◆46


 マース公は、以前にも増して小さく、萎びて見えた。城からは哀愁を帯びたざわめきが消え、死にも近しい静けさに変わっている。
 残っている者はごく僅かだった。葬儀の済んだ後、あるいは、済む前に、もう、姿を消していたのかもしれぬ。ブランウェンが倒れたその時、すなわち王家の血筋が途絶えたと看做されたその時、人々の多くは仕えるべき相手を失い、誓約から開放されたと思い、自らの領地へ帰っていったのだ。その場に残っている者は、二十人にも満たなかった。
 高座の前には、グウィディオンが立っていた。超然とした、挑みかかるような眼差しは変わっておらず、言いたいことは山ほどあるかもしれなかったが、この男は、何一つ、自ら口を開いて言い出そうとはしなかった。
 広間に斜めに差し込む光が玉座と、その御前の床に描かれたこの国の紋章を照らし出し、銀で縁取られた王冠が輝いた。それはマース公の頭上には無く、もう何年も昔から、ビロウドのクッションの上に載せられ、くもり一つなく磨き上げられ、そこだけが真新しいまま、壇上に掲げられていた。
 「イオナは終わりだ」
灰色のローブを纏った高座の男は、溜息をつく。
 「民はわしを見放した。イヴァルドの姉であったブランウェンの居ない今、この広間に留まる理由は無いのだ。」
 「王、何を仰います?」
と、ヘドゥン。
 「わしは王ではない。ただ――ここに座っていただけだ。民を導くことは出来なんだ。」
老いた男は、溜息をつき、掠れた目をしばたかせた。そして、ふと、天窓を見上げた。
 「ここは、何故こんなにも明るいのだ。この広間は」
 「霧が晴れたのです、マース殿」
サウィルがうやうやしく言った。「この国は夢から醒め、動き出そうとしております。もはや、過去の幻影に囚われまするな。波に追われた我らが祖先が、この島に辿り着いた日のことを、火と剣とで国を築いた時のことを思い出されませ。そして、目の前にある者のことを、よくご覧くださいませ。ここに残りし者こそが、王よ、真にイオナの国を想う者たちです」
光にまぶしく目を細めながら、マースは、残っている者たちの顔を順繰りに眺めた。
 サウィルと二人の息子たち、キルッフとキリッズ、ブランとヘドゥン、ゴヴァンノン、イオナ諸侯のひとりニッズとその息子なる剛勇のエデルン、長テイルノンとその同胞ガルウィリ、カカムリ、イナウク。森に住む賢者にして医師モルガン・ティッド。そして、グウィディオンと彼の傍らに立つ美しい息子たち。
 もしかすると、それは幻なのかもしれぬとマースは思った。二人の若者は、とても良く似ていた。同じ歳まで成長すれば、区別はつかぬのではないかと思われた。
 だが、よく見ると、ほんの僅かな違いもある。
 年かさのほうは、どこか、ゆらぐような光をたたえている。唇をまっすぐに結んでいる表情は影のような男にそっくりだった。
 また、年若いほうは、真っ直ぐな、それでいて強すぎない光を纏っている。柔らかく微笑みを浮かべるように結ばれた唇は、かつてイオナの花と呼ばれた姫君を思い起こさせた。
 「わしには、もはや息子はおらぬ。この国を継ぐものはおらんのだ。一族から養子をとるのは、よくあること」
マースは呟いた。そして、二人の若者を見比べた。
 「ここに住んでくれるつもりは無いか。」
ディランが、即座に、短く答えた。
 「ここは、私の住む国ではありません。定められた国はここではない」
 「彼はダヴェドのはるか西にある、モール・リッドに住んでおる」
客人であるダヴェドの王、プイスが口を挟んだ。彼と従者ペンダランは、ここ数日に渡り立て続けに起こった出来事によって、貴賓でありながら半ば忘れられた存在となっていた。彼らは、ことの顛末を最後まで見届けるつもりであった。
 「かつて悪しき海の魔女が住んでいた島だ。ディラン殿も、我が息子プレデリも、そこに囚われておった。今や魔女は倒れ、ディラン殿はそこを海に住まう人々の楽園にしようと考えておられる」
 「海に住まう人々とは?」
 「ご存じないのですか、白波のはざまに住まう海の国の種族を。魔女に虐げられ、追放されていた人々が戻ってきたのです。美しい歌声で歌う女人魚たちもおります。いつか、ご覧入れましょう」
 「海に生まれた者は、海に運命があります」
賢者モルガンが、ゆっくりと頷きながら言った。
 「陛下、波の息子はお諦めなさいませ。地の上に生まれた者に尋ねるべきです。」
 「では――。」
視線が、スェウと合った。
 幾多の哀しみと、呪われた運命と引き換えに先を見通す目を得た男には、死すべき予言が重く圧し掛かり、その成就の時が近づきつつあるのが視えた。それが組み合わされた水車の歯のように、きしきしと音を立てながら動き出すのを感じた。
 一度組み合わされ、動き始めれば、その動くは迅速にして止めることは難しい。
 スェウは、静かに言った。
 「お一人で寂しいとあれば、殿、私がお側に居りましょう。暗い夜道を照らす月は、何処までもついてゆくものです。ブラン殿、戴いた領地と屋敷の管理を父に任せてもよろしいでしょうか?」
 「私は構わぬ。グウィディオン殿には、ご自由にお使いいただこう」
ブランが答えるとすぐに、スェウはヘドゥンに近づき、懐から、大切に布にくるんだ小さな包みを取り出して、手渡した。
 「これを、ブレイドゥンに渡して欲しいのです。本当は直にお渡ししたかったが、これ以上時が経てば、渡す機会が失われてしまうかもしれません。大事な便りの品です。どうか、必ず届けてください。"波の彼方より響く歌は絶えることなく、再会の時まで心を託す。"と…」
 「しかと、心得た。弟には必ず手渡そう」
そしてもう一度、スェウは、グウィディオンの目を見て、言った。
 「誰も、死のあぎとを永遠に逃れ得る人間などおりません。さだめられた運命からは逃れられないでしょう。決して悔いないでください。その胸の重荷になることだけが気がかりです」
グウィディオンは、低く、返した。
 「お前は強い。おそらく、俺よりも」
それは、謎めいた言葉だった。彼ら以外の誰も、意味を知ることは無かった。

