◆55



 その村は、アルヴォンの果てに位置した。
 人々は、冬の季節にエスカイル・オイルヴェルの険しい道を越えて来る者がいたことに、ひどく驚いたが、病人を抱えているを見ると、すぐさま宿を用意した。それほど大きくはない町だった。中心には教会堂の高い尖塔がそびえ、赤い屋根の家々が重なり合うように棟を寄せあっている。
 呼ばれた医師は、スェウを見て絶望の吐息を漏らし、首を降った。
 「ひどい傷です。背中から胸まで貫かれています。それに衰弱も激しい。神のご加護があれば、助かるかもしれませんが」
 「では、教会に運ぼう。息子が助からねば、島のあらゆる光は消えてしまう」
青ざめた顔色の若者は、教会に運ばれた。骨と皮だけになった細い腕は、まるで木の枝のようだった。その姿は人の涙を誘わずには居られず、人々は気の毒なことと噂しあった。
 医師は出来る限りの手当てをして、家に戻っていった。グウィディオン一人が床に付き添う。

 教会に仕える修道女が一人いた。灰色のローブに身を包んだ、ほっそりとした若い娘だった。彼女が食事を運び、部屋に火を起こした。その手に目を留めたグヴィディオンは、ふと顔を上げた。
 「不思議なことだ。貴女には、どこかで会ったことがある」
 「気のせいでしょう、わたしはずっとこの教会で、神にお仕えしているのですから。」
 「では、なぜ、そのように悲しい顔をするのか。肉親に対するような目で、この子を見るのは何故か。俺の記憶に間違いが無ければ、そなたはアランロドと呼ばれていたように思うが」
娘は、灰色のヴェールの下から上目遣いにグウィディオンを見た。その、ほりの深い顔だちに、間違いはなかった。
 「やはりそうだ。白き手のアランロド、貴女か」
修道女は悲しげに項垂れた。以前と変わらぬまま、叱られた少女のような表情で、スェウを見ていた。
 「約束は、お守りいたしました。一日も欠かさず、スェウの名を思い出し、祈ってきました。でもどうして、こんな酷いことになってしまったのでしょう。あれからそれほどの時が経ったとは思えないのに、どうしてこの子はこんなに傷ついてしまったのでしょう」
側に寄り、アランロドは痩せた頬を見、色を失った髪に触れた。腕に触れ、その冷たさに、涙が零れ落ちた。
 「すまぬ。俺の力が至らなかったせいだ。」
 「いいえ、謝らないで下さいませ。わたしには、責める資格などございません。ただ…」
銀の輪の娘は、胸に手をやった。その時だった。
 死んだように目を閉じていたスェウが薄く目を開き、グウィディオンの名を呼んだのだった。男は近づいて、顔を寄せた。
 「ここにいる。何だ」
 「…ブロダイウェズを探さなくては」
風に揺れる草の葉の擦れるほどにか弱い声で、彼は言った。「ひどく傷ついているはずです。自分のせいだと。でも違う、彼女のせいではない…」
 「分かっている。グロヌウのしたことだろう。ブロダイウェズというのは、ミル・カスティスから追ってきたという少女のことか」
 「グロヌウが彼女を打つところが見えました。おそらく、姿を変えられているはず…」
声が震え、息をついて、頭が枕に沈んだ。アランロドは小さな悲鳴を上げて床に駆け寄るが、スェウが浅く息をついているのを見て、ほっと安堵する。
 「これ以上は、いけません。今は話をしないほうが」
 「分かっている。俺はイオナへ戻り、賢者モルガン・ティッドを連れてこよう。それまで、スェウのことを頼めるか」
 「もちろんです、我が身にかけて。」
 「では、頼む」
言うが早いか、グウィディオンはあっという間に表へ出てしまう。厩から黒い馬を引き出し、ひらり飛び乗ると、イオナ目指して一直線に走る。
 噂に、エレリとディノディグの軍がぶつかり、双方ともに手傷を負ったことを知った。ケルニュウとイオナの軍もぶつかった。自由の民のものである平原が血に染まるのは、詩人たちの知る限り、これが初めてのことであったという。大きな戦だった。ルヴァインの多くの手勢を失っても、まだ、エレリには数多の武器と人がいた。北の果てなるイストラドは、不気味に沈黙している。

