◆37



 夜はもう遅かったが、ブランは、妻や姪とともに語り合っていた。突然、青ざめた顔色で現れたヘドゥンに彼らは驚いたが、彼の口から語られたことは、彼らもたった今、話し合っていたことだった。
 すなわち、婚約に当たり、イオナの王のもとに挨拶に伺うこと、その際、リドランとディノディグより友好の品を運ぶこと。また、先代の領主ギルヴァエスウィと、イオナの若君グウェルンの死に伴う、二つの不幸な暗殺によって生じた亀裂の修復。
 そのためにイオナを訪問する日は、早ければ早いほど良いと思われた。
 「では、」
ブランは膝を叩いて言った。
 「明日にも、使いをイオナへ向かわせよう。姪の婚約と、エレリの謀反を伝えねば」
 「私もリドランへ使いを出し、留守を守っている弟に言って、王への贈り物を支度させ、ここへ運ばせましょう。ひと月後の夏至には、イオナへ行けると良いのですが」
ラスティエンは、将来を誓い合ったばかりの花婿が、何かに怯えているのを感じ取った。ヘドゥンの申し出は性急過ぎた。
 「何を恐れておいでなのです。なぜ、わたくしたちの婚礼の日ではいけないのです」
 「一刻も早く、戦の準備を整えねばならぬからです」
彼は、包み隠さず口を開き、スェウに言われたとおりに打ち明けた。
 「我がリドランは、ルヴァイン、ダヴェドとも頻繁に交易を行っております。ルヴァインからは武器を、ダヴェドからは珍しい海の幸や美しい絹を。ですが武器は、私の領地にはほとんど残らないのです」
 「では、それは、何処へ?」
 「エレリです」
ブランは、あまり表情を変えなかった。
 ややあって、彼は言った。
 「よくぞ打ち明けてくださった。それで、我らの憂いも全て晴れます。イオナでは、リドランに反乱の兆しありと大いに噂されているが、それはエレリに武器を売っているがゆえだったのだな。」
 「そうです。しかし、我が領地が武器を溜め込み、エレリとともに戦を準備していると思われても致し方ないこと。信じていただけるかどうか」
 「何を仰る。ヘドゥン殿は軍を使い、略奪者たちを追い払って、私や姪を助け出してくれたのだ。疑おうはずがございません。問題は、マース公が、まだそのことを知らぬということ」
 「そう…ですね…。」
その時、表のほうが騒がしくなった。館の主たちのもとへも、召使いが呼びに来た。
 「何事だ」
ブランがソファから立ち上がるのとほぼ同時に、入り口に、大柄な男が姿を現した。それは夜更けには胸を掴まれたように思えるほど、威圧的で、野のものとも山のものともつかぬような、見るからに恐ろしい風貌をした男だった。
 だが、その側にスェウが立って雰囲気を和らげたので、人々は、辛うじて悲鳴を上げずに済んだ。
 風に煽られた髪と、剃ることを忘れた髭が、誰なのかを思い出させるまでに時間を要させていた。ようやく気づいて、ヘドゥンが腰を浮かせた。
 「伯父上、なぜ、ここへ」
 グウィディオンは、ぎらぎら光る目でヘドゥンを睨み付け、低い声で、こう言った。
 「ヘッフドゥンが謀反を起こしたぞ。奴は、アムレンの妹と婚約し、イオナへ軍を送る手はずを整えるため、リドランを棄てて逃亡した」
それを聞くや、ヘドゥンの表情は凍りつき、ブランの顔は真っ青になった。グウィディオンの形相は、今にも腰の剣に手をかけんとしているようだった。
 「エレリに武器を売ったな。奴らが謀反を起こすことを知りながら、その手助けをしておったのだ」
 「ですが」
ただ一人、ラスティエンだけが、震える声で果敢にヘドゥンを弁護した。
 「この人は、たった今、イオナの王への忠誠を口にされたばかりなのです。エレリに武器を売っていたことも、自らの口で話されました。それは、貴方が来られるより前の話ですわ」
 「まことか」
 「誓って。ここにいる、伯父と伯母も聞いています」
グウィディオンの殺気が弱まった。だが、納得したわけではないようだった。
 「では、ヘッフドゥン一人のたくらみか。そなたたち兄弟は仲が良かったようだが」
