◆45


 その朝、海を覆う雲は晴れず、雪は青白く窓辺に積もり、人々は起き上がった瞬間、震えて両肩を抱かねばならなかった。

 聖誕祭の次の朝、新しい年の幕開け、騒ぎすぎた人々は、昼前になって漸く目を覚ました。
 霧は消えていた。ただ透明な、それも心を縛るほどに冷たく透明な、街と城壁の輪郭をはっきりと浮き立たせていた。
 上着をかき集めて重ね着した人々は、客人も使用人も、暖を求め、ありったけの薪が焚かれている広間に集まった。そのために、広間はテーブルが置かれている場所以外は大変な混雑だった。
 話題は決まっていた。イオナの王、マース公が、エレリの謀反にいかなる裁定を下すのか。軍を向け、迎え撃つ覚悟を求めるのか。
 戦が始まるのだ。
 この国では、十七年ぶりの戦だった。
 マース公が現れた時、ざわめきは一斉に止み、人々の視線は、高座のただ一点へと注がれていた。
 と、その時、誰かが思わず声を漏らした。
 「ブランウェン殿だ」
背筋を伸ばし、きっと行く手を見つめる背高き貴婦人の姿に、高座は光り輝いた。
 おそらく若いときは誰もが振り向く美しさを持っていたのだろう、ブランウェンの横顔には、今でもその面影が残っていた。 白髪まじりの金の髪と、白い肌。そして、透き通るような青い瞳。上品で質素なドレスには飾り一つ無く、憂いに満ちた目じりには、淡いヒヤシンス色が添えられている。
 彼女は夫の側に立ち、広間を見回した。
 「皆、よく来られました。昨夜はご挨拶申し上げることが出来ませんでしたが、本日は具合も良くなり、皆様のお目にかかれることを嬉しく思います」
凛とした、強い意志を感じさせる声は、しかし、鋭く研ぎ澄まされ、聞く者を容赦なく貫き通す。
 「王家の血を引く最後の一人として、皆に変わらぬ忠誠と新たな誓約を申し付けます。汝らには、王に身を捧げ、イオナの敵を討たんとする義務があります。意志の無い者は今すぐ、この広間より立ち去りなさい。」
怯えたように目を見交わす者、立ち尽くす者。
 だ誰一人、その場から動く者はいなかった。滅び行く都の、僅かな期間では繕いきれぬ悲劇的な哀愁の中に、今はもう失われつつある王の威厳を見たのだ。
 「ここに残りし者たちは、イオナに忠誠を誓うと看做してよいのでしょうね。では、わたくしからの最初の命令を与えます」
女王は、ゆっくりと細い腕を上げた。――それは真っ直ぐに、広間の中央へ、ただ一人の人物へと、向けられた。
 「その男を殺しなさい」
グウィディオンは、己に向けられた指先を見つめた。それから、視線は腕を伝い、肩を辿って、壇上の女性へと。青き瞳は真冬の湖のように凍りつき、残酷な輝きをたたえて、じっと彼を見据えていた。
 「ブランウェン!」
マース公は、思わず声を荒げた。
 「この広間にて血を流させる気か!」
 「その男はイオナの敵、この国に大いなる災いを齎す存在。イオナに忠誠を誓うのであれば殺しなさい。呪われた存在の息の根を止めるのです!」
 「成る程。あの時、エレニトの森で俺を襲わせたのは、ブランウェン殿、貴方だったのですな」
グウィディオンも、最早黙ってはいなかった。
 「マース殿、我が叔父上。王たる者が、その妻の要求に負けて道理を曲げるとは愚かなこと。客人として城に招いた者に偽りの道を教え、背後から襲わせたるとは! そしてブランウェン殿、かつて栄光あるイオナの王は、誰も、そのような愚かな命を家臣に下しはしなかった」
二通りのざわめきが起こった。一方は、ケルニュウの族長たちの非難の声だった。血の繋がりを重んじる彼らにとって、同胞に剣を向けることは許されぬ大罪だった。また、もう一方は、人々の面前で主君を罵倒したことに対する、諸侯たちからの批判の声。相反する声は互いにぶつかり合い、耳鳴りのように広間に響き渡り、どこかでがちゃがちゃと鍔鞘の鳴る金属音がした。
 マース公は席を立ち、あらん限りの声を張り上げる。
 「やめよ、皆の者! 神聖なる広間を汚すことはまかりならん。剣を収めよ!」
いまだかつて、この温和な男がこれほどの声を張り上げたことは無かった。尋常ならざる事態に、サウィルと二人の息子たちが走った。ブランは衛兵たちを指示し、グウィディオンの周りを取り囲ませ、人々から遠ざけようとした。しかし、あまりの混雑のため、人は思うように動けず、あちらこちらから、婦人たちの悲鳴が上がった。

