◆48


 鬱蒼とした暗い緑の中を、ただ一騎、飛ぶように駆ける馬があった。目深に被る、青いフードの下から零れる光は金の髪、白い風は心地よく木々の葉を揺らし、小鳥たちを驚かせることもなく過ぎ去ってゆく。
 スェウは一人、報せを持ってイオナからケルニュウの境を越えようとしていた。全力で走る金の鬣の馬を追える馬は他におらず、供は途中で遠く引き離されてしまった。彼は道を急ぐあまり、背後に誰もいなくなっていることに、気がついてさえいなかった。
 いつしか月は傾き、ケルニュウとの境の峠に差し掛かっている。ここからは狭い岩地、馬はそう速くは走れない。スェウは馬の速度を落とし、しらしらと照らす白い光の中に浮かび上がる崖に沿って進み始めた。
 どれほどもいかない頃のことだ。
 彼は、岩の上に光るものを見た。咄嗟に頭を下げ、その肩すれすれに矢が飛ぶ。もう少し動作が遅ければ、額を射抜かれていたはず。
 即座にヌウィブレを解き放ち、岩影に身を潜める。かさかさと、風の鳴る音がする。雲が流れる。
 岩間に槍先が輝き、月明かりが、引き締まった体を持つ男を浮かび上がらせる。
 その男には、見覚えがあった。
 先に、イオナの宮廷にて、グウィディオンを罵倒した男。イダウクだった。
 そのことに気づいたスェウは、身を隠すのをやめ、声高に、谷間に響き渡るように呼ばわった。
 「そこにおられるは、イダウク殿、あなたですね? 闇に乗じて我が命を貰うとは、尋常ではない。何ゆえに我が命を脅かされるのか!」
答えはなく、岩陰を走る足音だけが聞こえる。鈍く矛の先が光り輝き、盾持たぬスェウを取り囲んでゆく。スェウは馬の背から弓と矢とを取り、番えて放った。
 低い声がして、岩の陰に人が倒れ付す音がした。
 「近づくな、いずこに隠れようとも、月に映る影は隠せぬ」
彼はさらに二本の矢を番え、狙い定めて放つ。その矢は、岩影から走り出そうとしていた者のブーツを影に縫いつけ、様子を伺おうと顔を出した者の顎から髭を削り取る。悲鳴が上がった。イダウクは、そこにいない。
 「答えられよ、イダウク殿。さもなくば、次は貴殿が的になります」
低い笑いが漏れる。影が揺らめき、盾を前にした男の姿が崖の上に見えた。
 「グロヌウの申した通りよ。見た目は幼くたおやかにあろうとも、中身は恐ろしいものぞ」
イダウクは、乾いた笑い声を上げた。霧は晴れた。あらゆる偽りと不誠実を、朝の光が照らし出す。
 「何ゆえに、と問うか。何となれば、そこもとが王の後継者となられたからだ。玉座には朽ちてもらわねば困る」
 「それゆえに、」
と、スェウは臆することなく切り替えした。
 「グウェルン殿を罠にかけられたのですね。グウェルン殿亡き後も、マース公の甥の息子たちに後を継がせまいと、リドランに罪を着せようとしたのですね。」
だがイダウクは、にやりとするだけで答えない。四方から武器がきらめき、スェウは、身を守らざるを得なくなった。だが、岩の多いこの場所で、弓矢だけで身を守ることは難しい。彼はヌウィブレに飛び乗ると、元来た道へ向かって全速力で引き返す。
 「追え!」
と、イダウクの声。幸いにして、彼らは弓矢を持ってはいなかった。代わりに、手にした槍を投げつけた。スェウは、馬上でそのうちの二本までをかわし、三本目をはっしと握り締めると、その柄が砕けて散った。
 開けた場所まで戻ると、彼は振り返って矢を番えた。追ってくる最初の男の腕を貫き、さらにもう一人。その腕は強く、ただの一本とて的を外す矢はあらじ。
 そこへ蹄もけたたましく、三頭の馬が駆けてくる。白い息を吐く馬たちの背から、イオナの紋章をつけた男たちが声を張り上げる。
 「何をしておられるか、イダウク殿。この上、更なる恥を塗り重ねられるおつもりか。そこもとは、悪魔にでも魂を売りなさったのか。おやめくだされ!」
 「貴殿の館はすべて灰燼と化し、家臣の皆様は捕らえられましたぞ。我らは、その報せを戦線に運ぶため、急ぎ参ったのです。貴殿の部下の方々が、すべて明らかにしましたぞ。こともあろうに、王の片腕なる貴殿が、王のご子息を誘い出して殺すとは。哀れなるはグウェルン殿、つゆほども貴方の誠実を疑っておられなかったでしょうに」
イダウクの顔に動揺が走るのが見えた。
  テイルノンが放った二十騎が、全てを知っていた。彼らは馬と一体化し、半日で千マイルを駆ける。イオナの国中を巡るのに、さほどの時間はかからない。王妃の葬儀のあと姿を消した有力者たちの領地へ先回りするのは、造作ないことだった。

