◆58



 さて、スェウとブレイドゥンは打ち揃ってアルヴォンへとやって来た。そこは他の何処にも増して陰気な場所で、土地は荒れ、家々は静まり返り、牛も馬も、鳥さえ歌わず、夏は始まったばかりだというのに、まるで死んだかのように静かだった。
 「おかしなこともあるものだ。ここより北のほうは、もっと賑やかだったのに」
スェウが首をひねると、ブレイドゥンが言った。
 「春の頃からだ、このようになったのは。アルヴォンの領主サウィル殿が、アベルフラウを取り戻すため南からイストラドへ攻め上ろうとしていたとき、突然、病が町や村を襲ったのだ。エヴログの城は特に酷いありさまで、誰も彼も生きる気力を無くし、毎日ベッドの傍らに座り込んでいるばかりだと聞く。そういうわけで、サウィル殿はご自身の城に縛り付けられておいでなのだ。二人の息子たちはエッセネにいて無事だったが、病を恐れて帰れずにいる」
 「なるほど、では、この病の謎を解かなくてはなりませんね」
領主の館のあるエヴログの町は、街道が交わる場所にあった。強固な、古い灰色の城壁が、丘の周囲をぐるりと取り囲んでいたが、城壁の上に守り手は誰も居なかった。城門は半分開け放されており、彼らが入っていっても、誰も咎める者すらいない。
 城の中庭には、牛が眠っており、手入れもされていない馬が、固い草を力なく貪り食っている。台所には火さえ起こされておらず、いつのものか解らないな料理が鍋の底にこびりついているばかり。料理人はかまどのそばでぼんやりと萎びたじゃがいもを見つめ、糸紡ぎの娘は綿を集めるだけでも億劫そうだ。場内のどこにも、まともに動いている人間はいなかった。みな、心ここにあらずというように、ぼんやりと虚空を見つめ、やるべき仕事に取り掛かる直前で手を止めていた。
 サウィルはすぐに見つかった。執政室の椅子に座ったまま、ぼんやりと、手元の書類を眺めている。署名は、最初の一文字しか書かれずじまい。紙の上に垂れたインクが、大きなシミを作っているのもお構いなし。
 「これと何としたことか。サウィル殿」
ブレイドゥンが呼ぶと、サウィルは陰気な灰色の瞳を上げ、数十秒ほども相手の顔を見つめ、ようやく重たい口を開く。
 「ブレイドゥン殿… か。悪い時に来られた。ここは… わしは…」
 「何があったのです?」
スェウが尋ねても、サウィルの表情は動かない。
 「わから…ぬ。スェウ殿、貴殿は確か…その…亡く、亡くなられた…とか」
 「生きていますよ。それは、あなたと同じように確かなことです。さあ、お立ちください。こんなところで、ぐずぐずしている場合ではありません」
サウィルは億劫そうにのろのろと立ち上がったが、ため息をつき、すぐにまた椅子に腰を下ろしてしまった。
 「動きたくない。何も…したくない」
 「こいつは重症だな。どうにかして、皆を正気に戻すほうが先決だ」
 「そのようだね」
二人は、城内を調べて回ったが、何も不審なものは見つからなかった。唯一の収穫は、この病にかからぬ者がいる、ということだった。それは鼠だ。城内の鼠たちだけは、みな、せわしなく、いつもどおりに走りまわっていた。
 日が暮れようとしていた。今夜はここで、宿をとるしかない。城主の許可は得ていなかったが、誰も咎め立てしないのだから構わないだろう。病か呪いかはともかくとして、感染を避けるため、彼らは用心して城の食べ物には手を付けなかった。もっとも、それらの大半は、鼠たちの傍若無人に任せられるままに、食い荒らされていたのだが。
 夜の帳が降りようとしているのに、町も城も、灯がともされることもなく、真っ暗闇の中に沈み込んでいる。スェウは一計を案じた。竪琴を取り出し、庭先で静かに奏で始めた。ブレイドゥンは傍らで、剣を持ち、辺りを見張っている。
 やがて音色に誘われて、目には見えない夜の生き物たちが集まってきた。この地に住まう緑の良き人々だ。スェウは歌った。

 汝らは知るや
 エヴログを襲いし呪いの源を
 人は生けるまま屍と化し
