◆52

 館は薄暗く、月もなく。ヘドゥンは数ヶ月ぶりに戻った館に腰を落ち着け、ブレイドゥンの開いた宴を大いに楽しんだ。館には磨き上げられた武器が並び、重い盾が並んで壁にかかっている。宴は控えめで、歌人たちの声も小さかった。夏の終りにしては生暖かな風が、板戸の間から入り込み、灯を揺らした。
 兄弟は額を付き合わせ、小さな声で話し合った。
 「戦況は見ていた。エレリの軍は、大したことはないようだな」
 「そうでもない。海上にどれほどの兵を隠しているかは、分からぬのだ。あっさり引くのも、罠やもしれぬ。グウィディオン伯父の読みでは、海上から青月城へ回るという」
 「それで、海を見に走っておられるのか。戦場にあの人の姿があれば、ルヴァインの者どもも恐れをなして近づけまい」
 「さもあろう」
ヘドゥンは表情を暗くし、さらにいっそう声を低くして、ブレイドゥンに囁いた。
 「それはそうと、表に灰色の馬が居たな。あれは誰のものだ。他に客人を向かえているのか」
 「そうだ。イストラドのグロヌウ・ペビルが、家臣を連れてここへ来ている。スェウに用があるというのだ。断りきれずに招き入れたが、失敗だったかもしれぬ。ここは兄者の館、指示はご自由に出されよ」
 「そうしよう。スェウは、何処に居る」
ヘドゥンが立ち上がったとき、ちょうど、表から、一人の召使が駆け込んでくるところだった。召使は、客人の訪れを告げに来たのだった。あまりに慌てていたので、絨毯の端につまづいて、転んだ。
 「どうしたのだ、そんなに慌てて」
 「はい、表にお嬢様が参っております。奇妙なことにお付きもおらず、鞍もつけない驢馬に乗り、ただお一人で霜に濡れておいでです。」
 「なんだと。誰だ、それは。何処からやって来たのだ」
 「名はブロダイウェズと仰せです。ミル・カスティスから参られたとのことです。」
 「…スェウの領土か」
ブレイドゥンは杯を置いた。ヘドゥンは首をかしげた。妻との生活に気を奪われていた彼は、スェウが森で見つけた少女のことを知らぬ。
 「スェウを呼べ。その娘をここへ。ひどく濡れているようなら、湯のしたくをしろ」
 「はい」
召使は足を絡ませながら部屋を出ていった。ブレイドゥンは肩をすくめる。
 「見たか、あの慌てよう。さぞ美しい娘に違いない。それにしても、スェウめ、なかなか隅に置けないな」
 「あの美しさだ。一目見て思いをかけぬ乙女は居るまい。もしも呪いを受けておらねば、世のあらゆる男たちの妬みの的となっていただろう」
 「それは確かに。」
間もなくスェウが現れ、それと間を置かず、ブロダイウェズが静かに広間に入ってきた。ヘドゥンやブレイドゥンでさえ、はっとするほど美しい。
 「どうして此処へ来た。ミル・カスティスで待っているのではなかったのかい」
 「お忘れ物です、これを」
少女はおずおずと、竪琴を差し出した。それは大切に肌着で包まれ、夜露に濡れないようにしてあった。
 「こんなに濡れてしまって――風邪をひく」
 「平気です、一人で森に眠ることは慣れています。どうしても、一人ではいられなかったのです。」
そう言うと、少女ははらはらと涙をこぼした。それはまるで、デリの花びらが零れ落ちるようだった。
 「申し訳ない、お二方。彼女は館で預かっている、身寄りの無い人なのです。ここから送り返すにも遠い。部屋を用意して、泊めてやってはくれないでしょうか」
 「それは構わない」
ヘドゥンは即座に頷く。
 「それと、湯と着替えを用意させよう。こちらへ」
スェウは少女の手を引き、奥へ連れて行った。豊かな髪はほつれて肩にかかり、大きな緑の瞳は長いまつげの下に伏せられている。ほっそりとした裸足が、つめたいタイルの上にひたひたと鳴った。それに気づいて、スェウは少女を抱き上げた。それでも長い髪は、床にこぼれる。
 石で作られた大きな浴槽に、湯がいっぱいに張られていた。人々がせっせと沸かし、桶で運んだものだ。水は人の肌ほどに生ぬるく、しかし湯気を立てている。カーテンが引かれ、窓には目隠しがされ、磨かれた床のタイルの上には、荒い編みこみの絨毯が敷かれている。
 ブロダイウェズは、とたんに胸騒ぎを覚えて、スェウの胸を叩いた。
 「大丈夫です、冷たくありませんから下ろしてください」
 「もう少しだから。そこの椅子に下ろしてあげよう」
そう言ってスェウが一歩、踏み出して絨毯の端に足を置いたとき、何かが絨毯の端をきつく引っ張った。スェウはよろめき、ブロダイウェズを下ろしながら片手を浴槽の中に入れた。肩と髪に湯がかかり、足は膝まで濡れた。
 「ずいぶんと、すべる床だな」
スェウは絨毯を見下ろして呟いた。そのとき、カーテンが跳ね上げられ、何かが光った。
 振り向いて、その者の顔を見る時間もあらばこそ。
 次の瞬間、力いっぱい振り下ろされた黒い槍先が、彼の背の肩と肩の間、すなわち真ん中を、深く、突き刺したのである。

