◆39


 夏の初めまで、スェウは、領内をくまなく歩き回った。そこは豊かな土地で、畑には緑が茂り、牧草地には丸々とした牛と逞しい馬たちがおり、人々は慎ましくい生活をしていた。新たな若い領主は彼らの言葉に耳を傾け、親しく語り、その悩み事を片付けた。
 また、領地の端を通る街道に盗賊が出ると聞き、村の若者何人かを連れて出かけ、丘の上から、矢で盗賊たちの長の手足を射抜き、動けなくした後で、全てのならず者を捕らえた。捕らえられた者たちは牢に入れたが、殺しはしなかった。彼は寛大なところを見せ、彼らに、家と畑を与えるかわりに、人から奪うこと無きよう、申し付けたのだった。
 人々は、彼の統治に満足した。

 この頃、イオナの大半の地方では、酷い不作が何年も続いていた。
 人々は、実りをつけることの無くなった土地を棄て、大きな町に移り住むか、まっとうではない仕事に就くしか無かったのである。
 スェウは、そんな行き詰まった人々に惜しみなく土地を与えたが、その土地にも限りがあった。森と山とを開拓し、新たな畑や牧草地を得る必要があった。
 ディノディグの北、アベルフラウとの境には、まだ手付かずの古い森と、そこに在ることすら忘れられてしまったような、小さな村々があるという話だった。冷たい高峰の西側、海に面して比較的、暖かなその土地を切り拓けば、飢える人々を救うことが出来るかも知れない。
 そこに行き、どの程度の土地があり、どのくらいの人が住んでいるのかを知りたいと思い立ったスェウは、そのことをグウィディオンに告げた。

 この頃、彼は館に身を潜め、なるべく人前に姿を現さぬようにしていた。そうして、館の古ぼけた書斎で、本を読んで、静かに過ごしていた。
 いつもなら何も言わずに頷くだけのグウィディオンだったが、その時に限って眉をひそめた。何か気がかりなことがあるようだった。
 だが、この男の常として、思っていることのほとんどは、言葉にしては出さなかった。召使いたちに命じる時さえ、口にせず、目つきと、最低限の身振りだけなのだ。
 それが彼らしさというもので、本当の働き者は自分のすべきことを良く分かっていて、わざわざ言わずとも、それぞれ役目を果たすものだ、というのが、主義なのであった。
 「もうじき、夏至だな」
と、グウィディオンは言った。
 丘をひとつ越えた、領主ブランの館からは、夏至に合わせてイオナの王のもとに参内するという話が聞こえて来ていた。逃亡したリドランの兄弟の一人、ヘッフドゥンの行方は分からず、エレリに逃げ帰ったアムレンの動向も知れない。夏は真っ盛り、いつ再び戦が始まっても、おかしくは無かった。
 北の地、イストラドの領主、グロヌウ・ペビルがそうであるように、グウィディオンもまた、未来に起こるべきことの幾ばくかを、ちらつくような刹那の時の中に、読み取ることが出来たのだ。
 「夏至を過ぎる頃には戻ります」
 「それがいいだろう。行くのなら、一つ、覚えておくがよい。もしアベルフラウの領主、ゴヴァンノンと出会うことがあるならば、その友情を勝ち得ておくが良い。彼は、生まれながらにして祝福された男なのだ」
 「分かりました。」
グウィディオンの教えが役に立たなかったことは無かった。スェウは、それを心に留め置くことにした。

 数日かけて、彼は街道を走った。
 途中、子供や老人を連れた、家族らしい集団と何組か出会った。彼らは荷台に家具を乗せ、重い足取りでディノディグに戻ろうとしているところだった。
 スェウは馬を止め、過ぎ行く一人の男にたずねた。
 「何処へ行かれるのです? どうして、そのように暗い顔をしておいでなのです」
 「エレリが攻めてきたのでアベルフラウへ逃げたのだが、やはり故郷が心配になったのだ。元いた場所に戻るのだよ」
それを聞いて、スェウは言った。
 「どうか皆さん、安心して元いた場所にお戻りください。エレリの兵は一人残らずディノディグから去り、かの地には、今や平和が戻っています」
 「それはまことですか」
俯いて足を引きずりながら歩いていた一人の老女が、顔を上げ、聞き返した。
 「まことのことです。ブランの花は好ましき相手を夫に選び、霧を払う黒い剣がその傍らに控えています。踏み荒らされた家と畑も、ひと夏あれば元に戻るでしょう」
 「おお、良い便りをありがとう、旅の人。それでは、わしらも安心して帰ることが出来る」
 「だが、それならどうして、あんたはアベルフラウへ行くのかね」
最初の男が言った。
 「あちらは、今、良くないことばかりだ。」
 「それは、どういったことです?」
 「エスカイル・オイルヴェルの悪魔が降りてきたのだ。村という村は呪いにかけられ、森も大地も、死んだようになっている。アベルフラウの領主、ゴヴァンノン様が討伐に向かわれたそうだが、帰って来たのは傷ついた猟犬一匹だけ。いまだ、ご無事の報せは無い」
スェウは、形のよい眉をひそめた。そのような悪魔が暴れまわっているとは、これほど近くに居ながら聞いた事が無かったのだ。
 「いつごろのことです、その悪魔が現れたというのは。そして、ゴウァンノン殿が討伐に向かわれたのは」
 「十日ほど前のこと。そして、ゴヴァンノン様が消息を絶たれてから、はや五日になる」
それを聞くと、彼は人々に別れを告げ、すぐさま山に向かって馬を駆った。
 青く連なる高峰は、ほとんど人を寄せ付けぬ、険しく切り立った場所。馴れた猟師たちでさえ、滅多に近づくことがない。

