◆57



 夏の夜は足が遅く、日はまだ西の空に名残り惜しく居残って、白い竜の取り分を引き延ばしていた。
 イオナから森を超えた先、波も穏やかに打ち付ける白い浜がある海辺には、街も村もなく、ただ荒野が広がるのみ。浜に降り立ったスェウは、ここまで送り届けてくれた海の友、沖合にいるイルカたちの群れに向かって手を振った。
 「ありがとう。君たちの王に宜しく伝えてくれ」
イルカたちは潮を吹き出し、海の中へ戻って行く。スェウは額や首筋に貼り付いた金の髪をかきあげ、辺りを見回した。イオナからそう遠くはない。ここは、ディノディグの東のはずれだう。
 浜辺を歩くうち、そこがどこなのかはすぐに分かった。かつてグウィディオンとともに見た、崩れかけた石の砦が見えたからだ。<鷹の砦>、――ここは、かつてルヴァインの軍勢と、イオナの軍勢とが戦い、二人の王がともに倒れた忌まわしい戦場なのだ。しかし今は穏やかな夏の盛り、バナディルの黄色い花が斜面一面を覆って静かに揺れている。
 まだ空は明るかったが、馬もない今、日が暮れるまでにそう遠くへは行けないだろう。まだ体力は完全には戻っていない。若者は塔に宿を求めることに決めた。

 近づくにつれ、そこが、今もなお砦として機能しうるほど堂々とした造りであることが分かってきた。高くはなく、ずんぐりとした造りで、海と平原とをともに睨み据えている。小さな窓がいくつも開かれており、塔の上にも見晴台があって、近づく敵には上から雨のように矢を射かけられるつくりになっていた。城壁はなかったが、かわりに、塔の周囲に堀が張り巡らされ、馬では飛び越えられないようになっている。塔に近づくには、正面に続く道を駆け上がるか、堀に橋をかけなくてはならない。まことに、良くできた守り手の砦だった。
 かつて多くの血が流された痕跡は、もうほとんど残ってはいなかった。折れた剣や錆びた馬具がいくつか、夏草の中に見え隠れしているくらい。塔に近づく者をみとがめる者もいなかった。ここは長いこと無人のままなのだ。塔の中にわだかまる空気は淀んで、わずかに潮の香りがした。
 初夏の風は心地良く、冷たすぎるほどではなかったが、スェウは火を起こすことにした。濡れた服を乾かすためだ。荒野で火を起こすすべは、グウィディオンから教わっていた。小さな皮剥ぎナイフひとつあれば、この国のどこででも生きてゆけるすべも。
 持ち物は少なかった。エスカイル・オイルヴェルの麓なる修道院を発つ時に身につけていた粗末な服と、アランロドに託された剣と、戦場で拾った竪琴と、こまごましたものを入れる小さな腰袋が一つきり。夜にはまだ早い。彼は竪琴を手に取ると、ゆっくりと奏ではじめた。それは勇壮でも悲愴でもなく、ただ草原を通り過ぎる風のように、静かに流れるような旋律だった。
 まもなく曲に誘われて、多くのものが集まって来た。耳ざとい緑の良き人々、夜目のきく鳥や獣たち、戦場跡につきものの浮かばれぬ亡霊たち。沢山のものに囲まれながら、スェウは無心に竪琴を奏で続けた。風に乗って、その音がより遠いところへも届くようにと。
 そうして、どれほどの時が過ぎただろう。突然、獣たちが騒ぎ出した。羽音もたてず、何かが窓辺に舞い降りるのをスェウは感じた。日の暮れ始めた天鵞絨の空の下、それは白っぽく、輪郭がぼやけて見えた。
 手を止め、彼は立ち上がった。
 「君なのか」
白いものは答えもせず、あとすさった。
 「君なんだろう、ブロダイウェズ」
奇妙な生き物だった。鳥にしてはずんぐりとしすぎ、首は胴体に埋もれるようで、目は正面についている。口を開くと、醜いうめき声のような鳴き声が漏れた。それを恥じるかのように、真っ白なそれは翼を広げ、悲しみの声をあげながら、北の方角へ向かって飛び去っていく。哀れな乙女、ブロダイウェズは、夜に生きる鳥、歌うことも許されぬ梟へと姿を変えられていたのであった。
 スェウはため息をつき、一粒の涙を零した。
 「可哀想に。せめて歌うことが出来れば、少しは気が晴れただろうに」
不実な女とも、自分を罠にかけた共犯者とも思わなかった。それほどに彼女は純真で、疑うことも、企むことも知らなかった。スェウの胸の中に、初めて知る感情が芽生えつつあった。それは、かつてグウィディオンが、この砦を眺めながら、妻となるはずだった女性の、誇り高き名を口にしたときに浮かんだ思いに似ていたかもしれない。人は誰しも、それを持たずには生きられない。またそれを持つがゆえに、人は人となることが出来るのだった。
 あらゆるものが逃れられぬその思いを、スェウは、まだ、何と呼べばいいのかを知らない。

