◆59



 踏み込んだ城の中は、がらんとして、拍子抜けするほど静かだった。
 昼間だというのに薄暗く、どこか陰気な気配が漂っている。豪華な調度品も、それを照らす燭台の火も、すべてがまがい物のように思えた。生きた人間が暮らしているとは思えない。あらゆる気配が絶たれていた。
 それでも、ブレイドゥンの鼻はごまかせない。彼はすぐさま、城内に残る何者かの気配を嗅ぎとっている。
 「多分、こっちだろう」
半月状にゆるやかな曲を描く階段の先、広い踊り場を越えて続く重たい両開きの戸の奥に、部屋があった。何重もの重たいカーテンによって区切られ、壁にはびっしりと肖像画が掛けられている。どれもまるで生きているようで、不気味なことこのうえない。室内の空気は重たくよどみ、かすかに、香の匂いがした。
 「嫌な匂いだ。スェウ、窓は?」
 「無いみたいだ。――いや、待てよ」
彼は壁の高い場所に、いくつかの小さな天窓を見つけた。矢をつがえ、それらを片端から撃ちぬいていく。奥のほうから呻き声がした。
 「なんたること。我が館を破壊するとは、ろくな客ではないな」
 「それどころか、あなたの兵たちも悉く鴉の餌にくれてやりましたよ。猟犬たち以外はね」
スェウは矢を番えながら、用心深く最後のカーテンの奥に進んだ。北の果てなるイストラドの領主は、そこにいた。白髪の男は長いガウンを纏い、長い杖だけを持ち、不敵な目をして高座にひとり腰掛けている。傍らには誰もいなかった。従者のひとりさえも。
 「愚かなことだ。このような老人ひとりに、若者ふたりがかりなど。恥を知れ」
ブレイドゥンが言い返す。
 「貴様こそ、我が館であのような卑劣な振る舞いをしたことを恥じるがよい。今日は我が従兄弟に加えられた一撃の仇を打つためにこうしてやって来たのだ。」
 「勇ましいことだ、ブレイドゥン。父に似て。愚かなところもだが」
言うなりグロヌウは杖を振るった。とたんにブレイドゥンは眠気に襲われ、危うく膝をつきそうになる。素早くスェウが支えた。彼は即座に言った。透き通る声が、悪しき気配を叩き落す。
 「この私がいる限り、私の縁者の誰一人として、悪しき呪いなどかけさせはしない!」
はっとして、ブレイドゥンは目を覚ました。苦々しげに、グロヌウ・ペビルは杖をふる手を止める。
 「そなたに呪いは効かぬな、忌まわしき月の子よ。もっと強い宿命に縛られているゆえに。」
 「私はもう月の子ではない。」
スェウは剣を抜いた。「解き放ってくれたのは父だ。あなたは父を恐れているのでしょう、イストラドの領主殿。あの方は、どのような悪しき呪いにも屈さぬゆえに」
 「まさしく。あれは運命に抗う男。この世で最も強い呪い、気高き女王の嫉妬をかけられて、生きながらえた男は他にいない。――黒き剣の嵐、あれはわしにはどうすることも出来ぬ」
老人に剣を向けたとき、スェウは、その手が重くなるのを感じた。その武器はこの世のものではなく、敵を打ち倒すために在らざりきもの。友を助けるためのみにこそ在り。目の前の萎びた老人を見ているうちに、スェウの胸の怒りは収まり、しらじらと照らす月夜の原のように、ただ、哀れみだけが沸き起こってきた。
 「お答えください、イストラドの領主殿。アストラドの領主たる、我が友ゴヴァンノンは何処に?」
 「さて。その答えは、森に住む獣たちが知っていよう」
 「彼を殺したのか!」
怒りに燃え、一歩足を踏み出そうとするブレイドゥンを、スェウは押しとどめた。
 「もう一つ、お答え下さい。我が父の弟にして、我が従兄弟たちの父であるギルヴァエスウィを殺したのは、貴方ですか」
 「知らぬことだ。それは彼の死体をついばんだ、黒い翼の友に聞くがよい。」
ブレイドゥンの手が震えるのが感じられた。スェウは老人を見下ろしたまま、視線を逸らしもせずに、最後の問を発した。
 「最後にもう一つだけ、お答え下さい。あなたが私のもとに寄越した乙女、あの哀れなブロダイウェズを元の姿に戻すには、どうしたらよいのですか。」
 「――それは簡単なことだ」
陰鬱だった老人の顔に、はじめて笑みが浮かんだ。ただしそれは、残酷な、冷たい笑みであったが。
 「天のものは天へ、大地のものは大地に返せばよい。あれは花から創られた。時がくれば枯れ、自然と大地に戻るだろう。」
 「そうですか。分かりました、では」
スェウは老人の手から杖をとりあげ、それを簡単に折ってしまった。老グロヌウは笑った。
 「わしの命を取らぬつもりか、懸命なこと。わしの命を奪う者には、その家系が耐えるまで、子々孫々にいたるまで、身内で殺し合うという不和の呪いが振りかかるはずだったのだが。
 良いか賢しい若者よ、その哀れみに免じて教えてやろう。マース公の亡き後に、アベルフラウの領主が即位するはずだったのだ。残された王妃様を娶ってな。それが出来ぬとなった上、支持者のイダウクも追放されたとあっては、粗暴なルドヴィウ・リスは、すべてを打ち滅ぼしてでも、この国を奪おうとするだろう。誤算だったのはディノディグとリドランの抵抗よ。ルヴァインの王より先に、イオナを手中に収めるはずだったのに」
 「リドランがエレリとの同盟に応じていれば、きっと、そうなっていたでしょうね。」
剣を収め、若者は言った。
 「ブレイドゥン、その人の袖をめくってみるといい」
 「何?」
 「右の二の腕に、黒い三本の傷はあるだろうか。」
言われて、ブレイドゥンは確かめた。「無い。傷はひとつも」
 「では彼は、叔父上のかたきではありません。行きましょう、ゴヴァンノンを探さなくては。獣たちに尋ねるのです」
 「こいつはどうする。生かしておくのか」
 「呪いは、正体を知っている者にはかからないものです。恐れることはもうないでしょう」
こうして、彼らは老人を一人そこに残し城を立ち去った。一歩外に出るや否や、背後で大きな音がして、振り返ると、城はてっぺんの塔から崩れ落ちようとしていた。
 あわててその場から逃げようとしたとき、ちょうど二人の馬が向こうから迎えに走って来るところだった。すんでのところで、スェウとブレイドゥンは城の崩壊に巻き込まれずに済んだ。猟犬たちも一緒だ。
 そして、これがイストラドの北の果ての、呪われた領主の城の最期だったのである。

