◆38



 エッセネから森を越えてミル・カスティスへ向かう道は、森をひとつ越えるだけ。彼らの馬ならば、何時間もかからぬほどの距離にあった。
 スェウは、金の泊め具をつけた立派なコルドヴァ革の靴を履いていた。馬には、乗り手たちに相応しい馬具がつけられ、彼らはどこから見ても堂々として、王の近侍か、彼ら自身が王のようだった。その通り道では風が噂を運び、人々の耳が、この地に新たに現れた土地の管理者と、その傍らに馬を進める者の名を捕らえた。その名は忌まわしくもあり、同時に、力強くもあった。
 年老いた者は遠い記憶を呼び覚まし、懐かしみを覚えたことだろう。
 こうして、輝く王を失った日を境に、それより昔を回顧しなくなっていた人々は、今では現実に在ったこととは思えなくなった栄光の日々を、その胸の明るい場所に蘇らせることが出来たのだった。
 だがそれは、忘却の揺り篭に抱かれていた人々に、哀しみの記憶を冷たい切っ先のように胸に突きつけるということでもあった。眠ったまま皆等しく冷たくなることと、目覚めて恐怖のうちに生と死を与えられることの、どちらが本当に幸せであったのかは、今となっては分からない。

 「ヘドゥンに、イオナの王への忠誠を口にさせたのはお前なのだろう、スェウ」
馬を駆りながら、グウィディオンは言った。
 「俺が到着する前に。そうすれば殺さぬと思ってのことだろう。」
 「たとえ彼らが、伯父殺しを企んだ罪を既に持っていても、甥殺しは大罪です。」
スェウも同じ速度で馬を駆りながら、答える。
 「何より、彼があの場で斬り殺されれば、ラスティエンは癒えることのない哀しみを抱いたでしょう。花婿の腕に一度も抱かれることなく寡婦となる乙女ほど、哀れなものはありません。」
 「なるほど。…お前の言う通りだな。」
そう言って、それきり男は口を閉ざした。

 丘に上りきったとき、グウィディオンは馬を止め、西の海に向けて広がる平原に顔を向けた。
 黄色く、泡立つようなバナディルの花が野原一面に咲き誇り、道に枝を垂れている。幾つもの丘を越えた視線の先、海に向けて突き出す一段高くなった場所に、かすかに、石で作られた建物のようなものが見えた。
 「あの石づくりの建物は、かつて、<鷹の砦>と呼ばれていた」
指差して、グウィディオンは言った。
 「イヴァルドが築かせたものだ。今はもう、崩れて廃墟となっているが、かつてルヴァインとの戦があったとき、兵たちはそこから出陣した。我が友は、共にあそこで斃れた。それ以来、一度も行ったことがない」
スェウは指された方向に目を細め、光の中に今は静かに眠る廃墟を見つめた。海の轟きは、この丘の上までは届かず、潮風も、若葉の匂いに掻き消され流れては来ない。風景画の中に偶然落ちた染みのように、その影は、微動だにしなかった。
 遠くを見つめる少年の横顔に気づいたグウィディオンは、思わず呟いた。
 「確かにお前は、かつてのイヴァルドによく似ている」
スェウは振り返った。呟いたグウィディオン自身、自分の呟きに驚いているようだった。
 「俺も、忘れていたのだ。…いや、思い出さぬようにして、深い霧の下に閉じ込めていたのだ。だが、今であれば、何にも怯えることなく、その名を口に出来る。イヴァルドも――、そしてお前の、もう一人の母親のこともだ。エレンは、このバナディルの花のように美しく、強い女だったぞ」
スェウは微笑み、自ら馬をゆっくりと進めた。その後について、黒い馬が歩き出す。
 表情はいつもと変らず、固く結ばれたままだったが、その猛々しい魂が一瞬だけ微かに震えたのを、スェウは感じた。


