◆4


 静まり返った月の夜、冷たい石の牢の奥に、影のようにグウィディオンはひっそりと横たわっていた。
 ひどく打ち据えられた背中は腫れて、石の冷たさが逆に心地よい。
 眠れないほどの冷たさではない。これよりひどい場所でも、何度も夜を過ごしてきた。けれどなぜか、ここ数日は、目が冴えて眠れない。

 預かって来ただけの子供なら、あの領主の貴族の息子になれば、何の苦労もなく、立派な教育を受けさせて貰えることは分かっていたが、どうしても、受け入れることが出来なかった。
 あの子供が、普通の子ではないと知られて、捨てられるのが怖いのもある。
 生みの母である娘との約束を破りたくないのもある。
 しかし、それだけではなく…、スェウを成長させなければならないことを、知っていた。
 必要なのは愛情だけではない。生きる意味、そう、この世に生きるということの意味だ。赤子から少年の姿になったスェウは、何も知らない赤子のうちに覚える、感情というものを知らない。笑うことも、泣くことも、むずかることも出来ない。
 心が無いのではない、と、グウィディオンは思った。
 言葉もなく、本能のように自分を求めてきた視線が、それを物語っている。
 喜びと悲しみの区別さえ、まだ知らない。おそらく、善悪の区別さえも。心が、まだ、芽を葺いていないだけのこと。
 そんな目を、彼は、戦場で幾度も見たことがあった。長き戦の時代に生まれた少年たちは、歩けるようになった時から武器を手に、敵軍を打ち破り、より多くの血を流すことだけを教えられ、心無きままに成長していく。それは、今も胸に深く突き刺さる、過ぎ去りし時の忘れがたい記憶と、鋭い刺。

 小さな物音に気がついて、起き上がったグウィディオンは、暗がりに白く浮かび上がる、小さな子供の姿に驚いて、思わず声を上げそうになった。
 一瞬、幻かと思ったのだ。
 「スェウ、どうしてこんなところに居る」
 「……。」
子供は、鉄格子の前に立って、じっとグウィディオンを見下ろしていた。グウィディオンは体を起こして格子の間から腕を伸ばし、少年の、細い肩を抱いた。
 少年は、しばらくもじもじするように口元をうごかしていたが、やがて、思い切ったように、ひとつ言葉を紡ぎ出した。
 「いっしょに、いてもいい?」
グウィディオンは、吃驚してまじまじと子供の顔を見た。
 「いま、喋ったのはお前か?」
 「……。」
 「スェウ、喋れるようになったのか? お前」
以前は何の表情も読み取れなかった青い瞳は、今は、何かを訴えかけるように彼を見つめている。
 それは、離れ離れの場所に眠ったとき向けられていた、あの視線と同じだった。
 「そうか。寂しかったのか。    すまなかったな。」
グウィディオンは、格子ごしに自分の上着を子供の肩にかけてやった。手を握ってやると、子供は、ようやく安心したように目を閉じる。
 格子にもたれたまま、グウィディオンは朝を待った。朝になれば、もう一度、領主に話をつけにいこう。そして、どうにかして、この子供を返してもらえるよう説得しなければと思っていた。
 この子供を、本当の息子のように思いだしている自分に、気がついたのだ。


 朝になり、子供が部屋にいないと大騒ぎだった館の中は、その子が地下牢で見つかったとあって、さらに騒然となった。
 子供は、牢屋の前で眠っていた。夫人は、気が狂わんばかりに泣き叫んでこう言った。
 「あんなに良くしてやったのに、あの子は、なんて恩知らずなんでしょう!」
領主は、苦い顔をして、妻のヒステリックな叫びを聞いていた。
 父親から無理やり子供を奪っておいて、自分の子供に出来るほど、親と子の関係を簡単に考えていた自分たちが、滑稽に思えたからだ。
 グウィディオンは再び、領主夫妻の前に引き出された。スェウは夫人の側で、じっとそれを見つめていた。
 「この子は、自分から牢へ行ったというの?」
涙で目じりを赤くした夫人は、まるで仇敵でも見るように、グウィディオンを睨みつけた。
 「この子に、着るものも食べるものも満足に与えないお前が、父親に相応しいというの?」
 「誰が何と言おうと、スェウは俺の子だ。俺には、あんたたちのように物を与えることは出来ないが…、その子が欲しがるものは与えてやれる」
 「まあ!」
夫人の顔は、侮辱されたかのように真っ赤になって、今にも破裂しそうになった。
 「すぐに出て行きなさい。この町から。二度と顔も見たくない!」
 「もちろんそのつもりだ。だが、その子がどこに行くのかは、自分で決めさせればいい。」
グウィディオンは、夫人の傍らに立つ子供のほうを向いて、問うた。
 「スェウ、お前はどっちがいい。俺と一緒に来るか。それとも、ここに残るか?」

 そのとき、スェウは、はっきりと口を開いて、答えた。
 澄んだ鈴の音のような声は、一瞬、その場にいた者の口からこぼれ出る、すべての騒音をかき消した。

 「おとうさん…と、いっしょにいく。」

この館で暮らしていた間に、スェウが覚えた言葉が、それだった。
 夫人が何度も何度も、繰り返しこの子供に教えた言葉。しかし彼女があれほど請うても口にはしなかった言葉の意味を、子供は、ようやく理解し、言うべき相手を見つけたのだった。
 子供の口から語られた、その言葉は、小鳥のさえずりのように耳に心地よく、誰も聞いたことがないほど、美しく広間に響いた。
 ただひとり、青ざめてわなわなと震える婦人の肩に手をやって、領主は、スェウを見た。
 「諦めなさい。」
広間をあとにする二人の後姿を食い入るように見つめる夫人に向かって、領主は、諭すようにそう言った。
 「親になったことのない者には、分からないのだ。子供が何を考え、何を欲しがっているのかは」
 スェウは、町を出るまで、自分からグウィディオンの腕にしがみついて、離れようとはしなかった。それはまるで、もう二度と引き離されたくないと言っているようだった。

 見た目は成長していても、子供は、人としては、まだ赤ん坊と同じだった。
 体だけは獣たちと同じように成長しても、経験的な知識は、誰かに教えられなければ知りえない。ましてや言葉や人としての感情など、人の子と同じ速さで成長するしかない。
 子供はようやく、闇に怯えることを知り、自分と他人とを区別し、保護してくれる者が誰なのかを覚えたばかりだった。
 誰に言うとでもなく、グウィディオンは呟いた。
 「この子には、俺が教えてやろう。人として生きるには、どうすればいいのかを」
彼はそれが、自分の使命だと思った。
 どういう運命の女神の引き合わせで、自分がこの子供を育てることになったのかは分からない。だが、それは
何か意味のあることなのかもしれない…と。


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