 スェウは痛ましい叫び声を上げた。それは、この世にこれほど絶望的な声があるかと思うほどの、凄まじい叫び声だった。ブロダイウェズはよろめいて壁にぶつかった。恐ろしい形相をしたグロヌウが、配下の者たちとともに立っていた。男は、崩れ落ちる若者を浴槽へと突き落とした。血飛沫に湯は赤く染まり、金の羽根が飛び散る。
 だがスェウはまだ死んではいなかった。
 最後の力を振り絞り、水を掻いて、もはや人のものではない声で何事かを叫ぶと、勢いで、空に向かって駆け上がった。窓は吹き飛び、目隠しのカーテンは朱に染まる切れ切れとなって飛び散った。グロヌウは低く呻き、一歩、二歩、後ろへ下がった。
 「運の良いことだ、体の半分しか濡れていなかったためか。だが、あの傷ではそう高く飛べまい。助けを呼ぶこともかなうまい。二度と人には戻れまい」
これを聞いて、ブロダイウェズは悲鳴をあげ、その場に倒れ伏した。
 「なんてこと。あの方はもう、歌えません。美しい調べを奏でることも、出来ません。永遠にここから飛び去ってしまわれました。わたしのせいです、わたしが秘密を聞きだしたりしなければ良かったのに。あの方は痛ましい悲鳴を上げて飛び去られました。声がわたしの胸に突き刺さり、わたしは嵐に打たれた花のようです」
 「そうともブロダイウェズ、お前のお陰で、スェウ・スァウ・ゲフェスを葬り去ることが出来たのだ」
涙に濡れる睫の下から、きっ、と少女が睨んだ。
 「わたしは何もしていません」
 「いいや、そなたのせいなのだ、ブロダイウェズ。人に、あれは殺せなかった。わしはスェウの秘密を探り出すために、そなたを作ったのだから。そなたは、わしとともに戻るのだ」
 「いいえ、従いません。あの方を探しにゆきます。決して許してはいただけないでしょうが、お詫びしなければ。」
 「愚か者、誰がお前を作ってやったと思うのだ」
グロヌウは杖を振り上げ、力いっぱい少女をぶった。そのため少女は声を上げてその場に倒れ、気を失ったように見えた。ぶたれた場所から、花びらが零れた。
 「忌々しい、誰が人形に小ざかしい口の利き方を教えたのだ。作り主に反抗的な人形など、役に立たぬ」