 ミル・カスティスの小さな館は白い石で作られ、誰かが作った池と、様々な草木の生い茂る庭があった。
 まだ知らせを受け取ったばかりで、庭も部屋も掃除されておらず、何年も前から放置されたままになっていたが、スェウは気にとめず、館の中を見て回り、日当たりのよい部屋をそれぞれの寝室と定めた。
 館には管理を任された年老いた男が一人と、食事係の女が一人。彼らは夫婦だった。それから、知恵遅れの息子が一人。これは庭師だった。館は荒れ放題なのに、庭だけは美しく整えられ、まるで繊細な指が丁寧に設計して作り上げたような芸術品になっているのは、そういうわけなのだった。
 そのほか、年代ものの器や、色あせた絵、前の住人が集めたらしい古い書物など、館の中には珍しいものが沢山あった。
 それらは全てスェウのもので、館から見渡せる川べりの農地と村々すべてが、彼の領地なのだった。
 「館に住むなど、何年ぶりだろうな」
グウィディオンも、この古びた館を気に入ったようだった。
 「昔、イオナに住んでいたんでしょう? その時の館は、どうされたのですか」
 「さあな、ルヴァインへ渡る時に見捨てたきりだ。今でも在るのかもしれんが、戻って確かめてみたいとも思わん。」
彼らは、本棚に囲まれた埃っぽい書斎に休息を求めた。整えられた庭を一望できる、最も良い場所にその部屋は在った。
 「サウィル殿の言ったとおり、イオナへ赴かねばならぬ。」
 「僕も、ブランウェン殿に会わねばなりません」
 「そうだな。」
それきり、彼らは話をやめ、あとは各自、館の中で好きに過ごして夜を待った。全てはまだ始められたばかり、そしてまだ、始まっていないこともあった。


 夜になり、月が昇る頃、スェウは目を覚ました。廊下には灯がともされ、しんと静まり返り、人の気配はあったが、みなそれぞれの仕事をしているようだった。彼もまた、なすべきことを、知っていた。
 庭の手入れされた木々の間から、輝く白い光が見える。
 スェウは厩へ行き、ヌウィブレを引き出すと、夜の草原へ乗り出した。遮るものの無い草原は白い光の中で海のように草を風に靡かせ、どこまでも、どこまでも広がっている。
 やがてスェウは、行く手に、目指す人影を見つけた。その馬の足は宙に浮き、乗り手は青いヴェールに顔を隠して、鈴の音を響かせながら金の杖を振る。あとについて、夢遊病のように歩く白い衣の少女たちが見えた。
 スェウは馬を止めた。
 「リアンノン殿!」
呼ばれて、馬に乗る貴婦人は振り返った。だが、馬は歩みを止めず、そうする間にも彼らの間は開いていく。
 スェウは、ヌウィブレをギャロップで駆けさせ、草原の半ばで彼女に追いついた。リアンノンは、ヴェールを下ろしたまま、憎々しげに、だが力なく、呟いた。
 「その馬でなければ何者も、わたくしに追いつくことは出来ないというのに」
 「あなたと、もう一度お話しがしたかったのです。どうぞ、嫌がらないで下さい」
 「話すことなど、もうありません。そなたは、地上に降りて大人になってしまった。いまだ穢れを知らぬとはいえ、もはや、わたくしの抱いて差し上げられる歳ではない」
彼女は顔をヴェールに隠し、顎を上げ、少女たちとともに去って行こうとする。だがスェウは手を伸ばし、リアンノンの乗る青白い月の馬の手綱を掴んでしまった。
 「その手を離して。わたしたちを行かせなさい」
 「いいえ、母上。あなたが、この国にかける恐ろしい呪いを止めない限り、この手を離すわけには参りません」
リアンノンは驚き、金の杖を取り落としそうになった。
 「お前は、もう、わたくしの子供では無いわ」
 「そんなことはありません。母子のつながりは決して切れることはありません。イオナの塔から、父の妻となるはずだった女性が海に落ちたその夜、母の体の中に繋がり、まだ産声を上げることも知らなかった私を、そこから掬い上げ、最初に抱いてくれた人は、あなたなのですから」
 妖精の女王は、深い溜め息をつき、その溜め息の憂いの深さで、辺りが青く染まるほどだった。
 月はしらしらと輝いて、いずこの世のものともつかぬ、影の無い、白くほっそりとしたリアンノンの姿を照らしていた。