睨まれただけで魂を見透かされるような気がして、ヘドゥンは青ざめ、力を失ってソファの上に崩れ落ちた。
 ブランはようやく、口を開いた。
 「さあ、座られよ、グウィディオン殿。以前は大変な失礼をしてしまったが、今ここで埋め合わせをさせていただきたい。ここに掛けられ、飲み物を受けとられよ」
 「失礼致して、席を頂戴いたそう。しかし、まだ飲み物を受け取るわけには参らぬ」
男は、ブランとヘドゥンとの間に腰を下ろした。それだけで、黒い威圧に部屋の空気が薄くなるようだった。
 スェウは、グウィディオンの側に立ち、薄汚れ、草のついたマントを外させた。スェウが居なければ、この場にいる者はみな、殺されるかという恐怖に苛まされただろう。グウィディオンの怒りは、それほど激しいものだったのだ。
 「俺が見てきたところによると、こうだ。ヘドゥンが領地中の兵の半分を連れて発った後、残された兵が反乱を起こした。かねてより、金を渡して買収していたのかもしれん。奴は自分がリドランの領主になると言った。ブレイドゥンと町の人々が、あくまでヘッフドゥンには従わぬと言い張ったがために、彼らはリドランから奪えるものを奪い、去って行ったのだ。」
 「ブレイドゥンは、どうしました」
 「暗殺されかかったのだ。ルヴァインの傭兵たちによって」
ヘドゥンの顔色が変った。
 「そうだ、かつて俺にしたように。奴らを館の中に招き入れ、館の中で血を流させたのだ。ヘッフドゥンは、傷を負ったが生きている。だが館は略奪され、町は荒らされ、ひどい有様だ。」
 「なんということを。実の弟を、その手にかけるとは。だがエレリと共謀してイオナを攻めるとしても、このディノディグは通れない」
 「それだけが、奴らにとっての誤算だったようだな。もしもこの地が奴らの手に落ちていたら、イオナの地は決して守れなかっただろう」
グウィディオンの怒りは、少しずつ和らぎつつあった。彼が思っていたよりも、事態はましな方向に傾きつつあった。

 この国が領主たちの不和と戦を経験するのは、およそ十七年ぶりのこと。
 決して平和と言える時代ではなかったが、倦怠とも呼べる停滞の中、新たな兵は育っておらず、今の若い兵は、ほとんどが初陣をまだ経験していない。そして、国が貧しい今や、多くの兵を養っておくだけの余裕もまた、無いのである。
 「リドランへ戻ります」
ようやく気力を取り戻したヘドゥンは、椅子から立ち上がり、人々を見回した。
 「明日の朝にも、すぐに。」
 「それがよいでしょう」
ブランも言う。
 「約束の日はいかがなさいます。ラスティエンを行かせるのは一年ののち、ということになっていたが」
 「そのままで良いでしょう。早めても、遅くしても不都合です。では失礼」
ヘドゥンが去り、ブランも、その奥方も、続きは明日にと説得したので、グウィディオンはその晩、館にて一晩を過ごすことになった。
 もう夜も遅く、朝までそれほどの時間は無かったが、眠れるはずもなく、かえって朝までの時間が長く感じられるほど。
 人々が、それぞれの思いを抱いていたのは確かなことだ。だが、そのすべてを語ることは出来ない。
 春のそぞろな空気に浮かされて月の輪郭はぼやけ、萌え立つ木々の香りが風に乗って漂う。
 その晩スェウは、夜の明けるまで、ダヴェドでの出来事をグウィディオンに話したのである。


 翌朝、人々は、ヘドゥンが館を後にして自軍に戻ったことを知った。
 日が昇るより前に伯父の手にかかって殺されるより早く、と、それは逃げるような出立であったが、彼は何より、ラスティエンの心を失うことを恐れていたのである。
 グウィディオンは髭を剃り、髪を整え、さっぱりした装いで現れた。
 それは、スェウとラスティエンによる心遣いの結果だった。立派な衣装を身に着けた彼は、もはや生け贄を求めて流離う悪魔のようには見えず、死神のようでも、放浪者のようでも無かった。鋭い目つきは大鷲を思わせ、堂々とした風貌からは、どこかの領主か王を思わせた。いずれにせよ、この男を目の前にした者は、ひれ伏すか、怯えて動けなくなることが多かったのである。
