◆47

あの人は今宵も謳うだろう
それしか語る言葉を知らぬ妖精は
海の響きに 夜のしじまに 森のざわめきに 星屑の鈴を手に
栄光という名の剣が 白い胸を切り裂いた
その夜のことが忘れられないのだと 人は言う


 まだ、霜降りる月のはじめ、きらびやかな武具を身に着けた兵たちが、イオナの都を出発した。寂れた町に残る若者は数少なく、兵役に付く事を渋って逃げ出す者さえ、いる始末。結局、その数はわずかに百に満たず、しかもそれは、兵役に就けば着る物と食べるものを得られるという触れ込みに惹かれた、貧しい農民たちであった。アルヴォンの領主なるサウィルと、アベルフラウの領主ゴヴァンノンの連れた兵の数が、王のそれを上回るほどであった。
 ヘドゥンも、いくばくかの兵を連れて出陣していたが、彼は、浮かぬ顔をして、戦場に出ることをためらっていた。
 「ヘッフドゥンに会うかもしれぬからな」
マースは言った。
 「どのような顔をして会えばよいのか分からぬのだろう。正直で頭も良いが、気が弱い。平和な時代においては良き領主であれたものだが」
 「ヘドゥン殿は、後方に下がられよ」
短い栗毛の、逞しい馬を駆りながら、そぞろなる民の長、テイルノンが声を上げる。
 「そなたらは、退路を断つだけでよい」
 「しかし――」
ヘドゥンの側に、ブランが笑いながら馬を進ませる。
 「婚儀の前に姪を寡婦にするわけにはいかぬ。花嫁を悲しませる必要は無い」
若者の顔がはっと赤くなった。彼はまだ婚約の身であり、ラスティエンと正式な契りを交わしたわけではなかった。婚約してからちょうど一年、春に、婚礼を挙げることになっている。
 「春までには、終わると良いのだがな。」
言って、サウィルは冷たく曇る空を見上げた。霧に包まれ、胡乱なままに目覚めた日とは違い、ひたひたと身に染みてくるような寒さがそこに感じられた。朝夕に襲い来る得も知れぬ不安。それは、誰もが感じているはずのものだ。誰一人として、その理由をはっきりとは知らないが。
 はるか前方から、闇の色をした逞しい馬が、グウィディオンを乗せ、軽い足取りで駆け戻ってくるのが見えた。人々に近づくと、彼は言った。
 「この先の丘を越えたところに、エレリの陣がある。数はこちらと同じほどだ。奴らはまだ気づいていない。先に言ったとおり、動き方は分かっているな」
テイルノンが指示し、自らの支族の人々を四散させる。
武具のこすれあう音がする。残りの人々は、重い足を引きずって、戦場に向かう。勝ち目の無い戦、だが、それは最初から見越した上で、逃走することを目的に、この兵団は作られた。
 「ヘドゥン」
すれ違いざま、グウィディオンは、甥の名を呼んだ。
ほっそりとした若者の肩が、びくりと跳ね上がった。彼は自らの反応に赤面し、奥歯を食いしばり、畏怖に耐えながら、真っ直ぐにグウィディオンを見上げる。
 「俺が先にヘッフドゥンを見つけたら、奴の命は無いものと思え。弟を庇うつもりがあるのなら、俺より先に捕らえることだ。」
ヘドゥンの目に影が過ぎり、それは、怒りとも、哀しみともつかない色に染まる。――彼は、恐れていた。
 だが、同時に、抗いたいという気持ちもあった。
 「父上はイオナの王に殺されたのだと、ヘッフドゥンは信じていた。リドラン・テイヴィの地を豊かにしたいと、誰よりも願っていたのは弟だ」
 「その地を見捨てて逃げたのだ。あれは」
グウィディオンは短く、あしらうように言ったが、ヘドゥンの不満を感じて、思い直した。
 「己の目を信じ、己自身の望みを知ることだ。息子はリドランの者に殺されたと信じていたブランウェンの最期を知るが良い。冷静に考えることだ。誰かが、イオナと、リドランとの仲を裂こうと画策したのだ。理由は分かろう? 王家の血が絶えた時、マース公は誰に王冠を手渡すのか。俺は追放され、王権とは何の関わりも持たぬ。そなたらの父も死んだ。スェウがいなければ、そなたら兄弟のうち誰かが指名されていただろう。」
マースの甥であり、かつてイオナの王の側近く仕えた男は、そのように語った。
 「では、イオナの王にならんと欲する誰かが、グウェルン殿と我らの父上を? それならば、今はスェウの命が危ういのでは」
 「まさしく、その通りだ。あれは、裏切りによって命を落とすと予言された子だ。」
運命は変えられず、それとは知らず辿ってきた道こそが、定められた死に至るべき道であった。そして、この男は、あらゆる栄光は遠ざかる運命にある。輝ける座を約束された息子を、若くして失うこと以上に、残酷な不名誉があるだろうか。
 ヘドゥンは、溜息とともに言った。
 「伯父上、あなたは、お一人で全てを背負い込み過ぎるのです。沈黙が、人々にあらぬ誤解を抱かせるのでしょう」
 「かもしれん。昔、スェウにも同じことを言われた。」
彼は馬の腹を蹴り、今し方戻ってきたばかりの、丘の向こうに顔を向けた。
 「――恐れることは無い。運命は、それに相応しい時にやって来る。待つために足を止める必要も、恐れて逃げる意味も無い」
自分自身に言い聞かせるようにも思えた。
 ヘドゥンは、この男にも恐れるものがあるのだろうかと、ふと、思った。


