◆50

 その少女は、教えられたことしか知らず、グロヌウに教わった以外のことは、何も分からなかった。
 それもそのはず、春にその姿で生まれたばかり。
 誰を見ても「ご主人様」としか呼ばず、そのためスェウは、人の呼び方を教えるのに苦労した。
 スェウの館を預かる老夫妻は不憫がって、ブロダイウェズをことさら可愛がった。何を見ても初めてのようで、驚きの表情すら表さぬので、老夫妻は、その子は知恵遅れなのだと思った。
 「若旦那様。あの子は、もしや、親に疎まれて、売られてしまったのかもしれませぬ。そうでなくては、あのように表情の無い子は育ちません」
 「そうかもしれない」
スェウは、書斎の窓から庭に見える、少女の後姿を見ていた。しかし物腰は優雅で、洗練された宮廷のもの。身につけた気品から、どこぞの農家の娘とも思えなかった。
 白い肌と細いうなじの娘は、自分の名のほかに、親兄弟の名も、郷里の名も、何一つ知らなかった。いずこの者なのか、スェウにははかりかねた。数多の国を渡り歩いたグウィディオンが居れば、多少なりと見当はついたろうに、この娘を送り返してやれたのに、と思ったのだ。
 「出来るだけのことはしてやってくれ。このままでは、可愛そうだ」
 「ええ、ええ。そうしますとも。若旦那はとてもお優しい方だ。」
スェウは少女のために、老夫妻とのその息子の住む離れに、もう一部屋用意させた。少女は、とうぶんの間、館で台所の手伝いをしながら暮らすことになった。それ以上のことはなく、日は過ぎて、やがて初夏に入り、森は萌ゆる色に変わっていった。
 この頃から、エレリとの間で再び戦が始まるのでは、という心配ごとが首をもたげてきた。すぐ側のエッセネの町からも、多くの若者たちが領地境へと送られた。ブレイドゥンはせっせと武器を集め、エレリの境に砦を築いた。スェウもイオナに居ることが多くなり、館にはほとんどいなかった。スェウが出かけるとき、ブロダイウェズは、決まって門まで見送りに行った。そして、去ってゆく後姿を、黙って見続けていた。なぜ、そうするのかを少女は言わず、それ以上に、苦しいとも寂しいとも、何一つ、思いを表すような言葉は口にしなかった。

 夏至を過ぎた頃の夕暮れのことだった。
 スェウは館に戻り、物思いに耽りながら竪琴に手をやっていた。迷っていた諸侯たちがようやく、動き始めたのだ。エレリの暴君に支配されるよりは、イオナの旗のもとに戦ったほうが良い、と。だが、再三使者を送ったにも関わらず、北の果てなるイストラドからは、何の便りも返っては来なかった。ダヴェドで出会った、陰鬱な、グロヌウの顔を思い出していた。指の奏でる音は心弾まず、沈んだようだった。
 ふと顔を上げたスェウは、戸口に、ブロダイウェズが立っているのに気がついた。いつから其処にいたのか、身じろぎもせず、物音もたてなかった。
 「どうしたの、そんなところに立っていないで、こちらへおいで」
少女は素直にスェウの側に寄り、側の籠に腰掛けた。じっと、スェウの手元を見つめている。
 「これは竪琴という。そんなに珍しい?」
頷く。
 スェウの指が弦にかかり、その指を動かすと音が鳴るのを知って、少女の目は驚きに見開かれ、やがて、満足げな光に満たされた。ブロダイウェズが"喜び"という感情を表したのは、これが初めてだった。
 「そうか、楽器から音が出るのが、判らないんだね。曲を聞かせてあげよう。どんな歌がいいかな」
スェウは、ダヴェドで聞き知った曲を奏で、優しい声で歌った。少女はうっとりと目を閉じ、飽くことなく聞きほれている。一曲が終わると、無言に次の曲をとせがみ、いつまでも、いつまでも聴き続けた。
 「続きはまた、明日聞かせてあげよう」
しまいにスェウがそう言ったとき、ブロダイウェズは、ひどく残念そうな顔になった。
 「大丈夫、琴は逃げない。明日も館にいる予定だ」
 「はい、では、おまちします。明日のくるのを。早く月が沈めばいいのに」
少女が言うのを聞いて、スェウは笑った。
 「ブロダイウェズ、最初に出会ったとき、君は歌を歌っていたね」
 「はい」
 「あの歌を教えておくれ。そうしたら、曲を作ってあげる。私が弾いて、君が歌えばいい」
瞳に、ぱっと花が咲いたようだった。
 「歌ってもいいのですか」
 「もちろん。…そうだ、…君は、歌うことが好きなんだな」
ブロダイウェズは恥ずかしそうに頷く。
 「むかしは、それしか知りませんでした。今は、たくさん教えていただきました。服のたたみ方、火の起こし方、芋の剥き方、ご挨拶のしかたなど」
 「何も知らないで、どうやって暮らしていたの」
 「日差しを浴びていました。覚えているのは、それだけです、ご主人様。」
スェウは不思議に思ったが、それ以上、何も聞かなかった。
 少女は部屋を出て行き、スェウは、頭を悩ませていた暗雲から解き放たれた気分になって、床についた。