 鳥は歌わず、馬は駆けず


風はそよともしないのに、草むらが揺れていた。穏やかな旋律を奏でながら、スェウはその音に耳を傾けている。
 ややあって、彼は最後の旋律を奏で終わった。手を休め、竪琴を仕舞う。
 「――分かりました、原因が。この城の北西に古い塚があり、その中に三つ首の蛇の頭が収められていたのだそうです。その首が城の周囲に埋められて、周囲に呪いを発しているのだとか」
 「そいつを掘り出して始末すればいいんだな」
 「それと、塚の中に残されている蛇の体を燃やしてしまえば。」
かくて夜が開ける前に、彼らはすべての隠された呪いを見つけ出し、すべて火にくべてしまった。これらは、人ならざるものの声を聞く耳を持った、輝く手の奏者が成したことである。呪いは日の出とともに解け、堕眠を貪っていた人々は唐突に、すっきりとした頭で目を覚ました。そして、この数ヶ月、一体何をしていたのだろうと互いに顔を見合わせた。やらなくてはならないことは沢山あった。家も城も荒れ放題、わがもの顔に走りまわる鼠たちを追い払い、雑草を刈り取り、窓を開け、消えた種火を起こさなくてはならない。
 ブレイドゥンは、城から逃げ出した鼠たちの群れが北へ向かうのを見ていた。元居た場所へ逃げ帰るのだろうと思った。
 「この災いは、グロヌウ・ペビルの成したことだろう。奴のほかに、こんな手の込んだことを仕掛ける者はいない」
 「急ごう、ブレイドゥン。鼠をすべて殺すことはできなくても、追い越すことは出来るはず。」
というわけで、彼らはサウィルに挨拶もせず、すぐにエヴログを発ってしまった。我に帰った領主サウィルは、昨日出会ったスェウが本物であったのか夢であったのかを確かにすることも出来ず、まずは、呪いにかかる前に書き上げようとしていた命令書に署名を終えた。それは北なるイストラドとの領境に兵と物資を送るための命令書で、正気に返った部下たちによって、それは速やかに実行された。いまだアベルフラウの領主の消息は聞こえて来ず、彼のもとには春からの他の領地での戦況も、届いてはいなかった。

 北へ、天をつくエスカイル・オイルヴェルとそれに連なる山々を日の沈む方角に、二頭の馬はひたすら北の地を目指した。島の中でも高地に位置するイストラドの地は夏でも肌寒く、薄く広がる緑の草原の中には、灰色の火山岩がぽつぽつと柱のように立っていた。霧の中では、それらは動きを止めた人のようにも見え、中には、領主の罰を受けて石に変えられた者たちなのだと噂する者もいた。グロヌウはこの地では恐れられていた。魔術を能くし、占いを業とする知恵に長けた老人だったので。若かりし日の武勇は知られていなかった。かつてルヴァインの兵たちがこの島にやって来た時にも、自ら戦場に立つことはしなかったからだ。
 イストラドは、七つの領土のうちでダヴェドに最も近く、イオナからは最も遠い位置にある。用心深いグロヌウ・ペビルは、領地の北、周囲の崖は船をつけるところもなく、攻め入るには急な斜面を登らなくてはならない場所に自らの居城を築いていた。そこは街道の果て、島の北の果てでもあった。
 イストラドの地に入ってすぐ、ブレイドゥンは悪い気配に気がついた。
 「ここからは、用心したほうがいい。獣たちの声が聞こえない。みな、声を潜めているかのようだ」
 「森も、沈黙している」
スェウは眉を寄せ、微かな鳥たちの声に耳を澄ませた。「何か悪い呪いがかかっているのだろう。鼠たちは追い越せたかもしれないけれど、僕らがここにいることは、もう知られているかもしれない」
言い終わるや、見よ、空に暗雲が掛かり始めた。それは地平線の彼方から押し寄せてくる分厚い一群の雲で、瞬く間に旅人たちの頭上を覆い尽くしてしまった。
 激しい雨が叩きつけるように降り始め、二人はどこか、雨をしのげる場所を探さなくてはならなくなった。行く手に小さな村が見えた。彼らはそこへ向かうしかなかった。幸いなことに、一軒の農家の厩に、一晩の宿を借りることができたが、雨は止む気配がなく、それどころかますます激しさを増し、雷を伴ってあたり一面を水浸しにしてしまった。