 グウィディオンは誰にも会わなかった。スェウが生きているとも見つかったとも言わなかった。不実な加害者が、再びスェウの命を狙うことを恐れたのだ。誰も消息を知らず、それゆえ人々は暗い気持ちで冬を過ごした。医師モルガンと、アランロドの手厚い看病のお陰で、スェウは少しずつ、命を取り戻しつつあったのだが。


 一年で最も寒さの厳しい頃になり、アランロドは、病人の部屋を暖めようと、火を起こしていた。窓は凍りつき、床は冷たく、雪まじりの風がひっきりなしに扉を叩いていた。部屋にはモルガンの擦り合わせた薬草の匂いがかすかに漂っており、横たわる若者の額には、冷たく絞った布がかけられていた。
 思いに沈んでいた彼女は、眠っていると思い込んでいたスェウが目を開けているのに気づくまで、時間がかかった。
 「少し…、窓を…開けてもらえないでしょうか」
かつて力強く響いた声も、今は、耳を澄ませないと、ほとんど聞き取れないほどだ。
 「開けたら風が入ってきますよ。エスカイル・オイルヴェルから吹き降ろす風が強いの」
 「ほんの少しでいいんです」
懇願され、アランロドは迷った。窓は、開かないほど固くは凍り付いていないが、たった今、起こしたばかりの火が消えてしまうのではないかと恐れた。
 それでも、彼女は冷たい窓枠に手をかける。木戸は軋り、氷を落として開いた。途端にうなり声とともに風が部屋に押し寄せ、弾き飛ばされるようにアランロドは手を離した。勢いよく扉が閉ざされた。火は消えなかったが、床に氷の欠片が落ちている。
 スェウは、瞬きもせず、部屋に入って消えていった風の言葉を聴いていた。
 やがて彼はつぶやいた。
 「この雪なら、戦は終わっているでしょうか。冷たくて、剣も握れないはずだもの」
 「そうね。ええ、きっとそうだと思います。心配しなくても大丈夫ですよ」
 「皆は無事だろうか。この山の風は知らないみたいだ。傷ついていなければいいけれど」
アランロドは思わず、スェウの手を握り締めた。氷に触れたせいで、彼女の手は冷たい。若者の手は、それに比べて暖かかった。
 彼女は、涙を落とした。
 「戦に行こうなどと。この手で誰を殺すのですか。同じ人の子の血を流させるなど。そんなことを考えないで下さい」
 「優しい方、母上、朝露に濡れるエルウァインの花のように泣かれるのですね。」
 「この島から戦が無くなればいいのに。人々が傷つくのは見たくありません。親しいものを失い、涙にかきくれて神に祈る人は、かわいそうです。あなたは死に淵にいたのです。今もまだ、そこから起き上がれないのですよ」
こうして、敬虔な修道女は若者の胸に芽生えた戦場への思いを断ち切らせんとし、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
 冬の間じゅう、スェウは床から起き上がれなかった。ほとんど眠りの中にあり、腕を上げることさえ、かなわなかった。人々は教会に運び込まれた若者が、厳しい冬に命を永らえたとは思わず、寒さで土が凍っていなかったら、とっくに墓穴が掘られているものと考えていたのである。
 噂も雪に阻まれて、何一つ、聞こえては来なかった。スェウがそこに匿われていることを知っているのは、グウィディオンと、モルガン・ティッドとアランロド、そして信仰深い教会の主だけだった。
 胸の傷は癒えていた。蛆に蝕まれた背の傷も、醜い痣を残してはいたが、やがて小さくなり、消えようとしていた。肌は以前のはりを蘇らせつつあり、髪はつやを取り戻していった。

 やがて長い冬が終りに近づき、雪が溶け、窓が開かれ最初の風が吹き込む頃になると、年が明けて初めての噂が届いた。北の果て、イストラドの領主が反乱の狼煙を上げた。アベルフラウに攻め込み、あっという間に領主の館を乗っ取ってしまったと。
 アランロドは胸を痛め、窓を閉ざそうとした。
 「嫌な噂ばかり。そんなものに耳を傾けては駄目です」
 「閉じないで下さい」
スェウは言った。
 「今は体を治さなくては」
 「分かっています。でも、アベルフラウの領主、剛勇なるゴヴァンノンは、友達なのです」
イオナを守るため領地を留守にしていたゴヴァンノンは、引き返さざるを得なくなり、軍は街道を大急ぎで北へ駆けた。そして、天突く山脈の向こう側で、激しい戦となったのである。
 スェウは、動けぬ体で悲しげに人々の噂を聞いていた。たとえ動けたとしても、その場に駆けつけて戦うことが出来るわけではなかったが、何も出来ずに横になっているだけなのを悲しく思った。その春は、誰も、陽気な気分にはなれなかった。