 その時、スェウは人ごみの中から踊りだしてくる一人の男に気づいて咄嗟にテーブルの上の杯を掴み、グウィディオンめがけて剣を突き出さんとする、その者の腕に投げつけた。ワインが飛び散り、杯は剣に当たって砕けた。
 グウィディオンは振り返り、さっと太い腕を広げてスェウを背後に押しやった。敵意は渦を巻き、多少のことでは収まりそうも無い。ブランウェンに報いようと剣に手をかける者もいたが、グウィディオンは、かつてルヴァインとの戦いに名を馳せた勇者、イオナ最強と呼ばれた戦士だった。長年の放浪は剣からいささかも力を奪っておらず、それどころか、鋭さは増し、逞しさは野生の力を得ており、誰一人、近づくことが出来なかった。
 「手を出すな、スェウ。」
背後に少年の気配を感じて、グウィディオンは一喝した。「剣も持たぬお前に何が出来る」
 「お一人では、誰かを殺めてしまいます。手加減なさらないつもりでしょう。」
スェウが言い返す。「怒りを納めて下さい。そして、はっきりと仰るのです。あの方の胸に渦巻く、霧を晴らすために…」
 その時、テイルノン・トゥリヴ・ヴリアントと、その郎党なる長たちがグウィディオンの側に駆けつけた。
 「お前たち。わたくしの命令が聞けぬというのですか」
 「失礼ながら、奥方。貴方は冷静さを欠いておられる。グヴィディオン殿が、いかなる罪を冒されたというのか? このような場で我らに剣を取れとは。私情によって国から数多の栄華を奪い去った、フン王の激情の王妃を思い出させる。」
人々の手には、抜き身の剣が握られている。広間には、おどろおどろしい殺気が渦巻き、四方から放たれる。
 「静まれ、皆の者!」
マース公が叫ぶ。
 「ブランウェン殿、どうか先の命をお取り消しください。このままでは、血が流れます」
サウィルの必死の懇願にも、彼女は眉ひとつ動かさず、眼差しの色を変えなかった。
 雪の庭へと続く扉は大きく開け放たれ、凍えるような粉雪まじりの風が吹き込んでいる。貴婦人たちは広間の外へ飛び出し、乱れた食卓から、赤い血のようなワインが零れ落ちていた。これでイオナもおしまいだ、と嘆く声も聞こえた。
 「いずれにせよ、俺がここへ来たことは間違いだったのだ。エレリの軍と戦うまでもなく、イオナは引き裂かれる。俺と同様に」
グウィディオンは、呻いた。
 「王の威厳は落ちた。そして栄光は、永久に失われる。」
 「違います。呪いなど、恐れることは無いのです。…ブランウェン殿!」
スェウの声は、どんな喧騒の中にあっても掻き消されることなく、真っ直ぐに響いた。人々の耳を打たずにはいられぬ、心地よく力強い声音であった。この絶望的な状況にあっても、彼は人々の好意を失っておらず、それゆえに、言葉を遮ろうという者は誰もいなかった。そこにはブランウェンと彼だけしかおらず、すらりとした壇上の王妃と、影のような男の側においてなお輝く若者の間には、何かしら、奇妙な類似が認められた。
 「父は――、グウィディオンは、ずっと重い過去を背負って生きてきました。貴方と同様に、いえ、それ以上に。愛する者を失った苦しみは、貴方だけのものではございません。」
 「黙りなさい。お前に何が分かるというのです。私は最愛の息子を失った。イオナの花と歌われた気高き妹も、祝福され、栄光の王冠を戴いた弟も。呪いは絶たれねばなりません。」
 「それは、父の所為ではありません。グウェルン殿を殺したのも、イヴァルド殿が命を落としたのも。そして――、何よりも、貴方の妹君は、最期まで父を愛していたはず!」
それこそが、扉を開く鍵だった。
 目を見開き、ブランウェンは、その場に立ち尽くした。グロヌウは、影のようにその場を離れた。足早な靴音が回廊を駆け去って行く。
 人々の胸に、遥かな記憶が蘇るまで、そう時間はかからなかったであろう。
 霧の彼方に置き去られた記憶、かつて在りし日々を、今は語り部たちも殆ど歌うことはない。

