◆51

  馬たちは休むことなく走り、あらゆる心地よい風を追い払った。
  霧のような雲が、地上に手を伸ばさんと重く圧し掛かっている。小さな群れの先頭に馬を走らせるのは、灰色のマントをなびかせた男。その懐には、細長い、槍にしては小ぶりな包みがしっかと抱えられている。彼らは街道を真っ直ぐに東へと突っ切り、丘の連なる地方へと向かっていた。
 男は、北の果てなるイストラドの領主、グロヌウ・ペビルだった。

 くねくねと折れ曲がる長い道を、馬たちは健脚でよく越えた。峠に差し掛かったとき、息は熱く、よろめいてはいたが。旅人の姿は無く、石造りの関所は閉ざされたままだった。
 「止まれ」
門を守る兵士たちが槍を打ち合わせた。
 「ここより先へ行かんとする者は、何者ぞ。」
 「イストラドのグロヌウと申す。北の地よりの報せを運んで参った。領地を預かる者、ブレイドゥン殿は、いずこにおいでか」
 「館におられる。悪き報せならば、疾く行きたまえ!」
グロヌウと従者たちは、馬に拍車をかけ、町へ続く道を勢いく下っていく。道の両脇にある木々は、冬の前の戦で無断にも枝を折られ、踏みしだかれていたが、畑には作物が植えられ、既に跡は覆い隠されている。坂の下に広がる町には戦の傷跡が生々しく残されていた。グロヌウは、修復に当たっている人々の表情を見た。また、戦が始まるのだ。

 館の主は、不機嫌そうに客人を迎えた。館の中に護衛兵はいなかったが、脇には、いつでも抜き放つことが出来るよう、剣が立てかけられていた。
 開口一番、ブレイドゥンは言った。
 「何用で来られた、イストラドの領主殿。イオナからの使いを悉く追い返しておられた貴殿が、何ゆえ今頃になってここへ姿を見せられるのか。良い便りとも思えぬが」
美辞麗句で包み隠すことを知らぬ物言いだった。だが、この青年には、それが最も相応しい態度に思えた。グロヌウは唇に薄く笑みを浮かべ、従者たちを下がらせた。
 「我が領地は北の果て、この島で最も貧しい土地。それゆえ蓄えに乏しく、多くの兵を出すことはかなわぬ。が、今動かせるだけの兵を連れて参ったのだ。」
 「それはまことに殊勝なお心がけ、イオナのためになることだろう。しかしなぜ、マース公のもとに直接行かれなかった」
ブレイドゥンは、礼儀正しく答える。本意であろうと無かろうと、この男を怒らせる気は毛頭ない。
 「スェウ殿にお会いしようと参ったのだ。こちらでは無かったのか?」
 「いや、まだミル・カスティスにいるのだろう」
 「では通り過ぎてしまったというわけか。さりとて今から戻っては、行き違いになるやもしれぬ」
グロヌウは、若者の顔に浮かぶ正直な困惑を腹の底で楽しんだ。ブレイドゥンは、苦々しく思う。心はさざめき立っていたが、突き放すわけにもいかなかった。
 「では、ここでお待ちなされよ。スェウは十日もせずにここへ来るはずだから。」
 「在り難きお申し出。感謝いたしますぞ、リドランを統べし方」
こうしてグロヌウは、まんまとリドランの地に入り込み、領主の館をくまなく歩き回った。そうして、人の知らぬところで、木々に、柱に、呪詛をかけた。
 「気味が悪いです」
と、館の人々は主に訴えた。
 「あのかたの歩いたあとには、何一つ、よいものが見えません。それどころか、館の空気が重くなるようなのです。我々には、グウィディオンさまより、あのかたのほうが確かに呪われておいでに見えます」
 「我慢しろ。じきにスェウが到着する。あいつがスェウに何の報せを持ってきたのか、とくと確かめてやろうではないか」
こうして、ブレイドゥンも欺かれた。彼もまた、グロヌウのたくらみには気づかなかった。


 さてスェウは、リドランへ向かう前に、エッセネに立ち寄っていた。ヘドゥンと連れ立って迎えに現れた、娶ったばかりの花嫁は代わらず美しかったが、その瞳は別れに翳り、雨に打たれた花のようだった。
 「わたくしたちは、夫婦になってから、まだ、ふた月しかともに過ごしておりませぬ。必ずお戻りになってくださいまし」
と、ラスティエン。
 「大丈夫です、ヘドゥンはきっと無事に送り返します。この戦で、誰も失いはしないでしょう」
 「スェウ殿。あなたのことが何より心配なのです。わたくしは昨夜、月の光が黒く塗りつぶされ、鷹が痛ましい声を上げて落ちてゆく夢を見ました。何か起きるのではないかと思います」
 「不吉なことを言うな、ラスティエン。この方はイオナを継がねばならぬ。もしものことがあれば、島の未来は閉ざされよう」
 「でも不安です。わたくしが代わって差し上げられれば、よかったのに」
ヘドゥンは妻の優しく肩を抱き、なだめた。スェウは輝くように笑ってみせる。
 「もしも運命であるならば、逃げることは出来ないでしょう。けれど災いは、逃げさえしなければ乗り越えることも出来るのです。私は自分の足で、立ち向かってゆきましょう」
エッセネの人々は大いに悲しんだ。妻を迎えたばかりの夫が、若き領主が、光り輝く人が、旅立ってゆかねばならないことを。霧は近づいていた。かつてこの国で見たことのないほど輝かしい兵列が、ディノディグの地を発った。アベルフラウからも。街道は人で埋め尽くされた。誰ひとり、イダウクの痛ましい裏切りを知らぬ者はいなかった。それを退けたスェウの手柄も。黒い影の名は敢えて口に出されなかった。皆が恐れていたので。