館が騒がしくなった。スェウの上げた叫び声のせいだ。足音が近づいてくるのに気がついて、グロヌウは、時間が無いのを悟った。
 「馬は何処だ」
うずくまるブロダイウェズをその場に置いたまま、グロヌウは壊れた窓から外へ飛び出した。灰色の馬は、すでに門の前に繋がれている。他の馬も。イストラドの郎党はみな、準備を整えていた。
 「いざ、走れ。海のつわものたちのために、狼煙を上げさせよ。時は来たれり、イオナの鷹の翼は失われたり。黒い風、黒い刃は、力を失えり!」
狼が吼える。
 「おのれ、奴の仕業か。スェウに何をした。奴を探せ、捕らえよ!」
馬たちは懸命に走る。怒り狂う狼のあぎとから逃れようと、リドランの領地を越えてエレリへと。勝利の余韻にひたる人々は、この悲劇を知らない。
 ヘドゥンは、血に染まる水の中に、一枚の鷹の羽根が落ちていることに気がついた。側には白い花びらが散っていた。ブロダイウェズの姿は、どこにも無かった。
 「連れてゆかれたのか、或いは。」
彼は震える召使にやっとのことで布を用意させ、そこに羽根と花びらを包んだ。
 「グロヌウは怪しい術を使う、ブレイドゥンは追いつけないだろう。館を頼む。私はグウィディオン殿にこのことをお伝えしに行こう。悲しいことだが、マース殿にも」
嘆きの声に包まれる館をあとに、ヘドゥンは馬に飛び乗った。何も言ってはいないのに、ヌウィブレは付いていこうと厩で暴れた。壁に身体を叩きつける激しい音に気づいて、ヘドゥンは引き返した。金の鬣の馬は、何か言いたげに、じっと見つめている。
 「そうか、分かった。確かにそなたのほうが、私の馬よりも足が速いな。乗せてくれ、そして見つけておくれ。スェウの父のところへ、最も早くたどり着ける道を」
馬は高く嘶き、ほっそりとした背高き若者を背に乗せるや、火の如く走り出した。天をめぐる月さえも追い越して、飛ぶように、風を燃やして。

 夜通し走り続けた末に、ヘドゥンはイオナへたどり着いた。並の馬なれば二日の距離を、わずか半日で駆けたのだ。静かに佇む、主なき青月城が見下ろす崖の上に、黒い馬の尾がたなびいている。
 馬も人も息を切らせ、ヘドゥンはよろめきながら鞍を降りた。地に足をつけると、痛みにつんのめるほど。彼は力を振り絞り、大声で呼ばわった。
 「グウィディオン殿、いずこにおられるか? 貴殿の甥が報せをお持ちした。疾くお姿を見せられよ。」
 「ここにいる」
陰鬱な表情の暗い影が、岩の裂け目から起き上がる。
 「海は今日も静かだ。凪のあとには、必ず嵐が来るものだが。…悪い報せか、ヘドゥン」
 「そうです。伯父上の考えうる最悪の報せと思われます」
ヘドゥンは、懐に抱いてきた包みを開き、その中身をグウィディオンに指し示した。羽根は光に照らされるや、細かな光の粒となり、溶けて消えてしまった。花びらは白く輝いたままだった。グウィディオンはそれをじっと見、やがて、低く呻いた。
 「スェウが倒れたか」
 「はい」
 「運命の時が来たということだ。だがもしかしたら、この花はあれを救う手助けとなるかもしれん。詳しく教えてくれ、何があったのかを」
そこでヘドゥンは、知り得た限りのことを話した。風呂に残された湯と血のことも。
 「その湯は、どこから取った水か。」
 「一週間ほど前に、館の井戸が枯れてしまい、水が無かったので、町のはずれを流れる小川で汲ませていました」
 「その川は、どこから流れてくるのか」
 「丘の向こうからです。ティレ河からです」
それを聞いて、グウィディオンは声をあげ、高らかに笑った。
 「定められたとおりだ。では、スェウを刺し貫いたものは、灼熱の太陽の下で育った黒檀の枝から、手とナイフで自ら削った槍だろう。そのようなものを手にした者を、見たことは無いか」
 「確証はありませんが、伯父上、グロヌウ・ペビルは、館に来たとき細長いものを大事そうに抱えていたといいます」
 「では、疑いを確信に変えることだ。グロヌウがスェウの秘密を知り、そなたらの館で仕組んだことなのだ。スェウの側にいたという娘は、グロヌウの作り出したものだろう。人ではない」
 「悪しきものでしょうか。あのように美しく見えたのに」
 「そうではない。純粋で穢れを知らぬものだからこそ、スェウに隙を作らせたのだ。この世で最もひどい裏切りとは、心許した相手の前で、心許した場所で、誰も偽りがあろうと疑わぬ時に、命を奪われることなのだ。」
男は剣をとり、鋭い目でなだらかな水平線をひとなめし、黒い馬に飛び乗った。
 「マース殿のところへは俺が行こう。お前は休んでから戻れ。」
 「しかし、伯父上、ここにおられないで良いのですか。」
 「心配いらぬ。じきに、風が吹くだろう。お前は、その風がいかに強きものであったかを確かめてから来るのだ」
風など吹く気配もなく、青月城の高台に立つ旗はすべて、ひらりともせず重く垂れていたのだが。

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