 幻などではなかった。言葉ははっきりと耳に聞こえ、スェウは、そこにいた。
 「思い出して欲しいのです。私はお会いしたことのない、その方のことを。そして、目を開いて、よくご覧下さい。夏になれば日は高く昇り、この国を輝かせます。だのに、なぜ、貴方はそれを見ようとしないのです。なぜ暗く閉ざされる冬ばかりを見つめるのです? 夜は闇です。けれど、その闇の中に、月だけはいつも輝いて、あなたを照らしていたはずです。」
 表に、蹄の音が聞こえた。それから、多くの人の声と足音も、
 来客を告げようと駆け込んで来た門番は、その場の異様な雰囲気に気づいて入り口で思わず足を止めた。そうして、彼が中に飛び込めずぐずぐずしている間に、新たな客人たちは広間に迫っていた。
 「これは、何の騒ぎですかな」
良く響く、堂々とした権威ある声が、人々の動きを止めさせた。
 「プイス殿――」
はっとして、マース公が席を立つ。人の群れが二つに割れ、扉から高座に向けての一本の道を作り出した。人の退いた場所には床の灰色の紋が浮かび上がり、グウィディオンとスェウが、マース公とプイスの丁度中間に取り残されていた。
 「ダヴェドの王、何故ここに」
グウィディオンは、剣にかけていた手を離し、すぐさま居住まいを正した。プイスは、スェウにちら、と一瞥を投げかけてから、陽気な笑顔で答える。
 「なに、隣国で盛大な聖誕祭の宴が催されると聞いては、出かけてみたくもなるもの。一日、遅れてしまったが。――お邪魔だったかな?」
 「とんでもない。イオナの王ならば、プイス殿を謹んで歓迎いたすであろう。」
グウィディオンは高座に目をやり、マースの青ざめた顔と、無表情なままのブランウェンとを見比べた。
 「それは良かった。だが、実を言うと、ここへ参ったのは、断るわけにはいかぬ息子の恩人の頼みであったからだ。」
ダヴェドの王は、数人の供を連れていた。供はみな一様に、雪の中を馬で駆けるための厚いマントを身に着けていたが、入り口で雪を払い落とし、その覆いを従者たちに渡した。
 そのうちの一人は、スェウもよく知るペンダラン・ダヴェドだった。彼はスェウに親しげに微笑みかけると、背の高い若者の手を取って、王の脇に立たせた。
 マース公は息を呑み、広間には、囁きが広がった。何人かの年配の者は、奇蹟の名を呟き十字を切った。彼らには、亡き王が蘇ったかのように思われたのだ。
 「さて、グウィディオン殿。そなたの、もう一人のご子息をお連れ申したぞ。どうしても連れて行って欲しいと申すのだが、訳を聞いても話さずでな」
グウィディオンは、硬く唇を結んでいる。スェウから話は聞いていたが、会うのは初めてだった。そして、理性では判っていても、人々と同じように、亡き王に生き写しのその姿に慄いたのであった。
 「胸騒ぎがあったのです。恐れていたことが、現実のものになると」
ディランは静かに口を開いた。艶やかな髪は長く腰まで垂れ、青い瞳は涼しく澄んでいる。彼の視線は一瞬にしてその場にいる人々の動きを捉え、そこで起こった出来事を瞬時に理解した。
 「どうやら、間に合ったようです。…感謝します、ダヴェドの王よ。」
彼は真っ直ぐに高座へ向けて歩き、ブランウェンの前まで来ると、立ち止まって、彼女を見つめた。それから、静かに膝を降り、低くこうべを垂れた。
 「もっと早く、こうして、まみえるべきだったのかもしれませんが、それは叶いませんでした。お許しください、――伯母上」
プイス王とペンダラン・ダヴェド、そしてスェウはグウィディオンは彼の側に立ち、ともにブランウェンを見た。あらゆるさざめきが止んでいた。雪も、また。
 ブランウェンは深い、深い溜息をつき、小さく、だが、悲鳴のような声で呟いた。
 「私は、エレンが産褥についた時、そこにいて全てを見ていたというのに。ああ、そなたは、あの時海に落ちたはず。では、私は一体、何を見ていたのでしょう」
 「幻です」
ディランは顔を上げた。
 「それこそが、貴方を苦しめた悪夢の原因なのです。この国にかけられた悪しき呪いの正体、霧に映る実態なき影なのです。」
ああ、と、声が漏れた。彼女は言葉を失い、よろめきながら椅子の背を掴んだ。そして、掠れた声で、こう歌った。

 冷たき海に、哀しみのむくろを抱いているのではない
 その腕は、誇りを抱いて眠る


一息に歌い切った瞬間、彼女の体は冷たい床の上に崩れ落ちた。そして、駆け寄ったゴヴァンノンが支える暇も無く、心臓が張り裂けてしまったのだ。
 かくて、彼女は、驚きのあまり胸張り裂けしまった、三人の高貴な人物の一人として数えられるようになったのだった。

 あまりに突然のことで、誰もが言葉を失くし、どうして良いのか分からぬまま、その場に立ち尽くしていた。
 ブランウェンの胸に耳をあて、首筋に手をあてて、ゴヴァンノンが呟いた。
 「息が止まっておられる。」
マース公の顔色はすでに蒼白で、それ以上、青ざめようがあるはずも無かった。せめてもの威厳を奮い立たせんと、彼は立ち上がり、側に居た者たちに命じた。
 「妻を部屋へ運んでくれ。それから、プイス殿にもてなしを」
人々は、死んだように静まり返っている。夢から醒めた瞬間、いま自分のいる場所が何処であるのか、夢なのか現実なのかが分からぬ者は、多く居る。
 マース公は席を立ち、振り返りもせず、こう言った。
 「すまぬが、しばし一人にしておいてくれ。そなたらは、好きにするが良い」
自暴自棄とも思えるその言葉に、抗議の声を上げる者は、いなかった。

 王妃のなきがらは、その日のうちに整えられ、飾られ、ビロウドを張った棺に収められた。そして、三日のうちにすべての準備が整えられ、彼女のための塚が築かれた。
 長い葬列は沈黙に包まれ、しずしずと、家の墓地へと向かっていた。
 黒に身を包んで見送る人々は、彼女のために奏でられる、美しい琴の音を聞いたという。


前へ  表紙へ  次へ