 そして間もなく夏になろうという頃、海上には多くの船が現れた。ルヴァインの援軍が、やって来たのだ。船はリドランへ向かい、そのため港はひどく打ち壊されてしまったという
 スェウはようやく、立って、歩けるほどになっていた。しかし、その歩みはまだ覚束なく、手に杖を持って、よろめくほどでしかない。
 「まだ行かないで。そんな体では、馬にも乗れないでしょう」
 「分かっています。でも、ルヴァインの船は、リドランに上陸しようとしています。大切な友人が、そこを守っているのです。」
マース公は、ダヴェドの王なるプイスの援軍を待っていた。王はただちに、ともにルヴァインと戦おうと声を上げ、多くの郎党を率いてやって来た。それは夏の半ばを過ぎた頃だった。
 きらびやかな一団はアルヴォンの港に上陸し、海に近い街道を南へ下り、リドランへ向かっていった。風の便りを聞きながら、スェウは遠い目をしていた。
 「あそこにも、友達がいるのですか?」
 「ええ、ペンダランという人が。ダヴェドに居た頃、良くしてくれました。」
 「たくさんの友達がいるのね。その人たちも皆、あなたの名前を心の中で思うのですね」
アランロドは、諦めた顔をして、その白い手でスェウの頬を撫で、優しく胸に抱いた。
 「分かりました。あなたが戦うのは友達のため、親しい人々の血を流させないためですね。」
 「許してください。もう、行かなくては」
弱っていた腕は、以前ほど強くはないが、ごく普通の若者ほどには回復していた。木々は緑に萌え、鳥たちが歌う。季節はまだ、秋の訪れを知らぬ。

 医師モルガン・ティッドは、傷の具合を確かめ、動いても問題ないと診断を下した。
 「だが、しばらく無理はしないことだ。長く室内にいすぎた者は、外に出ても、以前と同じようには動けまい」
 「心得ます、様子を見るだけに致しましょう」
 「これをお持ちなさい」
アランロドは教会の聖壇の中から、一振りの剣を持ち出した。それは白い柄に金の文字が刻まれ、深い緑の鞘に包まれた、美しいものだった。
 「しかし、私はこの世の武器は持てません」
 「これは神様の下されたものです。敵を打ち倒そうとする者に抜くことは出来ず、友を助ける者には抜くことが出来るといわれています」
スェウは受け取り、剣に触れた。溶けも震えもしなかった。剣は鞘から抜かれ、輝きが室内に反射した。側にいたモルガンが、刃に刻まれた文字を読んだ。
 「”汝、友人を助くる腕となれ。”…なるほど、この剣はスェウ殿の友人であるとともに、スェウ殿がご友人を助けられる際の、もう一本の腕となりましょう」
 「とても軽い。それに不思議だ、剣を持ったのは初めてなのに、これなら使えそうな気がする」
 「お持ち下さい。その剣が抜けたのですから、それはもう、あなたのものです」
アランロドは微笑み、用意したマントと靴を差し出した。
 「馬を用意しましょう。」
と、モルガン。「スェウ殿のめでたき馬は、リドランで預かっておるそうです。それに、あの馬では目立ちすぎる」

 かくて支度は整い、スェウは送り出された。
 誰一人彼の名を知らず、しかし一度は口にしたことがあるはずだった。ほっそりとした旅人は、駄馬に乗って町を出、街道を抜け、イオナへ向かった。戦場には立ち寄らなかった。それにはまず、身体を慣らす必要があった。最初の日は、半里進んで息が切れ、次の日もまた、半里で休んだ。しかし次の日には、さらに遠く、日が傾くまで馬を走らせ、野に眠ることが出来た。緑の臥所には虫の声が響き、よき人々が見舞いに訪れた。
 彼はティレ河の水で口をすすぎ、手を洗い、また馬に乗って旅を続けた。

 そしてイオナにたどり着いたとき、彼は、そこが既にルヴァインの手に落ちていることを知ったのである。

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