◆54



一本の樫の木が、二つの湖の間で育つ。 空と谷とに、その深い影を落として。
一本の樫の木が、高地の平野に育つ。 どんな雨にも濡れず、どんな熱にも溶けず。
一本の樫の木が斜面に育つ。 りっぱな領主の至聖所の上に。
わたしの言葉に間違いがなくば、その梢こそ、スェウの苦しみの枝。



 グウィディオンは馬を走らせた。供に行くものはおらず、影はどこまでも一つだった。
 夕刻が差し迫り、霧のような雨は体の芯から冷えこませても、憂鬱な馬の足音は停まることなく、濡れた草に沈み込み、くぐもっている。馬のこうべは北へ、街道の尽きる山の向こうへと向いている。雨にはいつしか氷が混じり、雪へと変わろうとしていた。
 イストラドの領地は閉ざされており、そこから先へは進めそうもななかった。アベルフラウとの境目には深い谷があった。グロヌウがそこへ逃げ帰ったことは確かめるべくも無かったが、グウィディオンは馬をめぐらせ、道を引き返した。その先に、目指す者はいないと思ったからである。
 冷たく天をさすエスカイル・オイルヴェルの山々は、雪に白く輝いていた。湖は凍りつき、緑は息をひそめ、月は高い天に冴え冴えと輝く。
 「リアンノン、忘却の貴婦人、スェウは何処にいる? その高い天から見えはしないのか。教えてはくれないのか」
月に従う星たちが答える。
 「彼女は知らない、悲しんでいるのが見えないのか。あの子の金の髪は忘れられるには輝きすぎ、忘却の都に行くことは出来ない」
グウィディオンはさらに馬を走らせる。街道の右手に海が見える。
 「波の息子ディラン、スェウは何処にいる? その深い海のどこかに囚われてはいないか。教えてはくれないのか」
岸に打ち寄せる浪の娘たちが歌う。
 「いいえ、こちらには来ていません。あの方は空を巡る翼をお持ち。海に住まうことは出来ません」
森はさざめいた。風が吹いて、答えた。
 「女あるじに聞いてみるといい。狼たちの主人が、暖かく迎えてくれるだろう」
そこでグウィディオンは、エスカイル・オイルヴェルへ向かった。冷たき峰のふもとに広がる、暗い森へと。
 誰も踏み入ったことのない、荒々しい森の奥に、ぽつんと小さな火が灯っていた。獣たちには出来ぬことだ。近づくと、きらりと何かが光った。
 洞窟の前に座る女が、顔を上げた。光ったものは、白と灰色の交じり合う、長い髪に刺した金のピンだった。
 グウィディオンは馬を降り、女から離れた場所で言った。
 「道をお尋ねしたい。もし、ご存知なら、の話だが」
 「こちらへいらっしゃいませ。火にお当たりなさい、旅の方。森のあらゆる道はあたしの小道、知らぬ場所は無い」
グウィディオンが近づくと、女は席を空け、火にかけていた鍋から湯をすくって、差し出した。
 「こんなところに、一人で暮らしているのか」
 「前に来られたあなたの息子にも、同じことを聞かれたよ。影なる方。その子が来たのは今ではない、去年の夏の頃だったけど」
茂みが揺れ、音も無く、狼たちが忍び寄ってきた。火を恐れるでもなく、女のかたわらに、黙って腰を下ろす。毛並みから、凍りついた雪が滑り落ちる。
 「狼のあるじよ、教えて貰いたいのだ。その子は、今、どこにいる」
 「ここより、そう遠くは無い。月の映る沼地の村へ向かいなさい。その村の農家へ行きなさい。半月前から行方不明になっている雌豚がいるはず。その豚を探しなさい。竪琴の音色が途絶えぬうちは、彼は飛び立たないでしょう」
 「そなたのことは、知っているような気がする。かつて、ギルヴァエスウィが話してくれた」
 「さて、他人の空似もしれませぬ。夜が空ける前にお発ちになったほうが良いでしょう。」
 「待つ必要は無い、今すぐに行こう」
グウィディオンは礼を言って立ち上がり、馬に飛び乗った。女は静かに問う。
 「運命とは、破れるものでしょうか?」
 「さて。」と、グウィディオン。「神の与えたもうたさだめは、決して破れぬもの。されど人の決めた運命なら、人の手で覆せるものと思う」
 「お行きください。長居は無用」
と、女。
 「運命を受け入れる者に幸いあれ。そして運命に抗う者に栄光あれ。」
 「俺には、栄光の女神の腕に抱かれて眠ることが許されない。それはスェウのためにとっておこう」

