◆35


 そして何日目かに、ようやく、目指す人々に追いついた。
 護衛のための馬が、一台の馬車を厳しく取り囲み、馬たちを急き立てながら道を急いでいる。その馬車の中から、女たちのすすり泣く嘆きの声が聞こえる。
 スェウは、窓から漏れる哀しみの歌声を耳にした。

 花は咲く前に散り
 粗暴な手に抱かれるを待つ わが身は儚し
 どうか 春を知って目覚めた草に雪を着せないで
 冷たき衣 肌に触れた瞬間に死んでしまいそう


スェウは、馬の上から答えて、こう歌った。

 育った大地より摘み取られた嘆きの花に
 朝霜の露が宿るを見たり
 露が落ちれば雪も 溶けるでしょう

 「何者だ」
突然、黒々とした迷いの森から現れた馬に、護衛の者たちは驚いて剣を抜いた。そして、すぐに後悔した。事実、彼は薄暗い森の中では、さ迷い出てきた幽界の生き物のように見えた。この世のものならず美しかった。
 「お尋ねするが、なぜ、その馬車の中の乙女ごは、そのように哀しい声を上げられるのです。私には、意に沿わぬ結婚を強いられた者の嘆きに聞こえますが」
スェウの澄んだ声は森の中に響き渡り、閉ざされた馬車の中にもはっきりと届いた。
 「貴様が案ずることは無い。エレリの跡継ぎ、アムレン様が彼女を妻にするのだ。逞しい腕に抱き寄せられれば、憂いもすべて消え去るだろう」
 「いいえ、そんなことはありません!」
馬車の中から悲鳴に近い声が聞こえ、窓が、さっと開かれた。
 乙女は顔を上げた。
 豊かな長い髪はつややかに肩に垂れ、肌は降り積もった初雪のように白い。頬は悲しみのため青ざめ、目の周りには涙の後が残っていたがてはいたが、唇はなお赤く、ほっそりとして背の高い、白樺の木を思わせた。
 スェウは一礼して馬をめぐらせ、彼女のほうに向き直った。
 「はじめまして、麗しい方。私はスェウ・スァウ・ゲフェスと申します。姫、差し支えなけば、あなたのお名前を」
 「わたくしは、ラスティエン」
乙女は、目の前にいるのが裸足のままで馬に乗る、まだ成熟し切っていない幼さを残す男と知って、絶望の色を隠しきれないまま、沈んだ声で答えた。
 「このまま、わたくしたちを行かせてください、お若い方。粗暴なアムレンの報復を恐れるならば、どうぞ、これ以上関わろうとは思われませぬよう」
 「そうも参りません、姫の乳母殿が心配しておいでなのです」
言うなり、スェウは背にあった弓をとり、矢をつがえた。
 「小僧、貴様一人で我ら全員を相手にするつもりか」
 「そのように。」
スェウは答えて、矢を引き絞った。矢は真っ直ぐに飛び、手前にいた男の盾に深々と刺さり、向こう側に突き抜けるほどだった。その男は驚いて、盾も槍も手から離し、馬から転げ落ちた。
 金の馬が高く嘶いた。兵たちの乗っていた馬がみな、慌てふためき、足踏みをして後退りはじめる。
 「待て、どうしたのだお前たち。あんな若駒に怯えてどうするのだ」
兵たちは必死で馬を御そうとしている。
 「あれは、馬の中の王なのだわ」
ラスティエンは、馬車から身を乗り出して呟いた。
 兵たちは、みな馬から投げ出され、地面に叩きつけられて、したたかに体を打った。うまく着地した者が槍を手にスェウに向かって行こうとしたが、矢に手足を射抜かれて、その場で動けなくなってしまった。
 その間に、スェウは馬車に近づいて、姫と、侍女たちとを救い出した。ラスティエンは、気高さから涙に汚れた見せまいと、顔を俯かせている。
 「すぐに出発しましょう。安全なところまで、お送りします。」
背に乗せていた無粋な兵士たちを振り落として元気に跳ね回っていた馬たちを呼び集めると、侍女たちは、めいめいその馬に乗った。スェウはラスティエンをヌウィブレに乗せ、自分は馬の側に付いた。

