◆42


 夏の間、使者たちは王の領地をくまなく駆け回り、いかなる隅々に住む者にも報せを届けた。あらゆる領地へ立ち寄り、かつてイオナに忠誠を誓った、ありとあらゆる人々に、イオナの宮廷に馳せ参じ、王の設ける宴に席を連ねるつもりがあるか否かを尋ねて周った。
 その祭りは、かつてイオナに栄光ありし時、数年ごとに行われていたものだったが、この国の喜びとともに絶えて久しく、人々は、諸侯が打ち揃って街道をイオナへ向かった時代のしきたりを、古い記憶から呼び起こさねばならなかった。ある者は、かつて数年に一度しか袖を通さなかった豪華な上着を長櫃の中から取り出し、埃を払って、つくろい直すよう仕立て屋に命じた。また、ある者は、長らく車を引くことを忘れ、運動不足に陥っていた馬たちを厩から追い出し、草原を駆けさせた。
 剣を帯びることを忘れていたものは、難儀して武具の着け方を思い出し、婦人たちは鏡に向かって、宮廷作法の優雅なお辞儀の仕方を、何度も練習した。
 すべて記憶は、人々の中で眠っていた。遥かなる過去とになり、眠ったままで息絶えようとしていたものが、今、再び息吹を得ようとしていた。
 宴の始まりは、かつてと同じく、聖誕祭の日と定められた。その日は、イオナから、ありとあらゆる人々が集まるはずであった。 だが、イオナの都は、陰鬱な灰色の町並みを変えておらず、王の居城なる青月城には、仮初めの栄光が掲げられたに過ぎぬ。人々はまた、そのことにも気づいていた。悪夢は終わってはおらず、この国を覆う深い霧は、いまだ晴れたわけではなかった。


 明るく短い夏が過ぎ、冬の足音が近づくにつれ、人々の胸にそれは重く圧し掛かり、暗い影を落とし、館から出ることを躊躇わせた。
 その年の秋はいつになく実りが良く、人々の気持ちにも僅かな余裕が生まれていたが、馬たちは重い脚を引きずり、領主たちとその従者たちは、晴れやかとは言いがたい表情で、半信半疑のまま宮廷へと向かっていた。
 スェウとグウィディオンも、館を後にした。
 スェウは、ダヴェドの宮廷で賜った深い青のマントを羽織り、グウィディオンは、ブランの館でスェウ自身が選んだ漆黒のローブを纏っていた。
 身を切るように風は冷たく、草には霜が降りていた。
 深い霧が、イオナ全体を覆っていた。それは海に近づくにつれ、次第に濃く、街に降り注ぐ朝の光は霞んで、目覚めているのかすら曖昧な光景を作り出していた。旅用の分厚い外套に身を包み、馬の走る速度で冷えぬよう、襟元や耳を覆った人々は、白い息を吐きながら町の中心を目指す。
 乾いた、冷たい敷石に馬たちの蹄の音が響く。
 続々と参内する諸侯たちのために、城門は広く開かれ、かつて見た浮浪者たちの姿は影も形も無かった。出迎えの者たちは忙しく走り回り、馬と荷を預かることに忙しかった。
 その中でも、美しい金の鬣持つ馬は、訪れる人々の目を、ひときわ引きつけた。そして、一体誰が、そのような立派な馬に乗って現れたのだろうと噂しあった。
 スェウは侍従たちの手を借りず、自ら身軽に鞍を飛び降り、くすんだ城壁を見上げた。かつて目にした時は何も見出すことの無かった城に、今は、自らの瞳を通して、海風の刻んだ幾多の年月と、数多の哀しみの記憶をはっきりと感じ取ることが出来た。
 彼がまだ若く、城壁を見上げたまま立ち止まっているのに気づいた一人の小姓が、どちらに行くべきかを知らぬのだと思い、近づいて囁いた。
 「まずは、マース公にご挨拶をなさいませ。入り口を入り、真っ直ぐに向かわれた先に広間がございます」
 「有難う。そのようにしよう」
小姓は、はっとしてスェウの顔を見た。その若者は、数年前の冬にこの城を訪れ、その小姓自身が手を引いて王妃に会わせた幼い子供によく似ていた。