 「その悪魔とは、はるか昔、この島の中心に埋められた竜なのです」
スェウが一夜の宿を求めた、あばら屋の女主人は、こう話した。
 「イオナには、青と白の竜がおります。二匹は兄弟ですが、戦いを好み、互いの尾を咥えるまでは毎晩でも戦い続けます。二匹が戦うと大地はふるえ、空気はうなり、あらゆる家と木々は倒れ、病人は息をつまらせ、妊婦は腹の中の子を死なせてしまいます。それで、何代も前のイオナの王スィッズは、竜たちに酒を飲ませ、二匹をそれぞれ山の奥深くに埋めてしまったのです。」
 「なるほど、それでイオナの旗の色は青と白なのですね。でも、二匹はどうして戦い続けるのでしょうか」
 「それは人にも言えること」
女主人は笑った。
 「なぜ人は争い続けるのでしょうか。竜は人よりはるかに寿命が長いから、長い間争っていように見えるだけ。人とて一生の大半を戦いに過ごす者はいますでしょう」
 「そうかもしれません。」
スェウは、頷いて女主人の持て成した夕餉をいただいた。質素なものだったが、それまで彼が多くを過ごして来た野の食事と比べて、劣るものとは思えなかった。
 女主人は、身なりのよい若者が、ろくに味つけもされていない草ばかりの食べものを残さず平らげるのを、面白そうに眺めていた。彼女はずいぶんと老けて見えたが、実際はまだ若く、寡婦のように見えた。周りに何も無いあばら屋での女ひとりの暮らしが、楽であるとは思えなかったが。
 「あんたのような方が、こんな粗末な家に来られて、こんなものを旨そうに食べるとは思いもよりませんでしたよ」
 「あなたこそ、どうしてここに?」
女は鍋をかき回しながら、火に視線を落として言った。
 「人が嫌いなのです。ただ、それだけ。あんたが訪ねて来た時は、最初、"森のよき人"に見えたのよ。」
それは深い森に住む、精霊や、妖精の類をさす言葉だった。スェウには、この女こそ、人ではないものの血を引いているように見えたのだが。
 そして、どこかで会ったことがあるような不思議な感じがした。
 「その竜には、どこに行けば会えるのでしょう」
スェウが尋ねると、女主人はさっと顔を上げ、眉をしかめた。
 「お止め、あんたもゴヴァンノンと同じ目に遭いますよ。人の手で、竜に立ち向かうことなど出来ないのだから」
 「戦って打ち倒すだけが方法ではないでしょう。教えてください。この山の何処に行けば竜のねぐらがあるのか、あなたなら、分かるのではないですか?」
女は口を閉ざし、しばし、スェウを見つめた。鋭い野生の青い目は、暗闇に潜む獣のものと同じだった。
 「…ここから真っ直ぐに、北東へ。そこに青い岩があるから、左へ曲がって、細い山道を崖に沿って登りなさい。滝を渡って、その先の洞窟の脇に身を伏せておいでなさい。月が昇る頃、竜は目を覚まし、飛び出してくるでしょう」
 薬草の匂いが部屋中にたちこめていた。
 女主人はため息をつき、白と灰色の交じり合う長い髪を止めていた金のピンをひとつ、はずした。解けた髪が落ち、その長さは、腰まであった。
 女はピンを渡しながら、スェウに言った。
 「もしも竜の棲む洞窟に霧が立ち込めていたら、これをお使いなさい。決して眠ってはいけません」
スェウは礼を言い、その夜は火の側にしつらえた床に横になって休んだ。硬い床の上だったが、彼は苦労することなく眠ったのだった。

 朝になり、目覚めてみると、女主人の姿はあばら屋から消えていた。日が昇る前に食べ物を探しに出かけてしまったようだったらしく、炉の火は既に消え、灰も固まり始めている。床の枕元に、粗末な包みと薬草が一束、置かれていた。
 スェウはそれらを懐に入れ、女主人に別れを言わぬまま、旅を続けた。

 夏至の日は、明日に迫っていた。

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