霧は何処にも無かった。日陰は穏やかで、涼しい風が踊りながら通りすぎていく。
 館の庭は、前に見た時と同じように、隅々まで手入れされていた。知恵遅れの庭師の男は、スェウを見ても、ちょっと藁帽子の端を上げて会釈しただけで、すぐに自分の仕事に戻ってしまった。黙々と木々の手入れを続けるまなざしは、真剣でもあり、慈しみに満ちてもいた。
 馬のいななきに気がついて飛び出してきた、館の管理をしている老夫妻は、そこに立っているのが館の主と気づいて、驚くやら喜ぶやら、大変な騒ぎだった。悪い噂も聞いたという。留守にしていたのはわずか一年だというのに、彼らにとっては、十年にも等しい時間だった。
 「でも、大旦那様は、何もおっしゃらなかったんですよ」
老婦人の言う大旦那様、とは、グウィディオンのことだった。
 「父上は、ここに?」
 「今朝まではいらっしゃいました。戻ってこられては、またふらりと数日いなくなられる繰り返しでして。きっと、まだお近くにいらっしゃるとは思いますが」
 「そうか。では、明日探しに行ってみよう」
スェウはヌウィブレの手綱を任せ、自らも旅の装束を解いた。粗末な靴はすっかりくたびれていた。それを見たとき、彼は、修道院を後にしてから、休むことなく島を駆け巡ってきたことを思い出したのだった。
 そこで、かつてグウィディオンがそうしていたように、自ら靴を修繕してみることにした。老夫妻は嫌がったが、二人のどちらも靴底の修繕など出来なかったので、館の主がすることに強く反対は出来なかった。庭に面したテラスに出て、彼は皮の繕いにとりかかった。
 「この庭は、変わらず美しいな」
 「そうでしょう。うちの息子の唯一の取り柄ですから。」
汚れた衣類を洗うために取りに来た老婦人が、自慢げにそう言った。「今夜はごちそうにいたしますよ、若旦那様。でも、いつまでいらっしゃるんです?」
 「判らない。そう長くは居られないと思う。準備が整ったら、南へ行かなくては」
 「戦場へ行かれるんですか」
老婦人は、まるで我が身内が行ってしまうかのような悲しげな顔をした。「村の者も、何人も戦へ行ったきり戻ってないんです。大旦那様は、そりゃあ、お強い方だそうだから。でもねえ、若旦那様はお優しく見える方だから――ああ、こんなことを言っては失礼だけれど」
老婦人はあわてて頭を下げ、スェウの弓と剣にちらと目をやって、足早に立ち去っていった。
 靴の修繕を終えたスェウは、一息ついて、庭のかぐわしい匂いを胸いっぱいに吸込み、しばし、これまでのことを忘れることにした。
 見上げた空には傾きかけた白い月が、やがて西の空へと消えてゆく。