 ヴィンドは、夜が開ける前、最も冷たく澄んだ青白い空気の中を、雪を跳ね上げて走った。
 森を抜け、街道をそれ、寂れた道なき道の間へと。かつてその道を辿った日のことが、彼にはありありと思い出された。溶けきらぬ雪の塊が道沿いに溜まり、ぬかるんだ雪溶けの泥が道をみすぼらしくしていた。細い手の、小さな顔の娘を馬に乗せ、この道を走った。
 行く手に沼が見えた。枯れた葦が枝垂れかかり、泥も、すべて凍り付いている。
 何の若さも、活気も無い、侘しい村。くすんだ茶色の屋根とひびの入った壁、戸口に打ち付けられた板。
 スェウの生まれた村――、スェウを産んだ娘の住んでいた村。
 グウィディオンは馬を降り、村に入って行った。朝だというのに表に出てくる者はおらず、厩はから、声をかける者さえいない。
 四年前よりも寂れていた。人々は、どこかへ行ってしまったのか。
 ようやく人の住んでいる家を見つけたのは、村の中ほどを過ぎ、森に続く道に入ってからだった。馬の世話をしていた農夫は、怪訝そうに旅人を見た。それが誰なのかは、分からないようだった。かつての襤褸ではなく、質素ではあっても、立派な衣装を身につけて現れたからだ。
 「この辺りに、豚を飼っている農家はあるか」
 「豚なら、うちにもいますが。旦那、何をお探しで?」
 「大したことではないのだ。半月前から行方不明になっている豚はいないか?」
 「それなら、隣の家の豚でさ。狼にでも食われちまったのかと思ったが、そうでもないらしい。一週間にいっぺんくらい、戻ってくるんで。それが捕まえようとしても、すぐにまたいなくなっちまう。何処へ行くんだか。ちょうど今、戻ってますがね、納屋に縛り付けてあるんで」
 「その豚を譲ってはくれぬか。金は払う」
グウィディオンが言うと、男は目を丸くした。
 「何をするんで、痩せて、食うにはよっぽど待たにゃならんですが」
 「構わぬ。探し物に使うのだ。」
それで農夫は、こんな冬にキノコは生えていないと思いますが、とぶつぶつ言いながら、豚を連れに戻った。
 しばらくして、男は、首にしっかりと縄をゆわえつけた、痩せた豚を抱いて戻って来た。
 「ところで、もう一つ聞きたいのだが。四年ほど前、この村からいなくなった娘について、何か聞いたことはないか。見ず知らずの男の子を産んで追放された娘だが」
 「さあて。知らんですな、旦那。申し訳ない。わしらの一家は二年前に、アベルフラウから移ってきたばかりで。おととしの不作で、村のもんはほとんど居なくなっちまったようです」
グウィディオンは礼を言い、豚を引いて森へと入っていった。

 ほどよいところまで来ると、彼は、縄を解き、雌豚を山へ放った。放たれるや、豚は脇目もふらず、一直線にいずこかへ走ってゆく。
 「ヴィンド、追え」
雪を蹴上げ、馬が走る。豚の蹄のあとが、点々と雪に残り、谷の奥深くへとグウィディオンを導いてゆく。木々は青く、時は凍りつき、獣たちの声は眠っている。日差しも届かぬ、鋭く切れ込んだその谷の名は、ナントセと呼ばれていた。

 どのくらい走ったろうか、途切れがちに、澄んだ竪琴の音を聞いた。
 豚の姿は隠れて見えなくなっていたが、足跡は点々と、大岩の向こうへ繋がっていた。馬は通れそうに無く、グウィディオンは自らの手と足を使ってそこを乗り越えた。膝まで埋まるほどの雪だった。豚は、近づけなくてもがいていた。雪の上に点々と、黒いものが落ちて、蠢いている。それは、大きな蛆だった。グウィディオンは空を見上げた。
 行く手を阻む崖の中ほどから、太い樫の木の枝が斜めに張り出している。そのてっぺんに、大きな金の鷹が羽根に顔を埋めて引っかかっている。蛆は、その腹から零れ落ちているのだった。雪の上にはまた、真っ赤な花びらが散っていた。谷を吹き抜ける風が、竪琴のように、澄んだ音色で鳴った。
 「スェウ」
グウィディオンは、両腕を大きく広げ、木の上に向かって呼んだ。
 「降りておいで。」
声を聞きつけ、名が呼ばれたのを感じると、彼は首をもたげ、この世で最も安全な場所を見た。蛆が零れ落ち、羽根が抜ける。最後の力を振り絞って、彼は枝から体をずらした。落ちてくるのを、グウィディオンが力強く受け止めた。
 その背には、この悲しむべき出来事を引き起こした運命の武器が、まだ黒々と突き経ったままだった。羽根と羽根の間から、胸に向かって貫いている。それを引き抜くと、鷹は腕の中で、ぐったりとした若者の姿に変わった。痛ましいほどやつれ、青ざめて、見る影もなくなった姿だった。誰一人、このような哀れな姿を目にしたことはないだろう。
 グウィディオンはマントをとり、スェウの体を包んで抱いた。身体を震わすのを感じて、囁いた。
 「もう、大丈夫だ。お前にはこれ以上、ひどい運命は待っていない」
ヴィンドが心配げに待っていた。スェウの痩せた腕に鼻面をこすりつけ、悲しげに嘶く。
 グウィディオンは病人を馬に乗せ、自らも飛び乗って、山の向こうへひたすら急いだ。谷を抜け、最初の日差しを浴びたとき、懐かしくも彼は思い出したのだった。かつてエレニトの森で深い傷を負ったとき、まだ子供だったスェウが運んでくれた日のことを。

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