 何も知らぬ娘、ブロダイウェズは、部屋に残された竪琴をとり、それを鳴らそうと試してみた。生まれて間もない小鳥たちが、飛び方を覚えようとするように。けどすぐに止めてしまった。
 ひどく苦しく、どうしていいのやら分からなかった。彼女は部屋中を歩き回り、やがて、決心したように厩へ向かった。そこには、彼女に与えられた唯一の持ち物である、驢馬がいた。今では、たっぷりと餌と水を与えられ、色艶よく太ってはいたが。
 鞍も置かず、手綱もつけず、少女は驢馬に乗る。驢馬はゆっくりと歩き出す。誰ひとり、彼女を止める者はいない。


 人々は、戦の音を聞いた。
 きらめく剣の子らが立つのを。エレリの兵は武具を整え、イオナとの境にさしかかろうとしていた。ルヴァインの荒くれたちもいた。かつての戦を知る老人たちは、口を揃えて嘆いた。「愚かなこと、ルヴァインの者に手を借りるなど。奴らはこの国を乗っ取る気ぞ」
 されどエレリの狡猾なグウィンは、そんな言葉には耳も貸さなかった。
 マースは、イオナの諸侯を率いて現れた。青と白のイオナの旗が、後ろに続いていた。迎えに現れたディノディグの領主ブランは驚きに眉をひそめ、素早く馬を寄せた。
 「マース公、その出で立ちはどうなされた」
 「わしも戦うのだ。エレリのものどもに馬鹿にされたままにはおれぬ」
年老いて、穏やかな公ではあったが、長きに渡り侮辱され続けたことに、腹が据えかねたのだ。戦のしたくは整っていた。金の髪のスェウ・スァウ・ゲフェスは、弓を背に、誰よりも早く駆けた。並んで走れる者は、黒き風のグウィディオンの他にいなかった。
 平原は埋め尽くされていた。ポウウィスの丘を取り囲むように、アベルフラウとアルヴォンの兵たちがいた。長テイルノンと、従う部族の者たちが谷を守っていた。旗は高く掲げられた。盾が打ち鳴らされ、法螺貝が高く吹き鳴らされ、イオナの兵たちが丘を駆け下ってゆく。
 スェウはエレリの軍の中に、かつてラスティエンを苦しめた、蛇の目の男を見つけた。
 ヘドゥンは憎憎しげに呟く。
 「グウィンがあそこにいる。アムレンも近くにいるだろう。だが、賢い男だ。いつでも退けるよう軍のしんがりに居て、ここからでは矢も届かぬ」
 「試してみましょう」
言うや否や、スェウは矢を番え、力いっぱい金の弓づるを引き絞り、中天へ向けて放った。ひょうと風切る音のまま、矢は一筋の光となって青に溶け込む。しばしの間ありて、見よ、はるか彼方で、グウィンが馬から転げ落ちる。その腕には深々と矢が突き刺さり、肘まで骨を砕いている。それで人々は、彼の目に留まるところでは、飛んでくる矢から身を守るすべは無いことを知った。
 「グウィンめは、まだ倒れていない。止めを刺さねば」
 「いけません、ヘドゥン。ラスティエンに、あなたを無事連れ帰ると約束した」
 「しかし、ここでただ見ているわけにはいかぬ」
 「明日があります。今日はまだ、互いの手の内をすべて見せてはならない」
スェウは知っていた。馬を走らせ巡った時に、風に交じる鉄の匂いを嗅いだのだ。海辺に停泊する船の、その中に、ルヴァインびとの隠れている気配がした。イオナの軍が出払ったそのすきに、ケルニュウの岬を巡って、海からイオナの城に近づこうというのだろう。アムレンの姿が無いのも、そのためか。
 「ヘッフドゥンは居ないのだろうか」
ヘドゥンは、しきりと首を伸ばし、辺りを見回した。
 「あれが居たら、即座に私が捕らえてやるのに。兄である私に捕まり、罪の報いを受けるのと、伯父上の手にかかって果てるのと、どちらかを選べと言われれば、臆病なあれのことだ、私に捕まりたいと思うに違いない」
 「或いは、どちらも選べぬまま、違う方法で栄誉を失うのかもしれません。いずれにしても、ここにヘッフドゥンはいません、ご安心ください。」
人々は、ときの声を上げた。傷ついたグウィンを馬に乗せ、エレリの軍が退いてゆく。勝てぬ戦とは思われなかった。イオナの旗は、失った輝きを取り戻したかに思えた。輝く剣を上げ、若者たちは力強く吼えた。誰ひとり、敗北を予感しなかった。スェウは馬のこうべをめぐらし、かねて約束してあった通り、ヘドゥンとともにリドランへ向かった。

 エレリとの領地の境には、ブレイドゥンがいた。ヘドゥンと彼は、久しぶりに再会する兄弟として親しく抱擁を交わし、ともに館へと向かった。スェウも招かれ、呪われた館へと向かった。ひどい罠が仕掛けられているとも知らず。

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