 イストラドを後にした彼らは、今度はアベルフラウへ向かって南へと進路をとった。ゴヴァンノンがまだ生きているとしたら、その地であるように思われたからだ。街道は海に沿って続き、反対側には豊かな果樹園が広がっている。ここはマース公の縁者たちの治める土地であり、長らくイオナの王に忠誠を誓ってきた平和な領地だった。しかし今は、長く続く戦と領主の不在、イストラドの突然の侵略によって、領境に近い町のいくつかは放棄され、せっかく実った果実も摘む者がおらず、鳥たちがついばむがままになっている。
 領土の半ばまで過ぎたとき、スェウは言った。
 「森へ向かおう、ブレイドゥン。ゴヴァンノン殿の手がかりは、きっとそこにある」
 「本当に森で獣に尋ねるつもりなのか? あの魔法使いの言ったことを信じるのか。オレは獣の意思は判るが、言葉までは知らない」
 「大丈夫。心当りがある。――ブレイドゥン、君はここにいて。森の入口で。猟犬たちは大人しくさせていてくれ。」
森の入口まで来たとき、スェウは連れと犬たちを待たせ、一人で奥へと進んでいった。そうして、よく通る声で森の奥へ向かって呼びかけた。
 「グウェンホヴァル、狼たちの女主人、良き灰色の魔女よ! いらっしゃいましたらおいでください。」
しばらくは、返事がなかった。だが何度目か、声に答えるようにどこからともなく狼たちの吠える声が聞こえた。
 深緑の奥から、二頭の狼たちが飛び出して来た。ぐるぐるとスェウの周りを駆け巡り、嬉しそうに飛び跳ねながら赤い舌を出す。
 「やあ。グウィドリトとグウィディン・アストリス、元気そうだね」
呼びかけ、ふさふさとした首筋の毛に手を伸ばすと、狼たちはまるで犬の子のように若者にじゃれついた。彼は狼たちの後から、白い影のように進んでくる女性の姿をみとめた。グウェンホヴァル、森の女王。この森で起こることは、すべて彼女の知るところとなる。
 「お久しぶりです」
 「まったく。二度と生きて会われようとは思わなかった。死の運命はどうしてあんたを手放してしまったのか。今日ここへ来るとも思わなかったが」
 「尋ねたいことがあったのです。我が友のことで」
灰色の髪の女性は、ああ、というように目尻に皺を寄せ、目を細めた。
 「あの瀕死の男のことかね。運のいいこと。最初に見つけたのが、このわたしの可愛い子たちでなかったら、とうに獣たちの腹の中だったでしょう」
 「では彼はここにいるのですね。生きて」
ほっとして、スェウは胸をなでおろした。「ありがとうございます、森の女王。一度ならず二度までも」
 「お互い様というもの。一度めは暴れ狂う竜たちを鎮めてくれ、二度目はこのわたしに、死ぬまで会うことは無いと思っていたあの子の姿を見せてくれたでしょう。」
スェウは、黙って頭を下げた。グウェンホヴァル、狼の魔女は、遠い目をして人の目には映らぬ森の果てを見つめていた。
 「ほんに良く育った。横顔など、父親の若い頃に瓜二つで。ああ、…これでもう、思い残すことは何も無い。」
 「会って、言葉を交わしてはいかがですか。」
 「いいえ。わたしは見知らぬ女でありつづけたい。情をかわせば、それだけ運命の成る日が過酷になるだけ。母を殺したとしても、そのことにあの子自身が気づかねばよい」
言うや、彼女はくるりと踵を返した。
 「おいで、探し人のもとへ案内しよう。崖の洞窟に匿ってある。ようやく意識が戻ったところなのだよ」
女は賢く、また、自らの運命をよく知っていた。彼女もまた、運命に抗う者の一人だった。
 この時、口にされた言葉は、やがて望んだその通りとなる。良き魔女グウェンホヴァルが死んだのは、ブレイドゥンの狩りの最中に、猟犬たちに追われ誤って矢で射られた時であると伝えられている。