 だが、彼に確かめるべく声を発する時間は与えられなかった。スェウは歩き出し、次の客が到着していたからだ。若い小姓は頭を振り、考えを振り払い、慌てて次の仕事にとりかかった。
 広間へ続く回廊は、人でごった返していた。真っ直ぐに顔を上げ、迷い無く歩むスェウから少し離れて、斜め後ろに、影のように付き従うマントの男がいた。

 イオナの王、マース公は、広間の奥にしつらえられた高座にあり、客たちの挨拶を受けていた。 最初に口を開いたのは、マース公だった。わずか数年のうちに髪にはさらに霜が降り、顔は、苦悩のために深い皺に覆われていた。
 妃ブランウェンの姿は無く、王の傍らには忠実なる家臣ブランとゴヴァンノン、その他の主要な人々が座していた。ヘドゥンも居た。だが、彼の表情は晴れず、視線は床に向けられたままであった。
 スェウが広間に入るなり、まずサウィルがその姿を見とめた。彼は声を上げ、両手を広げて席を立った。
 「これは、スェウ殿! 久方ぶりですな。」
人々の視線が集まった。ヘドゥンは、思索の夢から醒めたようになって顔を上げた。マース公の表情は分からなかったが。
 スェウが玉座の前に歩を進めた時、その後ろに従っていた男が、さっとフードを上げた。その人物を見るなり、かつての宮廷を知る人々の顔が見る間に青ざめた。
 「グウィディオン、呪われた男…」
 「生きていたのか。しかし、何故ここに…」
微かなざわめきを打ち消すように、スェウの凛とした声が、広間に響き立った。
 「ご機嫌麗しく、マース殿。お久しゅうございます」
少年は膝を折り、優雅に宮廷風の挨拶をして見せた。それはプイスの宮廷で身につけたものだった。
 「サウィル殿、ブラン殿、そして我が従兄弟なるヘドゥン殿にも、ご挨拶申し上げます。して、ブランウェン殿は、いずこにおられますか?」
 「妃は、ここにはおらぬ。体調が優れぬというのでな」
最初の驚きが過ぎ去った後、マース公は、ひとつ息を継いで、こう言った。
 「驚いた。僅かの内に、これほど成長していようとは。かつて、わしと王妃がともに見た黄金の鷲の幻は、やはり、そなたであったに違いない」
スェウは微笑み、その場をグウィディオンに譲った。鋭い目を持つ大男は、立ったまま高座を見据えたが、そのため王の側に控えていた小姓は、危うく、手にした高価な瑠璃杯を取り落とすところだった。
 マースは僅かに椅子から身を乗り出し、まじまじと、甥の姿を見つめた。
 「やはり、生きていたのか。グウィディオンよ」
 「息子に救われたのです。だが、この場でそのことを責めるつもりはございませぬ」
先ほどのスェウの声が天上より降り注ぐものであったなら、この、低く、太い声は、地の底より響き渡るものであろう。
 グウィディオンは静まり返った広間を見渡し、腹の底まで響き渡るような声で呼ばわった。
 「イオナに刃を向ける者、エレリの郎党は、この場におるか? ヘッフドゥン! 貴様は来ているのか」
誰も、答えようとはしない。先ほどまでざわめきたっていた人々は死んだように静まりかえり、血の気の失せた顔で視線を彷徨わせるばかり。
 「此処に参内してはおらぬ、ということは、イオナに従うつもりは無いということか。やはりな。」
 「何を――、グウィディオン。」
 「亡きイヴァルドとの誓いを果たすべき時が来たのです。」
男は、はっきりと、高座を見上げてその名を口にした。
 それは過ぎ去りし栄光の象徴、失われた最後の王の名、この十年、口にすることも憚られ、人々の舌を麻痺させてきた言葉であった。響きは楔となって耳から入り、心の奥底にある、思い出を隠した櫃に打ち込まれた。哀しみの記憶を溢れ出させ、忘却の眠りを押しのけ、癒されぬ胸の傷を開かせた。