 さらに、峠を守るケルニュウの民の若者たちが、夜を乱す声に気づいて峠を降りてくるのが見える。イダウクは、もう逃げられぬことを悟った。言い訳も通用すまい。
 スェウは馬から飛び降り、イダウクの前に立つ。
 「お選びください、殿。地下の国へ下られるか、海の彼方へと追放されるか。」
 「さて。いずれを選んでも、得は無いと見えるが、だがしかし」
男は一瞬、目を光らせると、剣を抜き、スェウに向かって振りかざした。盾持たぬスェウは、それを見ると、咄嗟に腰から短剣を抜き、剣の刃を受け止めた。それは、金の鬣持つ獣たちの王、トゥルッフ・トゥルウィスの牙より削り出された、鋼よりも硬い刃。
 スェウは剣を打ち砕き、男を組み敷いた。その場にいた誰もが、この歳でそれほどの力を持つ者は見たことが無いと、のちに口をそろえるほどに。
 彼はイダウクの右の袖を引き裂いて、二の腕を見た。そこに、グウェンホヴァルの言った黒い三本の傷は、無い。
 「あなたではない、ギルヴァエスウィを討ったのは。グウェルン殿への報いは負えど、三人の息子たちの父への報いは負っていない」
駆けつけた者たちがイダウクを取り押さえ、武器を奪い、縛り上げた。
 「私は命を奪うことを好まない。彼を永久にこの国から追放する」
スェウは言い、人々はそれに従った。のちに報せは国中にもたらされ、マース公も、玉座の前で息子の仇が取られたことを知るだろう。


 戦の音は高まり、エレリの軍とイオナの軍は、ケルニュウとの境目で対峙する。それは、戦場にイヴァルド王の倒れて以来、たえて見ることのなかった大軍であった。
 人々は、悼まずにはいられなかった、かつてルヴァインの大軍を前に、一つになって戦った国が、今や二手に別れているのを。数多の血が平原に流されることを。だがグウィディオンには、心安いことだった。そこには、ティレ河の流れは無いのだから。
 峠の高みに立つ猛々しいグウィディオンの姿は、さながら砦を守る守護神のように空に聳え立ち、遠くからも見えた。遠くを見渡す眼に隙は無く、味方であっても恐れを為して近づけなかったが、スェウだけが、その傍らに立つことが出来た。
 「イダウクを助けたのか」
 「はい」
スェウは軽く頷いた。
 「情けをかけるに値せぬ男だとは思うが」
 「ギルヴァエスィ殿をも手にかけていたなら、あるいは、と思ったのですが。彼ではありませんでした、父上。それに彼もまた、唆されていただけと思われるのです。」
 「誰にだ?」
 「分かりませぬ。ただ、彼のマース公への親近の情は本物だと思います。親しみも度を越せば、狂気に変わります。寵愛を独り占めしたいためにマース殿の実の息子を殺し、その血筋にある者を殺してゆくというのは、あまりにも悲しいこと」
 「それを、嫉妬と呼ぶのだ」
グウィディオンは、口元を歪めた。
 「人の持つ感情のうちで、最も醜いものだ、スェウ。よく覚えておくがいい。それこそ、俺に呪いをかけ、イダウクを卑劣の道へ走らせたものの正体だ。お前も、それに付け狙われることとなろう」
 「では、今、エレリが攻め寄せる理由は、何なのでしょう。彼らを走らせているものの正体が、お分かりになりますか」
 「欲望の一つだ。人の中には、地位と名誉を求めてやまぬ者が居る。その者はどこまでも高く求めすぎ、心臓が張り裂けるまで昇りつづけようとするのだ。」
 「でも、それは、そんなに良いものでしょうか?」
男は笑い、不思議そうな顔をしているスェウの肩に手をやった。
 「人の持つ業など、長く人を見ておれば、いつか気づくもの。人とは、そういうものなのだと。」
彼らの眼下には、切り立った崖に弓矢を構えて敵軍を待つ兵たちがいた。
 エレリの軍は、平原の姿を見せはしたものの、狭い崖に深く入り込むことはなく、睨みあったまま、一昼夜が過ぎていた。
 「グウィディオン殿、どうやら奴らは、罠に気づいたようですぞ」
偵察より戻ってきたサウィルが、言った。
 「さすがに一筋縄にはゆかぬか。数は」
 「おおよそ、こちらの二倍はありましょう。しかし不思議なことに、アムレンの姿が無いのです」
 「……。」
グウィディオンは眉をひそめ、テイルノンを呼びに遣った。そぞろなる民の長は、すぐにやって来た。
 「テイルノン、何か聞いてはおられぬか」
 「さて。我が氏族の者たちは何も。グウェルンは、確かにあそこにおる。そなたの眼を持ってしても、見渡せぬのか」
 「何も。何かが我が瞼の上に灰色の靄を落としている。おそらく運命の手であろう」