 彼は、来たときと同じように、追っ手も入り込めないような暗い森を通って行った。
 最初は不安がっていた侍女たちも、スェウが、迷うことはないと繰り返したので、心配しないことに決めた。先頭を歩く金の鬣の馬は、森の主から遣わされた、道案内のように見えたのだった。
 やがて夜が来て、彼らは一塊になって、森の中に火を焚いた。ラスティエンと侍女たちは、少年が、その白い手で器用に火を起こし、獲物を捕ってきて料理するのを驚きの眼差しで見つめていた。
 食事は粗末なものだったが、囚われの身から開放された彼女たちにとっては、どんなにか美味だったに違いない。
 またスェウは、彼女たちのために竪琴を奏で、哀しみと不安を和らげる手伝いをした。ダヴェドの国で並び立つものの無いと賞賛された腕前は、この国においても稀有なるもので、聞く者の心を癒した。
 彼女たちの目には輝きが戻り、青ざめていた頬はいきいきと輝くようになっていた。
 「素晴らしい腕ですのね。あなたは、楽師ですの? お父様は何をされているのですか」
ラスティエンの問いに、スェウは、笑って答えた。
 「父は、靴作りがうまいですよ」
 「まあ、職人の家の子なのですか? でも、あなたはそんな卑しい家の方には見えませんわ。きっと、どこか名のある家の方なのでしょう」
 「以前も、同じことを尋ねた人がいましたよ。でも僕には、自分の領地はありませんし、帰る家も無いのです。」
 「本当に?」
 「本当です。」
姫君は不思議そうな顔をしていたが、やがて、言った。
 「では、わたくしが無事に逃げおおせ、伯父様が領地を取り返されたら、誓って、あなたに領地と住む家を与えていただくことにするわ。あなたほどの方が住む場所も持たないなんて信じられませんもの」
スェウはただ微笑んで、竪琴をやさしく奏でた。森は眠りながら、優しく語り掛ける声を聞いている。彼の目には、人の言葉を持たず、言葉なくして語りかけることの出来る、大地の小さな住人たちの姿が、今もはっきりと見えているのだった。
 月の輝きに、心は空に舞った。それはかつて、冬の日にそうしたように、夢うつつの中で、彼は大空から輝く大地と深い森とを目の当たりにしたのである。