 翌朝、館の主人は、まだ日も昇りきらぬうちから起きだして、馬で出かけた。
 夜明けの冷たい風が吹く。丘をひとつ、越えれば海がある。この辺りはなだらかな海岸線が続き、白い浜辺は、船をつけるにも、泳ぐにも丁度よい場所だった。
 浜に出てまもなく、スェウは、目指すものを見つけた。砂の上に点々と、真新しい蹄の跡があり、行く手に、黒っぽいローブに風をはらませながら立つ男の姿が見えた。近づきながらスェウは馬を飛び降り、ヌウィブレの手綱から手を離して走った。足元で白い波が砕け散り、砂がさくさくと音を立てる。
 振り返って、グウィディオンは片手を上げた。
 「戻ったか」
 「はい。」
グウィディオンの影となり、そこにはもう一人の人物がいた。波打ち際に靴もなく、裸足で立つ若者。腰まである長い髪は大雑把に編まれ、残りは輝きながら肩のあたりに垂れている。青い瞳は、晴れた日の、海の最も深い部分のそれだった。
 ディランが口を開いた。
 「ダヴェドの地は守られた。プイス公もプレデリも無事だ。ルヴァインの船に手を貸していた魔術が途切れたようだった。」
 「魔術?」
 「そうだ」
と、グウィディオン。「何者かが、海の者たちを阻んでいた。最初の年は、嵐で船ごとひっくり返せたものが、次の年には波ではびくともしなくなっていたそうでな。もしも今回も同じことが起きていたら、いかな海の者たちでも、ルヴァインの者どもがダヴェドに上陸するのを止められなかっただろう」
 「グロヌウ・ペビルの力でしょうか? 彼は海の水を雨のように降らせることが出来ました」
 「そうかもしれん。あの老人に、それほどの力があったとは信じがたいのだが」
そこでスェウは、イストラドで起きたこと、グロヌウがいかにして城と運命をともにしたかを語った。グウィディオンは言った。
 「きっとその杖だろう。ディランの杖と似たような物で、何がしかの力を持っていたに違いない。それが失われたので、悪しき呪いも去ったのだ」
スェウは、ディランが腰に帯びている杖に目をやった。それは海の魔女を倒したとき、魔女が残していったものだった。
 「その杖のことで話していたのだ。もしかすると今の話で少し謎がとけたかもしれん」
 「どういうことです?」
 「というのも、この一年の間、誰も戦場でヘッフドゥンの姿を見つけられずにいるのだ。確かにそこにいる気配はあるのにだ。何かの魔法がかかっているに違いないと、俺は思っているのだが。」
 「姿変えの魔法は、気配や匂いまでは変えられない。」
と、ディラン。「鳥に化けて空を飛べても、人は人でしかない。もしもグロヌウが同じような魔法の杖を持っていたら、ヘッフドゥンの姿を変えたかもしれない」
 「それは、どうすれば解けるのですか。」
 「額に人差し指と中指とを当てて、その者の本当の名を呼びながら、戻れ、戻れ、戻れ! と三度叫べばよい。」
言って、ディランはグウィディオンのほうを見た。
 「そういうわけです、父上。戻る方法は覚えられましたか」
 「しかと。では姿を変えてもらおう」
 「どういうことですか」
 「こういうわけだ。俺はこのとおり目立ちすぎるので、何の変哲もない別人の農夫に姿を変え、裏切り者のヘッフドゥンを探しにゆくつもりだ。」
それを聞くなり、スェウは思わず笑い出した。
 「どうした、なぜ笑う」
 「鳥に化けても人は人でしかない、と、いまディランは言ったではないですか。姿だけ農夫に変えたところで、農夫になんて見えません。」
 「私もそう思う。」
ディランは杖を手に大真面目な顔で言い、それから、こう付け加えた。「農夫より、ルヴァインびとの戦士になるほうがよろしいかと。」
 かくて、そのように成された。
 グウィディオンは、赤髭のルヴァインびとの戦士となり、その出で立ちのまま、深くマントを被ってエレリとの領境へ向かうこととなった。ディランは自らの住まう場所なるモール・リッドの島へ戻って行った。戻る前に、彼は弟に一つの贈り物をしていた。それは笛の形をした固い巻貝で、角のような短い刺が全部で五本、付き出していた。
 「海に向かってこれを吹けば、モール・リッドまで響く。海の者たちの力が必要になれば呼んでくれ。」
そう言って海へ飛び込み、次に頭が見えたときには、彼はすでに遠い沖合にいた。白く泡立つ波も、彼の体の周りでだけは砕けなかった。

 スェウには、もう一つだけすることがあった。ディランにも敢えて訊ねていなかった。
 館に戻った夜半過ぎ、夕刻の月も沈む頃になって彼は、竪琴を手に庭に出た。熱心な庭師も日が暮れた後は仕事はせず、家畜たちもみな厩舎に戻っている。
 一本の大きな樫が、庭の端で枝を広げていた。若者はその下に腰をおろし、いくつかの旋律を奏でてみた。やがてそれにぴったりと歌を思いつくと、彼は奏でながら歌い始めた。星々が聞くように、月の裏側へ届くようにと。風に乗せて、その音色は森の向こうまで届き、花々はうっとりと聞き惚れ、虫たちは音色を奏でることをやめた。彼は呼びかけていたのだ。その呼びかけに答えるかのように、音にもならない羽音が密やかに近づいてきたのは、旋律を奏で始めていくらもしないうちだった。
 スェウはちらと梢のほうを見、白い羽根をはっきりと見たが、なおも気づかぬふりをして歌い続けた。風が動いて、そっともう一段、下の梢に降りてくる。彼は気付かれぬよう腰を浮かせながら、さらに奏で続ける。もう一段。振り返ればすぐのその場所に白い梟が降りてきたとき、スェウはさっと手を伸ばし、竪琴を足元に落として、両手で梟の体を捕まえた。
 「ブロダイウェズ」
逃げようともがく梟の、柔らかな羽毛に包まれた額に人差し指と中指を当てる。「戻れ、戻れ、戻れ!」
 とたんに、白い羽毛が飛び散って花びらとなり、尖った鉤爪はほっそりとした足に、真っ白な翼はその色のままのローブと白にも近い銀の髪へと、そして黄色く恐ろしげだった両の目は、萌えいづる草のような緑の、優しいまなざしへと変わった。スェウの腕の中で、少女は尚も、もがきつづけ、やがて、逃れられぬと悟ると、はらはらと涙を零しながらその腕の中にぐったりとなった。
 「どうして、行かせてくれないのです。側に入られません。わたしはまだ、罪を償い終えていません」
 「君に罪などないよ、ブロダイウェズ。戻ってきてくれたことが嬉しい。もう森の梢で夜露に濡れて震えなくていい。夜に紛れて、おぞましい鼠や虫を食べなくてもいい。さあ、おいで。温かい寝室を用意させよう」
立ち上がらせようとしたが、長いこと二本の足だけで立つことを知らず、森に暮らしてきたブロダイウェズには、その気力もないようだった。スェウが抱き上げようとすると、彼女は真っ青になって抵抗した。
 「やめてください。またあんなことに、また…」
 「大丈夫、ここには河の水はない。」
 「でも」
 「じゃあ、こうしよう。支えてあげるから、ゆっくり歩いて行くんだ。自分の足で」
身を寄せ合うようにして、二人は長くはない距離を歩いた。館にたどり着くと、既に老夫婦が騒ぎに飛び出して来ていて、すぐさまブロダイウェズのことを引き受けた。老婦人はまるで雛鳥にするようにかいがいしく少女の世話をし、ベッドに連れていった。
 スェウは満足し、その晩は夜更けまで、眠りに誘う優しい歌をつまびいていた。その音色はあらゆるものを眠りに誘い、ミル・カスティスに住む人々は、この年に入ってから初めて、何の憂いもなく、朝までぐっすりと眠れたのだった。