 彼らは知らなかったのだ。ブランウェンの倒れたすぐ後に、青月城を後にしたイストラドの領主、グロヌウ・ペビルがいずこへ向かったのかを。彼はたくらみを巡らせ、使者を送り出すと直ぐに北の領地へ戻った。グロヌウは、未来を見通す、その恐るべき力でエレリに勝機が無いことを悟り、アムレンに告げさせた。月の輝く時には、決してイオナに踏み入ることは出来まい。しかし月に雲のかかる時、それは容易になろうとも。

 夕刻間際、エレリの軍が動いた。旗を掲げた使者がただ二人、馬を進めてきたのだ。彼らは告げた。すなわち――来年の夏の終りまでの停戦を受けられよ、と。アムレンの妹と婚約したリドランの次兄、ヘッフドゥンが、アムレンに願ったのだと。兄ヘドゥンは婚約しており、花嫁との婚礼を春に控えている。また自分も春に妻を娶る。今ここで戦を長引かせては、双方の祝い事にとって良くない、というのだ。
 サウィルはしばし考え込み、眉を寄せていた。
 「殊勝な申し出だが、自分勝手な言い分でもある」
 「私には、いかがわしい申し出に思えます」
そう言ったのは、ほかならぬヘドゥン自身だった。
 「ヘッフドゥンが、そのような嘆願をするとは思えませぬ。我が弟ゆえに、その性格はよく知っております。アムレンもまた、己のものとならなかった乙女が他の男を夫とするのを、祝福して待つような心の広き男とは思えませぬ」
 サウィルの二人の息子たちも、同意見だった。だが、グウィディオンは迷った。
 「さりとて、このまま平原で戦えば向こうは二倍の数、まともには勝てると思えぬ。イダウクという内府の敵を討ったことで、きゃつらの目論見が外れたのかもしれぬ。いや、そうでなくても、イダウク同様、黒い謀に手を貸した者が、まだいるやもしれぬ。前と後ろから挟み撃ちにされては、都合が悪い」
 「さよう、これを好機と捉えることも出来まする」
そぞろなる民の長のひとり、カカムリも言った。
 「十二の氏族のうちには、どちらに付くとも迷いかね、手をこまねいている者たちもおる。夏の終りまでに、彼らの同意を取り付けることもできましょう」
 「では、この停戦を受け入れるかな? アムレンは、約束を守るような男とは思えんが」
 「それならば尚のこと。何ゆえ、このような申し出をしたのか、その腹のうちを見定めねば、なりますまい。エレリとの境、厳しく見晴らせておきましょうぞ」

かくて話し合いはまとまり、使者は返答を捧げ持って帰った。それが、双方にとって良きことだったのかどうかは、後に分かる。ともあれ人々は、多くの血が流されずに済んだことに、安堵したのであった。

 その冬、人々は落ち着かぬまま過ごした。この国で過ごす、初めての冬かと思うほどであった。夜は明るく、昼間は晴れ、霧はどこぞへ退いていた。何十年かぶりの渡り鳥が空を過ぎった。湖は凍りつかずに眠り、雪は、少なかった。

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