 「我が剣は、イオナの敵となるものに向けられる。マース殿、このような茶番は時間の無駄。戦の準備をこそ、すべきなのです。エレリは叛意を示し、イオナに弓引く構え。義務で参内する者など必要ない。イオナのために命をかけ、共に戦いに赴く気のある者だけを選別なさるがよい。」
どこからとなく、声が飛んだ――
 「だが、リドランもまた叛意を持っているのではないか?」
荒々しく人ごみを割って姿を表したのは、堂々たる体躯の男だった。
 「これは、これは。イオナ諸侯の一人、王の片腕なるイダウク殿。」
と、王の側に控えるサウィルが、小さな声で呟いた。
 「王は騙されておいでなのです。リドランはエレリに武器を売り続け、莫大な富を蓄えた。いくばくかの武器を差し出したところで、その何倍もの武器がエレリと、そしてリドランに在る。贈り物に騙されてはなりません。そのような安い品で心動かされるのは王たる者の恥です。忠義を誓うふりをして、背後から刺し貫くつもりでしょう。」
大衆の面前で指をさして罵倒され、とヘドゥンの顔が赤くなった。
 「私は、そのような不埒者ではない!」
 「現にそなたの弟は、エレリと手を結んだではないか」
 「そうだ。だが、愚かな弟は、兄弟の絆を断ち切り、私に恥をかかせたばかりか、自らの民と領地、肉親までも傷つけて逃げたのだ。なにゆえに、貴殿は私を不当に非難されるのか!」
 「落ち着かれよ。そのように叫ばれるものではない」
ブランは、いきり立つ若者の肩に手を伸ばし、押し宥めようとする。
 グウィディオンは、ちらりとマース公の表情を見、それから、イダウクと、人々の怯えたような顔とを見やると、低い声で吐き捨てるように言った。
 「ここには、疑いと、妄執ばかりが渦巻いておる。ゆえに霧は晴れず、この国は呪われたままなのだ。」
 「何を言うか、呪われた男め。そなたが元凶ではないのか」
 「そうとも、この国から栄光を奪ったのも、元はといえば…」
 「他人の所為にするのですか?」
スェウは、振り返って声を上げた。澄んだ青い瞳の表面は静かな湖面のようでありながら、その奥に激しさを沸き立たせている。
 「今、声を上げられた方たちに問う。貴方がたは何をされたのか。いかなる呪いであろうとも、屈するは己自身の弱さ。栄光とともに誇りまで失われたか? 王亡き後、戦の爪痕の残されたこの国に栄光を取り戻すべく、いかなる努力をされたのか。答えられよ!」
静けさが落ちる。予想していなかった人物の声に、誰一人として、言葉を返す者はいない。
 ややあって、広間の端から、陽気な声が響いた。
 「若いのに、堂々とした口を利く。見覚えがあるような気もするが、会った記憶は無い。さて、そなたは何者か」
それは、壮年に達した黒い髭の男で、錆びた色をしたチョッキを纏い、テーブルの端に座って、のんびりとパイプの煙をくゆらせていた。
 「長、テイルノン殿。来ておられたのか」
サウィルが、ほっとしたような顔で言った。
 「その方は、ケルニュウにある十二支族のひとつを統べる長、テイルノン・トゥリヴ・ヴリアント。そしてテイルノン殿、こちらは、グウィディオン殿の息子、スェウ殿である」
広間にざわめきが起こった。美しく、祝福された姿をした少年と、暗く、不吉な影を背負う男とでは、あまりに雰囲気が違っていた。何より、その男に息子がいること自体、多くの人々には信じがたいことだった。かつてエレン姫が為しえなかったこと、一体いかなる女人が、呪われた男に、このような麗しい果実を授けることが出来たのか、と、心ひそかに思う者も少なからず、居た。
 黒髭の男、テイルノンは、人々の同様も気にかけた様子なく、陽気に笑っている。
 「成る程。父の名誉が傷つけられれば、その息子が口を開くは当然のこと。」
そして、イダウクのほうへ向き直って、言った。
