◆40


 山のふもとの村々はすでに空っぽで、人の住んでいる気配も無かった。木々は焼け焦げたようになり、大地はあちこちが捲れあがり、大きな岩さえ砕かれて、何かが暴れまわったような痕が残されている。獣たちはみな逃げてしまったらしく、鳥の姿も、虫一匹さえ、どこにも見当たらなかった。
 青い石がひとつ、山のふもとに在った。その石は柱のように立っており、すぐに見つかった。そこから細くうねった道が続く。並の馬なら足を踏み外してしまうだろう狭い道、だが、金の鬣もつその馬は、難なく険しい道を駆け抜けた。深い森の木々は重い病に取りつかれたように葉を落とし、立ったまま死にかけていた。滝の水は濁り、魚たちが白い腹を見せている。

 やがて、目指す洞窟が見えてきた。――それは思っていた以上に小さく、苔生した岩で隠されるようにして、ぽっかりと、大地に穴を開けていた。
 スェウは馬を降り、洞窟の傍らに身を潜めた。やがて森に濃い影が落ち始め、月が、地平から顔を出した。
 すると、見よ、洞窟の入り口が淡く青い燐光を放ち始めた。大地が奥深くから震え始め、この世のものとは思えぬ、低いうなり声が響き渡った。
 青い竜が巣穴から顔を出し、鼻から火を噴くと、木々は震え上がり葉を落とした。草は焦げ、いやなにおいが辺りに漂った。
 スェウは、弓を握ったまま、いつでも逃げられるよう身構えた。だが、竜はそこに隠れているものに気づかない。翼を広げると、その夜の獲物を物色するため、飛び立って行ってしまった。
 それを見届けた後、スェウは、そっと洞窟の中を覗き込んだ。山のふもとに住む、あばら屋の女主人の話では、竜はもう一匹いるはずなのだ。手探りで火を起こし、洞窟の中を覗き込むと、穴の奥深くから微かなうめき声が聞こえた。
 用心深く穴の奥に身を乗り出したとき、白い靄が足元を包んだ。急激な眩暈に襲われ、スェウは慌てて身を引いた。火を取り落としかけたほどだ。
 よく見ると、穴の中は一面に真っ白な霧がわだかまっていた。岩と岩の間から噴出す瘴気が、眠りの霧となって竜の巣穴を包んでいるのだった。
 スェウは女主人のくれたピンを服に結わえつけ、もしも眠りが襲ってきたら、いつでも服の上から痛みを感じられるようにした。そして、万が一に備え、自分の腰とヌウィブレの鞍とを縄で結んだ。何かあったとき、外で待つヌウィブレに引き上げて貰うためだ。
 この準備を終えると、彼は口にたいまつを咥え、穴に滑り降りた。一度降りたら、自分の力だけでよじ登るのは困難と思われるほど、中は、広く、そして深かった。時折、波のように眩暈が襲ってきたが、女主人のくれたピンが肌を刺し、痛みが眠気を退けてくれた。だが、それでも眠気は波のように襲ってくる。一歩進むごとに瞼は重くなり、身体は思うように動かなくなっていった。
 奥にゆくほど霧は濃く、そこかしこに、竜の引っかいた痕が残されていた。

 そして、苦心してたどり着いた竜の寝床に、スェウはようやく、うめき声の正体を見出した。その正体とは、足と腕を焼かれ、ひどい傷で横たわる一人の男だった。傍らには立派な盾と剣が落ちており、彼が竜退治に来た男だということを裏付けていた。
 スェウは男を何度も揺さぶったが、眠りの霧のせいで、男の瞼をこじ開けることは難しかった。そこで、外からヌウィブレに縄を引かせ、男を外に引き上げることにした。
 それでも、二人が外に出るには夜明け近くまでかかった。ようやく男を洞窟の外へ運び出した時、はや月は西へ傾き、星々とともに、帰り支度を整えていた。