 エレリと領土を接するリドランは、幾度もの戦いに傷つき、ダヴェドの軍勢の支援を得ても、戦況は芳しくなかった。
 裏切り者のヘッフドゥンがリドランの兵の多くを連れていったせいもある。また、ルヴァインの兵たちが海からも攻め入ることで、兵を何箇所にも割かねばならなかったのもある。ディノディグへ逃れたマース公の傷が深いとの噂も流れ、暗く重たい雰囲気が戦場を包んでいた。誰も、冬まで持ちこたえられるとは信じていなかった。北なるイストラドの領主がいる限り、アルヴォンのサウィルは兵を動かせない。ディノディグは四方のうち三方までも敵に囲まれ、今や孤立しつつあった。
 そんな時だった、奇妙な歌が聞かれるようになったのは。
 旅のバルズたちがこぞって歌った、イオナの宮廷で起きたという出来事。旅の若い楽師が王にエングレンを歌い、その褒美として王の右腕を奪い去った、――と。

 歌わねば首を切り落とされる鳥
 幾多の歌が屠られたあとで
 竪琴を奏で 美しい声で歌う金の鳥がやってきた
 ルヴァインの長 スタルノは
 めがねに叶いし その鳥に
 褒美にと 右腕を与えた
 ああ、王よ 何と物惜しみせぬものか
 首も腕も 切り落とされれば
 二度と元通り 生えては来ぬだろうに


イオナからの噂は、ほとんど流れてこなかった。ここのところスタルノ王が戦場に出ていないことも、まだ知られてはいなかった。人々がそれを知るのは、旅をする楽師たちの歌からであった。
 戦場に歌が届く頃、リドランの若い領主ヘドゥンはディノディグの戦場に赴いており、町は弟のブレイドゥンが守っていた。群れの長はよく防いだ。海からの敵も、陸からの敵も。しかし壊された港はまだ元通りにはならず、船も足りなかった。ダヴェドの援軍があってもなお、海戦に長け、攻め入るのも逃げるのも風のような、ルヴァインの戦士たちに致命傷を与えるには至らなかった。
 ブレイドゥンはまだ、何も知らされてはいなかった。館の中でスェウが裏切りに遭った日のことが忘れられず、また、彼はもう死んでしまったものと思い悩んでいた。卑劣なグロヌウ・ペビルを館に通してしまったのは自分なのだ、と。
 厩には、見事な金の馬ヌウィブレが繋がれ、今も主の帰りを待っている。気難しいこの馬は、普段、決して他人を乗せようとはしなかった。一度だけ、グウィディオンにスェウの身に起こった不幸を告げに行く時、ヘドゥンを乗せただけ。戻ってきて以来、馬は人に触れられることも好まず、一冬のあいだ、一度も梳られることなく過ごしていた。
 そのヌウィブレが、今宵は何故か気もそぞろに、しきりと空を見上げ、月の出るのを待っている。時折、厩の戸に体当たりしては馬丁に鎮められる繰り返し。物音を聞きつけたブレイドゥンが厩にやってきた。
 「どうした、何を騒いでいるんだ」
 「は、どうにも、あの金の馬が暴れておりまして」
力の強い若駒が暴れるせいで、厩の柱は傾き、戸が軋む。
 「外に出たいのだろう、出してやれ。」
 「は、しかし、逃げてしまっては」
 「心配はいらん、賢い馬だ。それに、その馬は主人と決めた者しか背には乗せない」
馬丁は馬小屋を開け、類まれなる駿馬を外へ誘った。フウィブレは、初めて見るかのように天の星々を振り仰ぎ、見事な金のたてがみを風に散らした。誰もが惚れ惚れとするような美しさだった。金の毛は真っ白に輝いて見えた。冬の間、ただの一度とてこんなふうに嬉しそうにしたことなかった。
 ブレイドゥンは胸騒ぎを覚えた。それは予感に過ぎなかったが、次第に大きくなってゆく胸の高鳴りを、抑えることは出来なかった。
 「すぐに馬具をつけろ。オレの馬にもだ。」
こんな時間にどこへ、とは、誰も尋ねなかった。誰一人、軍を率いる者の言葉に逆らおうとは思わなかった。
 久しぶりに馬具をつけ、意気揚々と走りだすヌウィブレの跡を追って、ブレイドゥンも馬を駆った。