 少女たちが踊りながら笑い声をたて、月の光の中でくるくると舞う。その様子は、さながら、樫のこずえに舞う白い蝶のよう。
 「ご覧なさい」
彼女は、つ、と指を上げ、馬の回りをさんざめきながら通り過ぎる少女たちを指した。
 「スヘト<疾病>、ネベト<欠乏>、エイシウェド<赤貧>。ひどい、わたくしの娘たち。理性も感情も持たず、ただ無邪気にその名のとおりのものをもたらすだけ。わたくしの馬の名はイスゴット<幽霊>。月の国は、冷たい死の世界。なにも死なず、何も生まれず。もう何千年も昔から、かの国の時間は止まったままなのです。」
 「それは、あなたの望んだことではないのですか」
スェウは、手綱から手を離さずに、なおも言った。
 「わたくしの? いいえ。わたしの望みはただ一つ。わたくしが、あの人の子を産んで差し上げたかったということだけ」
貴婦人の目は草原の彼方を見つめる。死を運ぶ青白い馬の鬣は、燐光のように燃え立った。ヌウィブレはスェウの脚の下で怯えていたが、以前のように、後退りはしなかった。
 「愛を与える自分の子がなく、それゆえ地上の母たちから子を奪うのでしょう。この国の子らが、いくさや飢え、病で死に行くのが許せないのでしょう。すべての子供たちが、幸せに、愛されて成長してゆくのが見たいのでしょう」
 「ええ、そうです。そのとおり」
 「でも、いくら攫っても、あなたには子供を成長させることが出来ないのです。」
絶望の吐息が漏れた。それは、リアンノンの胸の真ん中を打ち抜く鋼の矢であった。
 「もう終わりにしましょう。子は、その父と母の腕に抱かれてはじめて、人となることが出来るのです。子供たちを返してください。忘却の霧が消え、光の差した地に、希望の子らを」
 「そなたに、それが出来ますか。わたくしの目の前にある三つの国から、人々自身が望んだ、忘却の霧を取り除くと?」
 「誓って、母上。」
スェウは真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。その眼差しからは容易に逃れることは出来ず、全ての偽りを遠ざける光を帯びていた。
 リアンノンは、言った。
 「賭けをしましょう、スェウ。そなたと、わたくしとの間で。そなたが勝てば、わたくしは、月の子らを解放し、母たちに返して差し上げます。」
 「では、私が負ければ、子らは、貴女の腕の中に永遠につなぎとめられるのですね」
月の光を浴びた女神は美しく、白いヴェールをなびかせながら残酷に微笑んだ。
 「そなたは、まだ、人々が心に抱く最も醜い闇を知らぬ。寂しさ、恐れ、哀しみ、喜び、慈しみ、楽しみ、…人と同じ感情を得ても、その中には暗い感情が無い。けれど、それほど遠くは無い未来、そなたは最も暗い感情に、その胸を打ちぬかれるさだめ。いずれ、そなたはわたくしの腕の中に戻ってくる。光は消えるでしょう、…この地上から。そして永遠に」
スェウが何か言おうと唇を動かすより早く、手綱は彼の指の間をするりと擦り抜けた。白い服の少女たちが鈴の鳴るような笑い声を立てながら彼らの間に割り込んで、よい香りのする花びらが辺り一面に舞った。
 強い風に煽られて、スェウは思わず手を翳した。ヌウィブレが嘶き、数歩、後退る。

 蝶の羽根から毀れる燐粉のように、月の輝きがきらきらと落ちてくる。
 気がつくと、風はやんでいた。青い草原にもはや、女王と少女たちの姿はなく、あとには静かな光が落ちているばかり。
 スェウは、その夜のことを、誰にも話さなかった。館に戻ると、何事も無かったように寝室に向かい、それから、太陽が高く昇るまで、深い眠りに落ちたのだった。


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