 スェウが戻ったのは、ずいぶん時間が経ってからのことだった。あまりの遅さに、ブレイドゥンは犬たちをけしかけ、森の捜索をさせようとしていたところだる そこへ、二頭の大きな狼に伴われ、ゴヴァンノンを打き抱えたスェウが戻ってきたのだから、ブレイドゥンは仰天した。
 「一体何があったんだ。本当にその人なのか? 傷はすっかり手当てされているし、…それに」
 「聞きたいのはこちらだ、ブレイドゥン殿。何がどうなっているのか。死んだと聞かされた人が迎えに来て、ここはてっきり天国なのだと思ったのに」
 「残念ながら、まだ現世ですよ。ここは」
スェウは笑って、友人の体を柔らかい草の上に横たえた。狼たちはそれを見届けて、森の奥へ帰ってゆく。ブレイドゥンは、不思議そうに狼たちの後ろ姿を見つめている。
 「なんだろう、あれは。とても懐かしい気がした。昔から知っているような…」
 「この森には良き獣も住んでいるのです。さあ、ゴヴァンノンを安全な場所にお連れしなくては。何があったかは、いずれ分かります」
こうして彼らは、ひと夏のうちに、二人きりで三つの領地を開放した。まだイストラドの領主が果てたことを知らず、行き場のない兵たちは、二人の手によってあっという間にアベルフラウの地から追い払われた。ある者は北へ、またある者は海へと逃げた。北へ逃げた者たちは、いずれ、アルヴォンの領主サウィルの差し向けた兵たちによって追われる運命にあった。海に逃げた者たちは、波に飲まれるか、運がよければイオナへたどり着き、ルヴァインの軍に加わったやもしれぬ。

 こうして北での仕事が片付いたとき、スェウは、次の行き先をミル・カスティスの館と決めた。金の鬣の馬を駆る若者が島じゅうを駆けまわっている、と、その頃には既に噂が広まりつつあり、探している者がいることも知っていた。
 だが、少なくとも今はまだ、彼は戻る気がなかったのである。

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