 馬は町の門を抜け、リドランとディノディグを隔てる山のふもとへ向かっているように見えた。街道に沿って、半里もいっただろうか。突然、金の馬の歩が早まった。ブレイドゥンの馬では追いつけず、ために、彼は全力疾走せざるを得なくなった。月明かりに照らされ、ずっと昔、エレン・ルイダウクの敷かせた白い街道がどこまでも伸びている。
 ヌウィブレは、そう遠くまで行ってはいなかった。道を外れ、すぐ脇の木陰で何かに身を摺り寄せていた。馬の歩調を緩め、ブレイドゥンは二本の足で飛び降りた。喜ぶ馬のいななきが聞こえる。予感は、確信に変わった。
 「スェウ、お前なのか?」
木陰に隠れた人物を確かめる間も惜しく、彼はたまらず誰何した。「本当に?」
 ややあって、聴きなれた、懐かしい声が彼に答えた。
 「やあ、ブレイドゥン。生きていてくれて嬉しいよ」
 「それは、こっちの台詞だぞ!」
駆け寄って、彼は従兄弟を掻き抱いた。今や背は、互いに同じくらいになっていたのだが。
 「どこで何をしていた。生きていたなら、もっと早く戻ってきて欲しかった」
 「傷を癒していたんだ。…」
スェウの瞳に過ぎった色に気がついて、ブレイドゥンは、浴槽に残されていた、忘れようにも忘れられない夥しい血のことを思い出した。
 「そうだったな、すまなかった。オレも、もう諦めかけていた。――そうだ、お前が戻ったことを知れば、皆、戦う気力を取り戻すぞ。館へ行こう」
若者は、首を振った。
 「すぐに行かなくては。僕の弓と短剣は、どこにある?」
 「行くって」
 「イストラドへ。」
その一言で、ブレイドゥンは従兄弟が何をしたいのかを察した。
 「一緒に行くぞ。武器をとってこよう、お前のも、オレのも」
 「では、言伝もお願いできますか。ダヴェドの王たちが、まだ、リドランにいるのなら」
彼は、青月城の広間でスタルノに聞いたことを伝えた。「ダヴェドにルヴァインの軍が迫っているのです。国が狙われれば、王たちは戻らざるを得なくなるでしょう。」
それを聞いて、ブレイドゥンの心は乱れた。愛おしい乙女のいる国が、海の荒くれどもに蹂躙されるのを恐れた。
 「王に、波の息子に助力を願うよう伝えてください。海の上でなら、彼以上に頼もしい味方はおりませんから。」
 「わかった、そうしよう。」
かつて自らが敵と誤認して斬りつけた、その人物に想い人の国を守らせることは、ブレイドゥンにとって心苦しかった。だが狼に、海を駆けることは出来ない。
 館に戻ると、丁度、廊下に立って歓談しているプイスとペンダラン・ダヴェドに出会った。彼らは、プレイドゥンがスェウの弓を携え、いそいそと出かける準備をしているのを訝しんだ。
 「ブレイドゥン殿、こんな時間から狩りに行かれるおつもりか。それに、その弓をどうなされるおつもりか」
 「北に行く。」
プイスが反応した。
 「イストラドへ行かれるおつもりか。お一人でか」
 「いや。二人でだ」
 「まさか、あの方が」
ペンダランの顔が抑えきれぬ喜びに輝くのを、ブレイドゥンは手で制した。
 「このことはまだ、内密に願いたい。特にエレリには知られぬよう。貴殿らにとって悪い報せもある。ルヴァインの海の軍が、ダヴェドへ向かったそうだ」
輝きは失われ、暗い表情が彼らの間を支配した。良き知らせは、多くの場合、悪い報せと対になる。その逆は滅多にないことだが。
 「ルヴァインの王の右手を奪った金の鳥は、波の息子に助力を願え、と言っていた。そうするのが良いとオレも思う」
 「では、王はそのようになさいませ。私はここに留まり、リドランを守ることにいたしましょう」
ペンダラン・ダヴェドは言い、そうして三人は足早に別れた。希望が戻ってきたのだ。たとえ今は悪い時でも、それが死なぬ限り明日はやって来る。