 さて、森を抜けた先の平原には、ちょうど、エレリの軍が陣を敷いていた。そこは街道の真ん中で、ディノディグを通り抜けようとする者は誰でも、その陣を通らねばならなかった。
 陣の真ん中には豪華なテントが張られ、グウィンという男が指揮をとっていた。グウィンはエレリの執政、アムレンの右腕と呼ばれていた。
 戦はすでに終わっていた。彼らの軍と剣を交えたリドランの兵は、離れた場所に待機させられており、軍を指揮していた若き領主は、油断ない目でグウィンと向かい合っていた。卓上には珍味と酒が用意され、テントの中には、兵の姿は見当たらない。
 「さて、話とは、いかなるものか。我らと講和を結ぶつもりなら、それは間違いであると申し上げる」
ヘドゥンが口火を切った。
 「イオナ王の名のもとに交わした盟約を違えるわけにはいかぬ。平穏を乱した者と手を取り合うつもりは無い」
 「もちろん、そのようなつもりではございませぬ」
狡猾なグウィンは、愛想の良い笑みを浮かべ、猫なで声で。
 「我らとて、ことを荒げるつもりはありません。だが、これは略奪のための戦いではなく、求婚のための戦いなのです。すべての高貴な男が、命をかけるべき戦いです。マース公のご子息グウェルン殿に約束されていた乙女、ディノディグの領主ブランの姪御、ラスティエン殿を、我が主アムレン殿が見初められた。主は求婚のため赴いたが受け入れられず、そのために、こうして兵を率いて参ったというわけだ。」
 「そのようには、どうしても思えぬ。乙女を略奪するために来られたなら、なぜ近隣の村を襲って罪無き人々の財産を奪ったのか。なぜ人々の土地を踏み荒らし、北の地に追いやったのか。この振る舞いは人々の悪い噂を呼ぶ。もし乙女を手に入れても、決して好んでアムレン殿を夫には選ぶまい」
グウィンの目が細くなる。
 「ブラン殿には、御子が無い。最も近縁なるラスティエン殿の御子が、この領地を継ぐことになるでしょう。」
 「つまりアムレン殿は、その乙女ごを愛しておいでではないのだな。」
 「とんでもない、一目見れば、あなたとて心奪われるような美しいお方です。アムレン殿は間違いなく、ラスティエン殿に愛の花を捧げておいでなのです」
 「だが、相手はどうであろうな。」
ヘドゥンは椅子を蹴り、優雅に、だが素早く立ち上がった。
 「どこへ行かれます。」
 「交渉などするつもりはない。もう少し、まともな言い訳が聞けるかと思ったのだが」
 「お待ちください、まだ。我らエレリは、あなた方リドランの民とは巧くやってきたというのに。そして、これからも。」
若い領主は振り返り、苦々しく呟いた。
 「これまでの取引のことを言うのなら、それは全て弟のやったことだ。」
 「家長は貴方なのです、ヘドゥン殿。イオナの人々は、既にリドランに災いありと噂しあっている。さあ、お座りください。酒でも酌み交わしながら、今後について語り合おうではありませんか」
甘い声で言いながら、エレリの執政が彼に手を伸ばし、肩を引き寄せ掛けた時だった。
 表で人の声が上がり、ひとりの兵が、慌てふためいてテントに駆け込んできた。
 「申し上げます。表に姫がお越しです」
 「姫だと、一体誰のことだ」
 「それが…」
ヘドゥンは、するりと男の手を逃れ、真っ先にテントの外へ出た。近寄ることの出来ない兵たちが、槍を手にうろたえているのが目に止まった。その輪の中心に、金の鬣を持つ馬に、緊張した面持ちの貴婦人を乗せた少年が立ち、人を寄せ付けぬよう、周囲に目を配っていた。
 彼はしばし目を疑い、やがてそれが夢でも幻でもないと悟ると、歩調を速めて近寄った。
 「お前なのか、スェウ。いつイオナへ戻ったのだ。その方は…」
近づいて、彼は口を閉ざした。それ以上の言葉が出てこなかった。視線が絡み合ったのは一瞬、不躾なほどまじまじと見つめるヘドゥンから目をそらすように、ラスティエンは頬を染めて、ヴェールに隠されていない顔を俯かせた。
 「ご紹介いたします。ディノディグ領主ブラン殿の姪御、ラスティエン殿。リドランの軍がここにいると知り、彼女の安全のため、手を貸していただこうと訪れたのです」
スェウの言葉を、彼らがしっかり聞いていたかどうかは、やぶさかではない。なぜなら、出会った瞬間にヘドゥンの心はどこかへ飛び、その後、グウィンが耳元で騒々しく声を張り上げるまで、容易に戻っては来なかったからである。

 「貴様は何者だ。我が軍の者では無いな? エッセネへ送られたはずの姫が、何故ここにいる!」
 「彼女はさらわれたのです」
スェウはグウィンの声を無視して、ヘドゥンに語りかけた。
 「乳母はしたたかに打たれ、道に置き去りにされました。彼女と侍女たちだけが、馬車に閉じ込められ、意に沿わぬ相手との婚礼のために、占領されたエッセネの町へ送られる途中だったのです。この方の嘆きの声は森に木霊し、私の耳に届きました。」
 「一人で我が軍の中に乗り込んで、道義を説くとは呆れた小僧よ。構わぬ、お前たち、こやつを捕らえよ! 姫君を取り戻すのだ」
ヘドゥンの目にきらめきが過ぎり、その表情から曖昧としたものが消えた。彼は背をぴんと伸ばし、グウィンを見下ろした。
 「この者を捕らえると言われたか?」
 「不審者です、ヘドゥン殿」
 「何という言い草だ。この者は私の伯父の息子、つまり私の第一の従兄弟なのだぞ。その者が私に、乙女を力で従わせようとするような者とは同席するなと警告に参ったのだ。これで、そなたとの話も終わりだな」
言うが早いか、彼は腰につけていた銀の喇叭を口に充て、高らかに吹き鳴らした。それは進軍の合図で、軍の指揮官が交渉の決裂と、戦闘の再開を告げるために持っていたものだった。
 音が届くと、リドランの精鋭たちはすぐさま剣と盾をとり、馬に飛び乗った。草原の向こうに銀の輝きが見え、地鳴りのような馬の足音と共に、瞬く間に黒々とした軍の姿が見え始めた。
 戦闘は無いものと、軍の半分をエッセネに置いていたグウィンは慌てふためき、急いで、退却の指令を出した。彼らは、テントも、食べ物も、近隣の村から奪い取った財産も全てその場に残し、馬と武器だけを持って、逃げ去ったのである。


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