 スェウは、洞窟から離れた場所に傷ついた男を横たえ、傷口に、あばら屋の女主人に貰った薬草を揉んで当てた。粗末な包みに入っていたのは草団子で、それを口に含ませると、真っ青だった男の顔に、ほんのりと血の気が戻ってきた。
 髭は黒く、腕は太く、どこかグウィディオンを思わせる屈強な男だったが、まだ若く、その顔には、真っ直ぐに突き進むような意志の強さが刻まれていた。
 その屈強な意志と体が、彼の命を永らえさせたのだ。
 介抱によって意識を取り戻した男は、スェウを見、白んだ空を見、それから、再びスェウに目を移した。
 「ここは。お前は誰だ。何をしに来た」
 「竜の巣の外です。そして、あなたの目に見えるものが、私の名です」
スェウは、男の肩の下に手を入れ、体を起こさせ、東を向かせた。ちょうど空が白みかけ、地平線に、陽が昇ろうとしているところだった。
 「…光が見える」
男は呟き、何日も闇の中に閉じ込められた恐怖を思い起こして身を震わせた。
 そのとき、空の彼方から羽ばたきが聞こえ、洞窟の主が、巣穴に戻ってくるのが見えた。
 とたんに男は、夢から醒めたようにかっと目を見開き、剣を探して手を辺りに彷徨わせた。
 「見ろ、奴だ。あの忌まわしい青い竜が戻ってきた。奴を生かしておけば――、」
 「その傷で動くのは無理です」
スェウは静かに言い、男を宥めた。剣と盾も持ち出してあったが、それは男を戦わせるためではなかった。
 「私は名乗り、あなたは呼びました。今度はあなたの名を教えていただけますか」
 「何? 余は、まだ何も――」
言いかけて、男は気がついた。
 「…いや、光<スェウ>というのが、お前の名か。」
 「いかにも、そうです。」
 「なるほど、そうであったか。余は、アベルフラウの領主ゴヴァンノンだ」
もはや眠りの霧の束縛を完全に逃れた男は、威厳を取り戻し、堂々とした声で言った。
 巣穴の中から、竜の怒りの声が響き渡る。何者かが、留守のうちに巣穴に忍び込み、取っておいた上等な獲物を盗み出したことに気づいたからだ。
 「聞いたか。奴は怒り狂っておる。今宵は、いつもより多くの場所で暴れまわるだろう。」
 「その前に、止めるのです。」
スェウが落ち着いた顔であっさりと言ったので、ゴヴァンノンは、やや訝しげな顔をした。
 「誰がやるというのだ。そなたがか。そなたは見たところ戦士ではなく、しかも、一人ではないか」
 「方法はあります、ゴヴァンノン殿。あの巣穴の中に、白い竜はいませんでしたか」
男はますます顔を顰めた。
 「そのようなものを見た覚えは無い。悪魔は一匹だけだ。白い竜とは、何のことだ?」
 「かつては二匹いたのです。青と白の竜は、スィッズ王の手によって、ともに大地に隠されたと聞きます。ここに居ないのなら、もう一匹の竜を探さねば。あるいは、それが助けになるはずです」
 「一匹でさえ手に負えぬというのに、もう一匹とは!」
ゴヴァンノンは嘆くような声を上げたが、しかし、スェウには興味を持ったようだった。
 「だがしかし、そなたのような物怖じせぬ若者は初めて見る。スェウと申したな、そなたは、何か策を持っておるのか」
 「ええ。ですが、夜までしばしの時間があります。ここでゆっくりお休みください。」
そう言い残し、スェウは、馬と荷をその場に残して、弓だけを手に、一人で森に入っていった。


 少年の足取りは軽く、飛ぶように早かった。そして、その耳は、かすかな小川のせせらぎを捉えていた。その川べりに、白い、すべすべとした大きな岩があり、そこから細い道が続いていた。
 程なくして、彼の前に大きな灰色の狼が二匹、飛び出してきた。彼らはスェウを襲うそぶりは見せず、いざなうように、彼を振り返りながら少し先を走った。スェウはそれに従った。険しい山道だったが、彼は息も切らさず走り続けた。
 やがて、行く手に半分だけ開かれた岩扉が現れた。一目ではそれと分からず、よくよく見れば分かるような、小さな扉だった。そして扉のすぐ脇に、薄汚れたケープを纏った女が待っていた。
 狼たちは、女に駆け寄り、嬉しそうに尾を振り、舌を出して手を舐めた。
 それは、かつて宿を求めたあばら屋の女主人だった。スェウは、大切にしまっていたピンを取り出し、女の手に返した。
 「ありがとうございました、これのお陰で助かりました。」
 「役に立ったようね。でも、あの薬草を自分で使わなかったのは賢く無いこと。」
スェウの手足は、狭い竜の巣穴を歩き回ったせいで擦り傷だらけになり、鋭いピンで何度も突いたため、白くすべらかな肌が破れて、痛ましいほど、どす黒くなっていた。
 「お前のために用意してあげたのよ、かわいい坊や。」
 「あの人を死なせるわけには行かなかったでしょう。」
スェウが答えると、女はうっすらと微笑み、髪を掻き揚げた。
 「あの暴れ者を大人しくさせてくれるのなら、あんたでも、あの傲慢な男でもどちらでも良いのよ。あたしたちは、食べ物の豊富なこの森が無ければ生きてゆけないからね。それが、どう。今では獣たちは怯えて逃げ、水は濁り、木々は枯れかけている。ひどいありさま」
 女は受け取ったピンで髪を丁寧に纏め直した。その間、狼たちは彼女の足元に座り、じっと、その手元を見つめていた。
 「ゴヴァンノン殿にも、道を教えたのですね?」
 「そうよ。だけど、あの男は汚いといって、あたしの家では寝なかったし、卑しいものと言って、あたしの用意した食事には手をつけなかった。愚かな男ね、あの薬湯を飲んでおけば、竜の吐く炎を浴びても、火傷をすることは無かったのに」
それで、スェウは、この女性が魔女なのだということを知った。だが、その口調は滅せられるべき悪しき魔女たちのように残酷ではなかった。
 森の女主人は音も無く立ち上がり、扉の前に立った。
 「竜というものは、大人しく眠っている間は国の守護者だけれど、ひとたび目覚めれば国を滅ぼす大いなる災い。殺せばその土地には強い呪いがかかり、流れ出した血は大地と水を汚すでしょう。最も強い呪いでさえ、時間が経てば効かなくなる生き物ですからね。もう、眠らせることも適わないと思いますよ」
スェウは空を見上げた。日はまだ高い。夕暮れには、時間がある。
 「あたしに助けてあげられるのは、ここまで」
スェウが視線を戻した時、狼を従えた女の姿はその場から消えていた。


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