◆56  *ここから再開分



 まだ夏は始まったばかりだというのに、人々の心は重く、既に何年も冬が続いているかのようだった。
 光はあれど、大地は暗い。霧はすっかり晴れ、過酷な現実ばかりを人の目に突きつけた。

 イオナの地、王の住まいなる青月城が落ちたのは、スェウの着くわずか数日前のことだった。その報せは、まだディノディグへも届いていないだろう。町を取り囲む崩れかけた城壁の上にはルヴァインの橙と黄色の旗がひらめき、射手たちが守っている。町の人々やマース公がどうなったのかは、判らない。引き返すよりほかはなかった。
 道には、同じように引き返してきた者や、戦を畏れて近くの町や村から逃げようとしている人々もいた。彼らの噂話からスェウが知ったことは、いまや、この島の半分がイオナに反旗を翻す者たちの手に落ちたということである。アベルフラウはイストラドの領主、悪しきわざを使うグロヌウ・ペビルの手に落ちたまま、取り戻すことはかなわなかった。ケルニュウのそぞろなる民のうち、長テイルノンととともにイオナについた人々は、今もグリン・キッフの峠を守ってはいたが、それ以上どうすることも出来ず孤立している。リドランはダヴェドの援軍を得てエレリと戦っていたが、手一杯ゆえにイオナへの救援を送ることは出来ず、ディノディグの領主とその軍だけが、懸命にイオナを解放せんとしているのだった。
 今や国は分断され、法を守護する者は誰もいない。ルヴァインの荒くれたちの船足は速く、海岸線を、あちらへ、こちらへと荒らしまわる。逃げ場のない人々は森や谷に隠れ住み、息を潜めるばかり。待てど助けはこなかった。いずれこの国は引き裂かれ、欲深いそれぞれの領主たちと、恐ろしく残酷なルヴァイン人の間で分割されるのだと誰もが諦めていた。あらゆる栄光は過ぎ去り、希望は枯れたのだと。

 ただ一人、スェウだけは知っていた。まだ、全ての光が死んだわけではないことを。
 彼は馬を引き、戦場を歩いていた。そこはエレニトの森に近く、敗走するマース公の守備兵たちが、ルヴァインの荒くれどもに倒された地だった。死者はいまだ痛ましくそこに横たわったまま、葬られることもなく、青白い手足を晒している。
 彼はその中に楽師の姿をみとめた。宮廷から逃げてきたのだろう、傍らには竪琴がひとつ、弦も切れぬまま落ちていた。彼はそれを拾い上げ、音色を確かめて荷物に加えた。
 と、そのとき、荒々しい足音と金属音を響かせて、残党を求めて巡回するルヴァインの兵の一団が、スゥウのほうへやって来た。
 「お前、そこで何をしている。」
 「戦場に果てし者たちのために、哀歌を考えていたところなのです」
彼は、そう答えた。見れば戦場などは無縁に見える、華奢な体つき。フードつきの粗末なマントに身を包み、駄馬を引いている。
 「旅の楽師か。ケルニュウの、そぞろなる民の者か?」
 「わが父は、長テイルノン・トゥリヴ・ヴリアントの友人でした。」
 「ならば、ちょうどよい。来るのだ、はるばる海を越えてきた、我らが王がこの島の歌を所望している」
近づいてきたとき、ひとりの兵がスェウの帯びた深緑の立派な鞘に眼を留める。
 「まて。楽師よ、その武器はなんだ。」
 「これは、敵を打ち倒すものではございません」
答えて、若者は自ら武器を止め具から外し、兵に手渡した。「抜けるかどうか、お試しください」
 兵たちはそうした。そして誰もが、剣を鞘から抜くことは出来ず、しまいに苦笑いとともにスェウに返してきた。
 「抜けぬ剣は剣ではない。護身用の飾りなれば、恐れることもなかろう」
こうして彼らは、それが何であるかを知ることは無かったのである。