 「この先、どんな罠があるかは解らないが、これだけは言える。――このイストラドにティレ河の水はない。それは確かなことだ」
ブレイドゥンは乾いた干し草に身をうずめながら言った。「運命を退けたお前を、誰も殺すことは出来ないだろう。」
 「君もね、ブレイドゥン。僕がついている」
 「生意気なことを言う。ついこの間まで、戦い方も知らなかったくせに」
笑って、彼は目を閉じた。スェウはまだ起きていて、屋根に叩きつける雨音を聞いていた。隣で眠っている従兄弟は、最初に会った頃のように、少年と大人の間ではなくなっていた。いつしか大人への成長を完了させていた。

 朝になっても雨はやまず、尚も降り続いていた。空はどんよりと暗く、雲の切れ間も見えない。流れる水はまるで滝のようで、平原は大きな湖のようになって、とても馬では走れそうにない。
 「このままでは、無駄に日が過ぎてしまう」
ブレイドゥンは舌打ちした。「ペンダラン一人では、リドランをそう長く守れまい。ダヴェドのことも心配だ…、どうすればいい」
 「思うのですが、この雨はどこから来ているのでしょう」
スェウは手のひらにためた水を舐め、首をかしげた。「かすかに塩辛い。これは海の水かも」
 「何だって?」
 「だとすれば、もっと海から離れた場所を進めば。海から遠ければ、雨は弱まると思います」
彼らは試してみることにした。街道を離れ、天を貫く高い峰々のほうへ馬を走らせる。スェウの予想は当たっていた。山々から吹き下ろす風が雲を遠ざけ、そこでは雨は弱まり、ほとんど障害にはならなかった。こうして彼らは山脈に沿ってイストラドまでの距離を稼ぐことが出来たが、その先は難しかった。イストラドの領主が住まいは小高く、険しい斜面を持つヴレニ・ヴァウルの先にあり、四方にどちらから近づいても、城からは丸見えだからだ。城には四方にむけて四つの塔があり、それぞれに、射手が陣取って周囲を厳しく見張っている。また城への入り口は、鉄の門で固く閉ざされていた。
 「さてどうしたものか。どうやって入ればいいだろう」
 「構いませんよ、こうするんです」
スェウは塔からの矢の届かぬ場所まで馬を進め、これ以上ないという大声で呼ばわった。
 「イストラドの領主、グロヌウ・ペビル殿! 城内におられるならば門を開け、客人を迎えられよ。イオナの王たるマース公の代理として参った。歓迎の意を示されるならよし、もし拒まれるならば、相応の代償を支払っていただくことになる」
城内は静まり返り、返事はなく、門はぴくりとも動かない。代わりに、塔の射手たちが矢をつがえるのが見えた。
 「それが答えか。ならば」
スェウは馬上で素早く矢を取り、弓を構えた。射手たちが最初の矢を番えるより早く、彼は一本の矢を放っていた。その矢は力強く、最も近い塔の身を乗り出しかけていた射手の胸を見事に貫き、射手は声も上げずに塔から真っ逆さまに転がり落ちた。驚きと怒りの声が上がり、塔からは矢が雨のように降り注いだが、ただの一本もスェウのいるところまでは届かなかった。彼はゆうゆうと二本目の矢をつがえ、さらに一人の射手を射落とすと、続けざまに三本、四本と放ち続けた。矢はいくらでもあった。彼の足元まで塔から届けられるからだ。
 塔から放たれた矢は一本も届かないのに、地上から放たれた矢はすべて的に命中した。まもなく近い塔からは、射手が誰もいなくなってしまった。
 それで、射手たちは矢を射掛けることを諦めた。
 続いて門が少しだけ開かれた。飛び出してきたのは白と黒のぶち毛様をもつ一群の猟犬たちだった。みな、首に揃いの黒皮のカラーをはめている。ブレイドゥンが嬉々として飛び出してきた。
 「下がれ、スェウ。殺すなよ。こいつらはオレが預かる」