 ブレイドゥンは人知れず館を抜けだし、街道沿いで待つスェウのもとへ戻った。まだ夜半までは時間があり、月は道を照らしている。
 「すぐに発つとしよう。話は道すがら聞かせてくれ。腹は空いていないか」
 「大丈夫だ」
 「では北へ」
イストラドへ至る最短の道は、リドランを出てすぐに三叉路を北へ折れ、そのままアルヴォンの地を貫く街道を真っ直ぐに北へと向かう道だった。よく踏みならされた街道は馬でも徒歩でも行き易く、また戦場からも遠い。
 アルヴォンは、七つの領地の中でも痩せた土地だった。ことにイストラドとの境となっている、凍てつくエスカイル・オイルヴェルから吹き下ろす風の届く範囲はどこでも、森は黒く、大地は灰色、畑にするには土地が痩せ、牧草となる草すら育ちにくかった。この地の領主であるサウィルが、陰鬱な顔をした男であるのも無理はなかった。
 「そういえば、ダヴェドの宮廷で遭ったのは、イストラドとアルヴォンの領主お二人だった」
馬を駆りながらスェウは呟いた。
 「ダヴェドに近い二つの領地でした。イストラドは、ダヴェドから近い」
 「そうだな」
ブレイドゥンは、僅かに先をゆく従兄弟の背をぼんやりと見つめていた。こうして生きて帰ってきてくれたことは嬉しかったが、それが彼にはまだ、信じられずにいるのだった。月の光が消えても、彼はまだ、そこにいるだろうか。そう思ってしまうほどに、以前にも増して若者は、この世の物ならざる輝きを宿して見えた。
 「グロヌウ・ペビルを倒せたら、ダヴェドを助けに行けるかもしれません。近いのですから。ブレイドゥン、そんなに心配しなくても――」
 「オレが心配しているのは、お前のことだよ。スェウ」
スェウは、驚いたように振り返った。彼は馬をそれほど早く駆けさせているつもりはなかったが、足の早いヌウィブレのそれは、ブレイドゥンの駆る馬の全力疾走に近かった。気づいて、彼は馬の歩調をさらに緩めさせた。馬はほとんど横に並び、低くなった月に照らされた影は、揃って長く延びた。
 「本当にもう、大丈夫なのか。何があったのか、お前はまだ何も言ってくれていない。伯父上はリドランに戻らず、ディノディグでヘドゥンとともに戦っていた」
 「もう、大丈夫。本当に」
彼は微笑み、胸に手を当てた。
 「運命は、それほど酷いものじゃなかった。自分が傷つくより、他の誰かを不幸にしてしまう運命のほうが、もっと酷い」
 「済まなかった。グロヌウの企みに気付かなかった」
 「あれは君のせいじゃない。ブロダイウェズのせいでもない。君たちを利用したあの男を、僕は許さない」
それは憎しみ、という感情だった。貫かれた傷の痛みより、友人たちの悲しみと、美しい乙女の嘆きのほうが胸を刺した。
 「アベルフラウのゴヴァンノン殿はどうされていますか。冬に噂を聞いてから、誰からも、その後の消息を聞いていないのだけれど」
 「おそらく囚われているのだと思う。グロヌウは狡猾で、悪しき魔術を使う男だ。モール・リッドの魔女が母親だと、噂されたこともある。アベルフラウの兵たちも多くが命を落とした。今残っている、わずかな兵たちは、スェウ、お前の父上のもとにいる」
 「ミル・カスティスに?」
 「グロヌウも、ディノディグまでは攻め入ることが出来ない。グウィディオン殿が恐ろしいからだ。グウィンヴリンの地に埋められた巨人の首のように、あの人が両目を開いている限り、誰も、その地を力ずくでは越えられない」
スェウは微笑み、一人小さくうなづいた。
 「マース殿の傷の具合はどうなんだろう。イオナから逃げのびる時、手傷を負ったと聞いたけど」
 「危ないという噂もあったが、名医モルガン・ティッドが戻ったそうだから、きっと大丈夫だろう。負った傷の代償に、スタルノ王の右腕が支払われたと聞けば、すぐに元気になるに違いない。」
 「そうですね」
 「さあ、聞かれたことには答えたぞ。今度はお前が教えてくれ。どうやってイオナでルヴァインの長の腕を奪ったのか。どうやってリドランまで戻ってきたのか。聞かせてくれ、姿を消してから、お前がどうやって生きて帰ってこれたのかを」
馬たちは、並んで夜通し走り続けた。東の方から日が昇る頃、彼らの馬は、はや、ディノディグとアルヴォンの境まで近付いている。ティレ河のきらめきは遠くなり、土地は痩せ始めていた。

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