 兵たちに連れられて、スェウはイオナの町の門を潜った。
 そこは再び襲った戦火によって荒れてはいたものの、かつてのように霧に包まれてはいなかった。死んだように息を潜めていた頃とは違い、そこかしこにルヴァインのしるしをつけた兵たちがいた。だが、町のもとの住人の姿は、どこにも見えない。家に閉じこもっているか、みな逃げ出してしまったのか。
 王の住まいなる青月城からは、青と白とのイオナのしるしが、すっかり取り外されていた。前庭にはいくさの道具が運び込まれ、岸辺にはルヴァインの足の速い細い船が何十隻もつけられている。前の年、ケルニュウの沖で沈んだよりはるかに多い数だ。彼はその数と、兵とを、それとなく数え、しっかりと覚えこんだ。
 「ここで足を洗え。馬は預かっておく。それが終われば、我らが主のもとへ連れて行こう」
城内には、かすかに血の匂いがわだかまっている。スェウはそのわけを訪ねようとはしなかった。ここにたどり着く前に、噂も少しは耳にした。奥にいるのは、ルヴァインびとの長たる、残酷王スタルノであるはずだった。彼の黒い剣は音も立てずに人の命を奪うのだといわれていた。

 広間に一歩入るや否や、スェウは、そこで何が行われているのかを知った。
 竪琴やリュートを手にした楽師たちが壁際に揃えて集められ、ひとりずつ中央に引き出されていく。高座の上の、かつてマース公が座っていたその場所に、赤い髪、炎のような赤い髭をたくわえた堂々たる体躯の男が一人、王冠を弄びながら冷たい瞳で、ひきだされてきた哀れな楽師を見下ろす。床には既におびただしい血が流れ、傍らには、首の無い体がいくつか、窓の外に捨てられるのを待っている。
 「歌え」
男はおごそかに、震えて声も出ない楽師に向かっていった。
 「我が栄光の歌を歌え。この島の王として相応しいと、わしを讃える素晴らしい詩を作るのだ」
楽師は声も出ず、旋律を奏でることも出来ない。既に名だたる詩人たちが何人も試し、素晴らしい歌を歌ったにもかかわらず、目の前で首をはねられていったのである。
 スェウは広間に進み出て、膝を折り、震える楽師を押しのけて、自ら名乗り出た。
 「よろしければ、殿。私が先に試みましょう」
たったいま広間に入ってきたばかり、惨状を目にしても動ずる様子もないこの若い楽師に、スタルノは興味を惹かれたようだった。
 「そなたがか。いずこから来た、名は何という」
 「さても、歌が気に入られなければその場で首をはねられる者、胴と離れるやもしれぬ首に名乗る名はございません。」
言うなり、彼は竪琴を取り出し、ひざまづいたままで、それはそれは見事な旋律を一節、奏でてみせた。
 「さて王よ、私は王を何とお呼びすればよろしいか。王の家系はどのようで、どんな素晴らしきことをなさいましたか。」
 「わしの名はスタルノ、ローディンの子。黒きゴーラム・ヴェールの地を治める者なり。今はこのイオナの地も我が物とした」
 「では、このようにいたしましょう。

 誉れ高きローディンの子
 燃えたつ炎の王 スタルノは
 波の馬を駆り、霧深きイオナの地に攻め入った
 青き月の城は王の手におち
 金の鷹は王冠を落とした
 風のように
 黒きゴーラム・ヴェールの地の王の名は広まり
 イオナびとの口の端に上るだろう


…いかがでしょうか?」
 「素晴らしい。もっと続けてくれ」
 「かしこまりました。

 イオナの海は猛り狂い
 ルヴァインの馬を飲み込んだが
 力強き勇士たちを飲み込むことあたわず
 波の息子は海に沈めり

 イオナの鷹は旗印をひらめかせ
 ルヴァインの友らに矢を浴びせたが
 恐れ知らぬ勇士たちを退かせることあたわず
 月の息子は地に落ちれり


…もっと続けますか?」
返事はなかったが、スタルノがそれを望んでいることは明らかだった。スェウの美しい歌声と、奏でられる不思議な調べに、広間にいた人々はみな、うっとりと耳を傾け、誰もが他のことをすべて忘れた。彼は歌い続けた。