猟犬たちは生きた獲物の喉笛めがけて飛びかかろうとしていたが、立ちはだかるブレイドゥンを見て一瞬、足を止めた。獣たちは、一度彼の目を見ると動けなくなり、従うようになる。それが母親の魔女から受け継いだ、獣の長としての力なのだった。
 「よし、いい子だ。座れ」
ブレイドゥンは片手に用心深く短剣を握りながらも、もう片方の手で一頭ずつ犬たちの頭をなで、座らせていった。まもなく、群れのすべては彼の足元にひれ伏し、新たな群れの長に忠誠を誓うようになっていた。
 今度は、門がもっと大きく開いた。飛び出してきたのは、一群の兵士たちと、一人の不気味な大男だった。グロヌウが城の守りに残していた兵たちなのだろう。スェウは弓を仕舞い、剣を抜いた。後ろに友がいると思えばこそ。
 「僕はあの一番大きいのと戦おう。あれは何か魔法の生き物かもしれない。ブレイドゥン、君は犬たちと残りの兵を。」
 「承知した。」
ブレイドゥンは自分の馬に飛び乗り、猟犬たちに向かって高らかに命じた。
 「行け! あそこなるグロヌウの兵どもの兜の緒を食いちぎり、喉笛を噛み割いてこい!」
白と黒のぶち犬たちが群れとなって走りだす。その後を、群れの長が剣を手に突進した。グロヌウの兵たちはその勢いに、次から次へと倒されてゆく。夥しい血が夏草を朱に染めた。これがかつての大いくさでも兵の血に濡れることを知らなかった北の地での、知られるかぎりはじめての戦となった。そこで多くの兵が倒れた。それは、ただ一人、ギルヴァエスウィの勇猛なる息子、ブレイドゥンによって成されたことなのである。
 一方のスェウは、剛力の大男に手こずっていた。その男は褐色の肌で、獣の皮で作った腰巻だけを身にまとい、岩で出来た一本の棍棒を手にしていた。目はひとつしかなく、大きく開いた口には恐ろしげな牙が不恰好につきだしている。人の言葉は発さず、唸り声ばかりを上げ、やみくもに棍棒を振り下ろす。そのたび、地面には大穴が空き、辺りをでこぼこにしていくのだった。それでスェウは、馬を降りて戦わざるを得なくなった。攻撃を避けることは簡単だったが、どうしても、その丈夫な体に傷をつけることが出来ない。
 ブレイドゥンがあらかたの兵を倒し終わった時、スェウはまだ、その怪奇な大男と睨み合っていた。
 「スェウ、大丈夫か? 手伝うぞ」
 「気をつけて。掠ったら死んでしまう。それに、傷が付けられないんだ」
大男は吠えた。その声だけで大地が震え、馬も犬たちも、正気を失ったように走りまわっている。
 「どんなに固い奴だって、目だけは柔らかいもんさ。オレが引きつける。スェウ、お前は弓を」
言うが早いか、ブレイドゥンは足元の石を拾って大男めがけて力いっぱい投げつけた。一つしかない目が、ぎょろりとブレイドゥンのほうを向く。スェウは素早く距離をとり、矢を番え、力いっぱい引き絞った。あやまたず、矢は大男の目に深々と突き刺さる。
 と、この世のものならざる、耳をつんざくような悲鳴が辺りに響き渡った。スェウもブレイドゥンも、あまりの声に耳をふさいだまま地面に身を投げ出した。
 気を失っていたのは、ほんの僅かな時間だっただろう。長ければ、二人とも生きてはいられなかったかもしれない。先に正気に返ったのはブレイドゥンで、スェウは、従兄弟が潟をすっているのに気がついて目を覚ました。
 「耳は聞こえるか」
 「…なんとか」
そうは言ったものの、頭はまだくらくらするし、耳はつんとなったままだ。見れば、犬たちは泡を吹いて倒れ、馬たちはどこかへ逃げ出してしまったのか、辺りに姿は見えなかった。
 「馬のことは心配いらないだろう。あいつらなら、正気に帰れば戻ってくるさ。それよりも」
ブレイドゥンは、開いたままの城門を指した。もはや閉じる者も残っていないのか、ぽっかりと暗い空間が口を開いて彼らを待ち受けている。
 「行こう、グロヌウはきっと中にいる」
倒れてぴくりとも動かない大男の屍を乗り越えて、二人は、ヴレニ・ヴァウルの城へと足を踏み入れた。

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