 「かの者、見たところ風体は優しげだが、その爪は決して飾りではあるまいよ。振り上げた腕に打たれぬよう、気を付けられよ。」
 「私が、あのような子供に負けると仰るか」
 「ムキにならずとも良い。それより、マース殿――」
穏やかに、だがしかし横槍を許さぬ断固とした口調で、彼は言った。
 「疑心暗鬼にかられ、身内を疑えば、いかなる強固な砦も内より崩れる。まして今は、砦すら無いのです。何よりも信頼が求められる。グウィディオン殿の言われたことは正しいでしょう。エレリは兵力を蓄えつつあり、ケルニュウにある支族の幾つかもまた、エレリについて、独立を図ることを画策している。ここに我らを呼び寄せたるは、忠誠を確かめ、古えよりの誓約に基づてい、イオナのために命をかけ、共に戦いに赴く気はあるか否か、尋ねるためでありましょう」
さきのイダウクは、ふんと鼻を鳴らし、首を振った。
 「我が領地は不作続きゆえ、兵糧の余裕はなく、領地を守る以外の兵は雇っておらぬ。リドランと違ってな。すぐにと言われても」
また、別の領主が言う。
 「そうです。民は苦しんでおります。この上、兵役など課せるはずもございません」
 「貴殿らの本心か、それが。成る程、この国はまこと、誇りすらも失ってしまったようだな。」
テイルノンは、パイプを置いて人々を睨んだ。彼の声は、いささかの澱みなく、宣教師の演説のように広間に響き渡る。
 「聞け、兵糧はいらぬ、民に兵役を課す必要は無い。一人分の余裕なら問題なかろう。そなたら自らが、単身でも参加すればよいのだ。」
 「なんと仰せられるか」
 「申したとおりよ、その意味が分からぬのであれば、そなたらは赤子も同然。命をかけた忠義とは、今言ったこと以外に何を以って証明できる? まさか、兵を盾に自らは後方で采配だけを振るって戦を成したと胸を張るおつもりかな?」
 「もとより俺には領地はなく、付き従う兵もおらぬ」
グウィディオンは自らの大剣を床に付き立て、周囲を見回した。
 「いざとなれば、この身ひとつ、剣一本で戦おう。ルヴァインの軍勢に対峙した、かの時のようにな。たとえ我が甥であろうとも、イオナに刃を向ける者に容赦はせぬ。」
 「それが、本心か。グウィディオンよ、そなたは宮廷への復権を求めるか」
 「否。すべては我が友、イヴァルドとの誓いのため。イオナの玉座に忠誠を誓いはしても、"貴殿個人に"剣を捧げるつもりはございませぬ」
ざわめきが、再び沸き起こった。やはり信用ならぬといった顔をする者もおれば、納得する者もいた。
 テイルノンは、からからと声を上げて笑い、膝を叩いた。
 「やはりな。この男は、かような人物だ、マース殿。後ろ暗いはかりごととは無縁の者だ。ただ真っ直ぐな忠義のみによって生きておる」
北の果てなるイストラドの領主、グロヌウ・ペビルは、陰鬱な表情で呟いた。
 「だが、それ故に、いつ我らに剣を向けんとも限らぬ。人が恐れるのも無理は無い」
人々はざわめいた。グウィディオンの射るような眼差しの前で、ひときわ高い場所にあるはずのマース公の姿は小さく、貝のような口をつぐんだまま、返すべき言葉を失っているかのように見えた。
 「明日――」
ようやく口を開いたのは、サウィルであった。
 「再びここに集まられよ、諸兄。公は、その時に結論を下される。今宵は、聖誕祭。その一夜を、存分に愉しまれるが宜しかろう。」
その一言で、凍りついていた緊張が解かれ、人々はほっとしたように互いの顔を見つめあった。楽師たちが呼ばれ、楽しげな音楽が奏でられ始めた。
 グウィディオンは、最後にもう一度だけ高座に鋭い一瞥を投げ、ローブを翻して、賑やかな広間を出て行った。誰も、その後を追う者はいなかった。


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