 一気に攻め上り、王城を落とすつもりでいたエレリの兵たちは、のんびりと陣を構えていた。イオナの兵力が足りぬことは既に知れており、マース公に王としての人望が薄いことは隠しようが無かった。
 苦戦を強いられることはおろか、自分たちが襲撃される側になるなどと、つゆほども思っていなかったに違いない。
 猛然と駆けてくる黒い染みは初め、目の錯覚か影かと思われ、次第にその姿を現すにつれ、見る者の心に衝動的な恐怖を呼び起こす。地下世界より浮かび上がる、魂を喰らう冥府の王の使者とも見えた。
 遅れて、斥候が叫んだ。「敵襲だ!」
 だが角笛の吹き鳴らされるのは遅すぎ、既に、銀に輝く矢の雨が、陣の上に降り注いでいた。獣の如き雄たけびの声を上げ、黒光りする大剣を振りかざし、単身突っ込んでくるのは長身の男。その剣に触れたもの全てが打ち砕かれ、なぎ倒され、兵たちは武器を手に取る間もなく逃げるのが精一杯だ。そうして、蹴散らされた者たちを、後から追い駆けるサウィルの息子たちと、ブランの兵たちが刈り取ってゆく。
ヘドゥンも懸命に馬を駆ったが、先頭をゆく黒い馬はこの世のものとは思えず、瞬く間に引き離されてゆく。
 「行け! 陣を破れ。反逆者を捕らえるのだ!」
サウィルはイオナ王家の旗を掲げた。風が布を押し広げ、純白と青の交じり合う、美しい紋章を広げる。昼と夜の色、守護者たちの色、綾を織り成す銀の蔓草、そして剣を掴む鷹。剣の触れ合う音が響き渡り、平原は、荒れ狂う怒りの風に包まれる。
 およそ十五年前、この場所からそう遠くないティレ河のほとりで、同じように戦があった。そこでも数多の血が流され、自国も異国も含め、数多の若者が命を落とした。それに比べれば規模は小さかったが、かつてを知る人々は、かつてと同じように戦場を駆ける黒い影があることに、奇妙な錯覚を味わったことだろう。
 いちど真ん中を切り裂くように向こう側まで駆け抜けたグウィディオンは、すぐさま馬を巡らせ、今度は逆方向に疾走する。戻ってきた時、彼の息はほとんど上がってはいなかった。
 「これは、本隊ではない。アムレンも、グウィンめも、この辺りには見当たらん。」
 「そのようです。本隊は、あちらより来ます」
唯一、かろうじてグウィディオンについていくことの出来た、サウィルの息子キリッズが、荒々しく白い息を吐く馬の上から、彼自身も息を切らしながら問うた。
 「捕らえた兵から行方を聞き出しますか?」
 「否。ここにおらぬとなれば、奴らは既にイオナへ向かったと見るべきだ。ここにはブラン殿が残られ、ディノディグとの境を守られよ。残る者は取り決めの通り、逃げるふりをするのだ。イオナへ攻め入ろうとすれば、奴らは必ずグリン・キッフの谷を通るはず」
 「我らがしんがりを勤めましょう」
キリッズの弟、キルッフが別な方向から追いついてくる。
 「いや、俺でいい。戦を知らぬお前たちに、戦慣れた傭兵どもの相手は難しい。」
 「しかし伯父上――」
グウィディオンは手を振り、ヘドゥンに黙るよう指示したた。
 「ここで果てる運命には非ず。谷の向こうで落ち合おう。我が背は、月明かりが守ってくれるだろう」
昼に差し掛かったばかり、夕刻はまだ、はるかに先のこと。
 「グウィディオン殿の言うとおりだ。若い命を危険に晒すことは無い」
サウィルは、不満そうな二人の息子たちを側に寄せ、部下を率いて行くよう言いつけた。丘の彼方から角笛の音が幾重にも響き渡り、緑の霧に霞む草原の向こうから、地鳴りのような足音が響く。馬たちは血の滾りに興奮したように嘶き、足踏みをし、今にも駆け出そうとしている。
 「いざ、丘の彼方へ!」
拍車をあて、軍を率いる者たちは事前に打ち合わせてあった方向へと馬を向ける。大軍に恐れを成して逃げるかのように、装うためだ。ディノディグとの国境はブランが守り、ケルニュウとの境には十二支族の長がひとり、ガルウィリの同胞たちが見張っている。何よりも自分らの住まう大地を大切に思う、そぞろなる民のこと。ケルニュウにて血を流させるとは思えず、イオナへ上る道は岩山の合間を潜る狭い峠道しか無かった。
 エレリの軍を率いる者、狡猾なるグウィンが、それを罠と見破るかどうかだ。

 丘をひとつ越えたところで、振り返り、サウィルは息子たちに向かって言った。右へ、左へ、巧みに手綱を取り、馬上から追いすがる数多の兵を切り伏せ、槍の先をかわす黒い影が、平原の上に見えた。
 「しかと見ておくが良い、あれが、かつてイオナ随一と謡われた男の戦いざま、女傑エレン・ルイダウクの目がねに適った勇者よ」
 「人でしょうか」
キリッズが、呆然と呟いた。
 「あのような猛々しい人を、私は見たことがありません」
 「さもあろう。かつて、この国を作った者たちは皆、あのようであった。平和なときが続けば戦士の血は薄れ、剣から鋤に持ち替えた腕は細くなるのだ。あの男は、神々と英雄たちの御世の、最後の生き残り。それゆえに神々も、あの男の運命を定めることが出来ぬ。――さあ、我らも行くぞ。」
長い灰色の髭が風に靡いた。男の、ほっそりとして青白い顔には、いつしか若き日の輝きが蘇っていた。

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