 …されど王国は眠らず。
 黒き風が破滅を運び
 あらゆる栄光をその手から奪い去るだろう

 青き月の女王、忘却の妖精は
 いまだこの地を支配せり
 波の息子は浮かび上がり
 地に落ちた鷹は 再び翼を得て 舞い上がる


スタルノは閉じかけていた目を開き、きっとスェウを見た。
 「もはや敵は生きていない。わしは全てを打ち倒した。」
 「ではマース公もですか?」
 「そうだ。城を逃げるとき、深い手傷を負っていたのだからな。ディノディグに隠れようとも、リドランまで逃れようとも、長くはあるまい」
 「ディノディグは落ちるかもしれません。ですが、山を越えた先リドランは、ギルヴァエスウィの誇り高き息子が守っています」
 「もはや時間の問題だ。エレリの軍が夏至にはリドランを落とすだろう」
 「リドランには、ダヴェドからの援軍もいると聞きましたが。」
 「ダヴェドのプイスなど恐れるに足りず。本国に向かわせた船団が国を抑えれば、いずれ軍を引かざるを得なくなる。憂い事など、何もないのだ。さあ歌ってくれ。続きを歌ってくれ。わしの栄光を」
スェウは竪琴をとり、さらに旋律を奏で続けた。だが、その音色は、それまでとはほんの僅かばかり違っており、速度も僅かばかり早かった。
 広間から聞こえてくる音色に誘われて、ひとりの男が入ってきた。船乗り特有の日に焼けた黒い肌に、ルヴァインびとの赤い髭。それに、両の腕には、重い金の腕輪が鈍く輝いている。男は、血に濡れた広間の中央でただひとり、王を前にして歌いあげる、歳若い歌い手の姿をみとめた。
 スェウは歌った。

 猛きルヴァインの王 スタルノは
 御座の上にありて 栄光のしるしを掲げた
 戦の木らは傍らにはべり
 玉座の主の敵を打ち倒さんとする

 荒野のヒースは踏まれても立ち上がり
 風は切り裂けどもとどまることを知らず


王は不機嫌そうに若者を見下ろす。
 「まだ、何か恐れることがあると言いたいのか。」
 「はい、王よ。王の打ち倒される者どものなかに、黒き風がございませぬ。一体誰が、風の行方を知っているでしょうか。」
 「それは、あの呪われた男、グウィディオンのことか?」
スェウは、声を張り上げ、大股に近づいてくる男を見た。用心深く腰に帯びた重い剣に手をかけ、マントを脱がぬ旅の楽師を見下ろしている。
 「その名には覚えがある。前王であった、わしの兄がこの国へ攻め入った時、ルヴァインの兵どもを最も多く倒した男だったな。」
 「その通り。そしてリドランで我が義弟を倒した男でもあります、陛下。その身に不運を纏うとはいえ、あの男はたしかに危険。」
 「しかし、いかな剛勇の者とて、一人でルヴァインのすべての兵を相手には出来ん。マース公の脱出に手を貸したのち、ディノディグの地に留まっているのが精一杯だろう。」
 「では、あの方は無事なのですね。」
若者は、はや、立ち上がっていた。
 「私の歌はこれで終わりです、殿。旅を続けなくてはなりませんので」
 「待たれよ。ここに留まり、歌い続けるがよい。されなくば、せめて褒美を受け取られよ」
スタルノ王が、従者に命じようと腰を浮かすより早く、王と若者とのあいだに猛きカーリが立ちはだかった。スェウが僅かに半歩を前に踏み出したのを、見逃さなかった。
 「そこもと、顔を見せて名乗られるがよい。わしの目は誤魔化せんぞ。その手は細くとも、ただの楽師ではないことくらい判る」
スェウは口元に笑みを浮かべて、言った。
 「よろしければ陛下、私への褒美として、そこな楽師たちの命をお助けくださいますように。王たるものは寛大であるものです。またいかなる名声も、それを歌うバルズたち無くば広まらず、後世には伝えられませぬ。歌が死ねば、栄光は忘れ去られ、過去の王たちはみな死ぬのです。」
 「よかろう。」
スタルノは答え、カーリが同意するのを待った。カーリは言った。
 「陛下にとっても、それがよろしかろう。楽師たちはみな去るがよい。ただひとりを除いては」
スェウは一歩も動かずに、カーリが剣を抜き、近づいてくるのを見ていた。フードが跳ね除けられ、その少女のような容姿があらわになるや、人々はみな驚いた。とても血に濡れた広間で、自らの首をかけて歌うような男には見えなかったからだ。
 カーリがもう一歩近づこうとするより早く、若者は一歩、あとすさっていた。竪琴を小脇に抱え、広間の反対側にいる楽師たちに向かって叫んだ。
 「おのおのがた、よく聞かれよ。そして見よ。見たならば、ルヴァインの王の気の変わらぬうちに、獰猛なる番犬の牙を剥かぬうちに、疾く立ち去られよ!」
言うが早いか、彼は腰に帯びた剣を抜き放った。――彼にしか抜けぬものだった。たとえ何人の兵が確かめたとて、誰ひとり、その秘密を見抜ける者はいなかっただろう。
 ただの一度も剣を手にしたことなく、ただの一度も剣で戦ったことはなく。
 されど間近に見てきた父の技を、彼は確りとその脳裏に焼き付けていた。初めて抜いたというのに、剣はまるでもう一方の腕のようだった。
 一瞬の隙をついて、彼はカーリの脇をすり抜けた。一足飛びに高座へと飛び上がり、そして、侍従の差し出した瑠璃の盃をとろうと伸ばしていた、スタルノ王の腕めがけて、振り下ろしたのだった。