 館での幾日かが過ぎた。
 ミル・カスティスにもようやく、アベルフラウが元通り、祝福されし領主ゴヴァンノンの手によって治められるようになったという報せが届き、アルヴォンの領主サウィルの軍もまた、イストラドの裏切り者をすべて退けて南へ帰還しつつある、という喜ばしい報せが届いた。北の地は平定され、ダヴェドの地の脅威も去った。今やエレリは攻められるがままとなり、守る側へと転じている。諸侯の軍が集まれば、すぐさま攻撃が開始されるだろうと人々は思った。
 ブロダイウェズはようやく歩けるようになったばかり、それも壁につかまりながらではあったが、部屋に閉じこもって誰とも会おうとはしなかった。ことにスェウとは、口を聞くことさえ恐れていた。彼が密かにそれを悲しんでいることを知ると、彼女は夜、眠っているスェウの枕元に花を置いていった。それが文字の書けぬ少女の精一杯だったが、スェウはその花を枕元に、ずっと飾っておくことにした。
 ある日の朝、スェウは弓弦を貼り直し、短剣を研いでいた。
 音もなく乙女は柱の陰に立ち、それをじっと見つめていた。半刻ほどもそうしていたあと、思い切って、彼女は声をかけた。
 「戦にゆかれるのですか、スェウ様」
気配に気づいていなかったスェウは、驚いて振り返った。物思いに沈んでいたのだ。
 少女は瞳に涙を浮かべていた。
 「戦場では、鉄の醜い鳥たちの歌声が響くといいます。あなたの声が二度と聞こえなくなってしまうのではないかと」
 「それで、あのとき追いかけてきたんだね。」
 「…はい。でもそれは、間違いでした」
スェウは震える少女の細い肩に手をやった。
 「泣かないで。君は悪くないのだから」
 「いいえ。わたしのせいなのです。今ははっきりと分かります。わたしは作られたものなのです、スェウ様。グロヌウ・ペピルの城で、わたしは言葉と作法を教え込まれました。ここで、あなた様のものとなり、あなた様の秘密を探りだすようにと。わたしのせいです、わたしが愚かだったばかりに、あなたは命を落とすところでした」
はらはらと零れ落ちた涙が花びらのように足元に落ち、雨に濡れたエルウァインの花のようだった。
 「…だとしても」
銀の髪を撫でながら、彼は言った。
 「僕が許すのだから、誰も君を責められはしない。僕がここにいてほしいと望んだら、――君はそうしてくれる?」
少しの間。
 「それがスェウ様の望みなら。」
 「そう、良かった。それならきっと、ここへ戻ってくる。」
ブロダイウェズは頷き、踵を返して館の奥へ走り去っていった。後には乙女の残した花のような残り香だけ。


 カエルディフの地に諸侯が集い、エレリからの和平の使者が届いた、という噂が辿り着くのは、スェウがミル・カスティスを発った、数日後のことだった。

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