 その後、マース公はスェウを傍らに招き寄せ、自らの養子とすることを正式に宣言した。その意味は誰の前にも明らかだった。サウィルは微笑んだ。いつか、こうなるだろうことは、ダヴェドより戻る船の中で、彼自身、既に予見していたとおりに。
 だが、その立会人たちには、晴れやかな気持ちとは裏腹に、胸の奥に何か、つっかえるような一握りの不安が残されていた。


 凍てついた大地が溶けるまでに、二月はかかるだろうが、戦は待ってはくれない。
 イオナの王、マースは、玉座においてエレリ討伐を指示し、その場に揃える数少ない忠実なる家臣たちは、いそいそと、兵と装備を整えた。
 「どちらに利があるか、今は、諸侯が様子を見計らっている時だ」
グウィディオンは、人々を前にして言った。
 「アムレンは決して約束を守らぬ男。その性格を知っておれば、同盟を結ぶことはまず、あるまい。イオナに勝ち目が無ければ、諸侯は自らの領地を守りに入る。だが、もしも勝ち目があるのなら、イオナに忠誠を見せるだろう。初戦が重要になるだろう」
 「初戦の場所は、我らが民の土地となさいませ」
とは、テイルノンの言葉。
 「グリン・キッフの谷が良いでしょう。我が民の者たちが、そちらに陣を据えてございます。彼ら以上に谷を知り尽くす者はおらず、地の利を味方にすれば、いかな不利の戦とて、勝利に導けましょう。」
 「しかし、嘆かわしいこと――」
イオナ諸侯がひとり、豪腕のニッズが溜息をついた。
 「無論、兵力が不足しているのは承知の上。とはいえ、イオナの王に近くお仕えしてきた諸侯のうち、この場に残るのが我だけとは。」
 「それも、仕方ありますまい。ここ何年も疎遠であったのです。人の心は移り変わるもの」
モルガン・ティッドが旧知の友の肩に、そっと手を置く。
 「心苦しいが、それがしは森に棲む者。もとより戦とは無縁にございます。先々代、エヴダク王とのご縁でこうして招かれてはいるが、大したお役に立てるとも思いませぬ」
 「役に立つ時は、必ず来るだろう」
グウィディオンが呟く。
 「そなたは、あらゆる薬草に通じる知識をお持ちなのだ。致命傷を負ったつわものに再び命を与える、そなたの技を過小評価はせぬ」
言葉は予言めいており、誰ひとり、それを茶化そうとはしなかった。この男がいる限り、人々の表情には常に緊張が漲り、緩むことは無かった。
 灯はとうに消えていた。老体にこたえる寒さか身を守るため、マースの膝の上には重たい毛布が載せられ、肩と首の周りには、毛皮が巻かれていた。その傍らに、寒さを感じないのか、マントを一枚羽織っただけのスェウが立っていた。
 グウィディオンを中心とした協議のさなかではあったが、スェウは静かな、透き通るような声で玉座の老人に話しかける。
 「砕け散った栄光のきらめきの残滓が、人々の胸に哀しい光を宿しています。過去は過去のまま、いかに鮮やかに思い出されても、二度と戻らぬ輝きなのです。」
マースの足に触れて、こう囁いた。
 「この国には、新しい明日を迎えるでしょう。――未来は常に、過去とは違うものなのです」
月の輝きが舞い落ちて、広間の青い天窓を通して、淡く、拡散しながら降り注いでいる。その光の中に踊るのは、形無き子供たちの群れだった。
 「我が息子よ、」
マースは、目の前にある青い瞳を見つめ返しながら、言った。
 「わしは本当に夢から醒めたのだろうか。それとも、まだ眠っているのだろうか?」
 「すべて、うつし世です。ですが、この世のすべてが神々の夢なのです。お疲れでしたら、どうぞお休みください。私が側にいますから」
スェウは、毛皮のショールをマースの肩まで押し上げ、冷えないように気遣った。マースは椅子にゆったりとかけたまま、目を閉じる。
 「見える。――お前がどこから来たのかが。あそこは、生きた人間は行けぬ国だろう」
 「そうかもしれません」
 「それが見えるということは、わしも、もはや長くは無いのかもしれんな。」
薄い雲が月の光を反射して、おぼろげにイオナの町を照らし出す。その頃、島の西側では氷まじりの雨が降っており、はるか北では雪になっていたのだが、そこだけ、雲が切れ、光を地上に降ろしていた。
 まるで夢見るように、丘の上の王が住まい、青月城は、月を背に、海を傍らに、きらめく夜闇の中に佇んでいた。

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