 「さても、グウィディオン殿と同席するのは、何十年ぶりのことになるのやら」
サウィルは、震えて顔も上げられない息子たちを脇に、気が滅入るような陰鬱な声で言った。だが、それが彼にとっての最高に明るい声なのだった。
 「生きておいでとは聞いていたが。今までどうされていたのですかな」
 「野に流離い、岩陰に眠る毎日です。館を持たぬ者には、そうして生きてゆく他にはございませんので」
改めて、館の主、ディノディグの領主が口を開いた。
 「我らはこれより、イオナの王のもとへ参る。どうされるおつもりか。」
 「スェウとも話し合った。結果、そこもとがスェウに与えられた土地と館を見に行くのが良いだろうという話になりました」
ブランは、怪訝そうな顔をした。
 「すぐに、ですかな」
 「ええ」
 「それは構わぬが、しばらく人の住んでいない館ゆえ、荒れているやもしれん。いましばらく、この館に留まっておられては」
 「屋根と壁があるだけでも、十分なものです」
それは冗談とも思われなかった。ブランと妻は顔を見合わせたが、グウィディオンが意思を変えるつもりのないことを知ると、執事を呼んで、ペンと羊皮紙を持ってこさせた。
 彼はそれに何事かを書きとめ、印を押すと、執事の手に戻して去らせた。執事はいそいそと広間を出て行った。
 「今、館と土地の管理をしている者に報せを出しました。食事のあと、ゆっくりと森の向こうへ向かわれよ。迎えの者が来ているはず」
そこで、再びサウィルが問うた。
 「不思議だ、グウィディオン殿。どのようにして、今まで隠れておいでだったのだ。イオナのどの土地でも貴殿の名は聞かれず、また、近年になるまで、貴殿の姿を見たという者もおらなんだ。」
グウィディオンは答えた。
 「影は、闇に隠れれば目に映らぬが、光に照らされれば、おのずから姿を現すものだ。」
彼は朝の日差しの中にはっきりと顔を向け、テーブル越しに人々を見回した。恐ろしげな男であったが、その顔立ちは整っており、研ぎ澄まされた刃のような気配さえ無ければ、婦人たちが心を動かされるほどの美男になるはずであった。
 だが、その野生じみた殺気も、隣に輝くような少年が座れば、不思議と薄れるように思えるのだった。
 「誓いを果たす時のためだけに、この身を生き永らえさせて来たが、それも今のためにこそ。」
 「そのお言葉、イオナの王のお耳にも届けばよいが。」
グウィディオンは、痩せた、青白い男の顔を見た。
 「俺を敵と思う者は少なくない。たとえ母の兄であろうと、マース殿は俺の言葉を信じるまい」
 「イオナの地は今、耳を閉ざし、深い霧の中に沈んでおります。王の心は、あの日より晴れたことがございません」
 「それは周りの者たちが良からぬことを吹き込むからだ。霧は、人が生み出すもの。誰かが、この国を悪い夢から醒まさねばならぬ」
 「あなたの剣は、そのために強くあるのでしょう」
ブランは黙って、年上の者たちの会話を聞いていた。このディノディグの領主は、まだ若く、三十路に達したばかりだった。かつて大いくさのあった頃には、やっと成人に達したばかり。
 「我が言葉をマース公の耳に届けるためには、まだ、多くの血が流れねばならぬかもしれん。」
言って、彼は席を立った。
 それは、一同に沈黙と、かすかな動揺を生み出した。この男は冗談を言う男ではなく、表情は、ほとんど読み取れないほどにしか動かなかった。
 去り際に鳥が水面に残す波紋のように、不吉な声を聞いた夜更けのように、静かに、次第に大きく、人々の胸に広がっていった。
 グウィディオンは、さっとマントを翻し、誰にも言葉を発する機を与えずに大股に広間を出て行く。
 その時には、スェウは、先に広間の外に出て、馬たちの準備を整えていたのだった。


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