 「貴様!」
振り返るより早く、カーリの剣が金の髪をかすめた。怒りに髪を逆立てて、真っ赤な猛将が迫ってくる。だが、スェウはまるで小鳥のように、振り下ろされる死の一撃をひらひらと左右に避ける。
 スタルノは失った右腕を押さえて叫び声を上げていた。その声で、兵士たちが我に返った。
 「そいつを捕らえよ、捕らえよ!」
スェウは、楽師たちが混乱に乗じて逃げ去るのを目の端で確かめていた。広間は大混乱となり、女たちの悲鳴、駆けつける兵士たちの足音でごった返した。
 城の構造はよく知っていた。楽師たちを逃がすため、彼は門とは逆の方向に逃げていた。かつて、気高き王妃ブランウェンが住んでいた塔へ。かつて、幼き日に女王に招かれて赴いた道を。
 彼の俊足についてこられる者は、そう多くなかった。螺旋階段を登り切る頃には、後ろにいるのは王の猛将カーリのみ。男は、目の前で主君を傷つけられた怒りから、しっかと剣を握ったまま、スェウにすこし遅れるばかりで、ぴったりとついてきた。それでも、息は上がっていたが。
 もう逃げ場はないはずだった。にもかかわらず、麗しい若者は武器をとりもせず、ただ、微笑んでいた。背後には逆巻く海へと張り出す窓だけがあり、彼はその前に、怯えも猛りもせず、静かに立っていた。
 「よくもまあ、飛ぶように走ることだ」
カーリは、剣を若者に向けた。「だが、人である以上、ここから空へ逃げることは出来んぞ。殺すには惜しいが、王の右手の代償は貰わねばならん。歌の褒美として与えられたのは、楽師どもの命であって、王の右腕は高すぎる」
 「あれは、この国の人々に与えられた悲しみの代償です」
と、彼は朗らかに言った。
 「マース公に加えられた一撃と、失われたイオナの忠実なる兵たちへの賠償としては、安すぎます。」
 「名を名乗られよ。そこもとは何者か。マース公の縁者なのだろう」
スェウは微笑みを消し、、じっとカーリの目を見つめて言った。
 「グウィディオンの息子、スェウ・スァウ・ゲフェスというのが僕の名です。」
それを聞くや、カーリの目に炎が燃え上がった。彼は高らかに笑った。
 「貴殿か、リドランで我が義弟を殺したというのは! 呪われし男の息子、よもやこのような場所で相まみえるとは。ならばわしは、何としても、そこもとの命を貰い受けねばならぬ」
言うや否や、男は真っ赤に燃えて突進した。だが剣の切っ先は、スェウの体に触れることはできず、虚しく宙を斬った。若者は飛んだ。後ろ向きに、開いた窓の外へと。

 カーリは窓枠に取り付き、空に広がるマントの端を見た。両手を広げ、まるで鷹が空を滑空していくように、金髪の若者は紺碧の海に向かって落下していく。下は逆巻く波と岩に叩きつける白い波。浜は遠く、塔の下には切り立った崖しかない。
 遅れて兵たちが追いついてきた。塔の上で、楽師が身を投げたと聞かされた彼らは、王の敵は死んだものと思い残念がった。ただ一人、カーリだけは、若者がまだ生きていると確信していたのだが。

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