 ブロダイウェズは、草原にいた。幸せな気分の正体を知らず、ただ、月明かりに誘われるように彷徨い出ていたのだった。門は閉ざされておらず、誰も見咎める者は、いなかった。
 ふらふらと草原を歩くうち、彼女は、すぐ側に、マントを顔まで下げた男が馬に乗って近づいて来て居ることに気がついた。男は低い声で、少女に尋ねる。
 「ブロダイウェズ、ブロダイウェズよ、そなたは役目を果たしたのか。スェウの秘密を聞き出せたのか」
 「いいえ、何も。あの方に、秘密はありません」
 「そんなはずはない、ブロダイウェズよ。そなたは、そなたを作ったお方の言葉を忘れたのか。如何にすればスェウの力を奪えるのか。スェウは如何にすれば倒れるのか」
 「それはとても恐ろしいことです、あの方はとても美しい声で歌います、森に住むどんな小鳥たちよりも。」
 「ぐずぐずしていては夏が終わってしまうぞ、ブロダイウェズよ。そうなれば、スェウは戦へ行ってしまう。館を出て、二度と戻らぬ。戦場で、鉄の醜い鳥たちの歌声にもまれ、喉は切り裂かれ、二度と歌えなくなってしまうぞ」
ブロダイウェズは軽やかに歩く足を止め、瞳を瞬かせて馬上の人を見上げた。
 「そうなのですか、このところ、館を空けることが多くなりましたが、戻ってこなくなるのですか?」
 「そうだ。スェウはイオナに住むことになろう」
少女は胸を痛めた。事情は何も知らないなりに、二度とスェウに会えなくなるのでは、ということが、ひどく悲しく思われたのだ。
 「わかりました、伺ってみましょう。あの方が何を隠しておいでなのか、どうすれば館から出ずにとどめることができるのか」
 「三晩のちに、また来る。それまでに調べるのだ、よいな」
馬は静かに離れ、闇深き森のほうへと消えて行った。
 ブロダイウェズは音も無く館に帰り、次の日を待った。

 夜が空けると、少女はすぐにスェウをたずねた。思いつめた様子に、スェウは驚いた。
 「ご主人様。ご主人様は何を隠しておいでなのでしょう。わたしにお話いただけますか」
 「隠していることとは? どんなことだろう」
 「正直にお答えください。何か、とても大きな秘密があるのでしょう。ご主人様が力をなくすのは、どんな時なのですか」
 「誰が、そんなことを君に教えたの?」
スェウは夜着のまま寝台の端に座り、困ったように微笑んだ。そして、ああ、何の疑いもせず、少女に打ち明けてしまったのだ。
 「確かに運命は定めている。私は裏切りによって命を落とさねばならない。しかしそれは、ティレ河の水で水浴びをしているとき、灼熱の太陽の下で育った黒檀の枝から、手とナイフで自ら削った槍で、背中の真ん中を貫かれたときにだけ訪れるのだ」
少女はしかと、それを胸に刻んだ。それこそが破滅の鍵であることを知らず。彼女は疑いも、偽りも知らず、あらゆる少女の感情に未熟であった。そんな少女を、一体誰が警戒しよう。無垢な花から生まれたものは、どこまでも無垢であったから。
 こうして悪しきものたちは、地上でただ二人、スェウ自身と、グウィディオンを除いて知らぬ秘密を手に入れた。
 使者は闇夜に走る。
 報せを受け取ったグロヌウ・ペピルは、邪悪な笑みを浮かべ、早速、運命の凶器を作りに掛かった。そしてそれは、秋には出来上がっていたのである。

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