◆34


 イオナの国には、海の果てなるモール・リッドの島を除いて、七つの地方があった。
 北の果てなるイストラド、冷たき峰つらなるアルヴォン、穏やかなる海に面したアベルフラウ、鎮守の地ディノディグ、力強きリドラン、麗しのエレリ、そぞろ気のケルニュウ。

 冬を越えたとき、それぞれの地にはそれぞれの声が起こり、人々は、その声に率いられるようにして動き出した。すなわち、エレリとディノディグの間にいくさが起こり、ディノディグの一部の人々が、隣り合うアベルフラウへと逃げ込んだのだ。
 イオナの国の盟約は破られた。王の名の下に、リドランは今まさに兵を派遣せんとし、アルヴォンは領主の帰りを待ちわびていた。今や沈黙を守るのは、北の果てなるイストラドと、南の端なるケルニュウのみ。

 港に着いた船を出迎えに現れた家臣たちから事態を聞き、領主サウィルはすぐさま出立の準備を整えるよう指示を出した。アルヴォンはディノディグに隣接している。
 「そのような訳です、スェウ殿。わが館にてお持て成しも出来ず、申し訳なく思いますが」
 「お気に為さらなくとも結構ですよ。リドランが兵を出すというのなら、私も従兄弟たちに会いたいと思います」
スェウはそう言って、船から降ろしたばかりの乗馬に飛び乗った。船旅の疲れは見せず、いつもと変らず生き生きとして、人の目を引いた。
 サウィルは従者の一人に言いつけて、旅のための道具を持ってこさせた。すなわち、食べ物と、水筒と、その他こまごまとした道具である。スェウは礼を言い、それを身に着けて、アルヴォンの港を飛ぶように離れていった。

 春の雲が、眩しくきらめきながら流れていたが、梢でやかましく騒ぎ立てる、生まれたばかりの鳥の雛たちの声は聞こえず、まだ柔らかに透き通った羽根を持つ虫たちの姿も、見当たらなかった。
 草はそよぎ、大地が若々しい緑に満ち溢れても、風は沈黙したままだった。人々の心は歌わなかった。心地よい風は、竪琴を奏でなかった。

 スェウは、手綱を引いて馬を止めた。
 草原に、人の体が散らばっていた。ある者は矢に胸を射抜かれ、また、ある者は身体を切り裂かれ、草を朱に染めながら無残に伏している。死の静寂が広がっていた。
 彼は、それをじっと見つめていたが、やがて、死者の中に動く影があるのに気がつくと、馬を下りて近づいてみた。
 それは髪の白い老兵で、傷を負って、喘ぎながら起き上がろうとしていた。スェウは彼に手を貸してやり、水筒から水を汲んで飲ませてやった。年寄りの男は、ひどい傷を負ってはいたが、まだ息はしっかりしていた。
 「戦はどうなったのです」
 「エレリが勝った。リドランの軍は間に合わなかった。」
ひどく絶望的に聞こえる声だった。倒れているのはみな、年を取った兵ばかり。武器もろくに携えず、仕える領主の印だけを胸につけている。
 スェウは、なおも尋ねた。
 「エレリの軍は、大軍でしたか。勝てない戦だったのですか」
 「かなりの人数だった。それも突然に、襲ってきたのだ。我らは成すすべなく、ただ、打ちのめされた」
 「それから、どうなります。彼らはどちらへ行きましたか」
 「北の地へ。領主の町、エッセネは略奪に遭うだろう。領主様が溜め込んだ財宝は、みな奪われるだろうが、それと引き換えに命は助かる」
 「彼らの目的は、どのようなものなのでしょう。」 
 「ディノディグはイオナに隣り合う、最も肥沃な土地なのだ。また、かの地にはイオナを守る巨人の首が埋められ、その首がある限り、イオナは決して滅びぬと言い伝えられている。」
 「彼らは、イオナを滅ぼす気なのでしょうか」
 「そのつもりだろう」
老兵は溜息をつき、少年を見上げた。
 「エレリとディノディグが一つとなれば、リドランは手を引くことになる。それは確かなことなのだ。エレリはリドランに不可侵の協定を申し込み、リドランはそれに応じるだろう。アルヴォンはアベルフラウに使者を送り、ともに反逆者を討たんとするが、イオナは出兵することが出来ない。何故なら、その隙をついてケルニュウがイオナを攻めるからだ。アベルフラウの軍は、ディノディグを棄て、イオナへ軍を差し向けるだろう。アルヴォンは孤立する。そしてイストラドに攻め滅ぼされるのだ。すべては火を見るより明らかなこと」
 「なるほど、あなたは識者だ。そして、十分に語られた。さあ、町まで送って差し上げましょう。馬にお乗りください」
スェウは老兵を丁重にヌウィブレの背に乗せ、自ら手綱を引いて歩ませた。どんな賢人も、このような麗しい馬丁をつけられたことは無いだろう。
 「ところで、もう一つ教えていただけませんか。その予測には、最後にイオナがどうなるのかが含まれていませんね」
 「無論だ。運命は揺れ動く。わしの目は曇り、それから先のことはよく見えぬ」
 「リドランが、エレリの協定を受け入れなければ、どうなるでしょう」
 「ディノディグは遠からず開放され、彼らは財宝を手に入れたことで満足するだろう。だが、その富が、いずれ悲劇を引き起こすのだ。海の向こうからやって来る人々が、わしには見える。」
やがて町が見えてきた。老人は口を閉ざし、町の入り口に立つ人々に悲しい眼差しを向けた。
 人々は、打ち倒された兵士たちをの遺体を持ち帰って埋葬するため、手に鋤を持ち、荷台を引いて出かけるところだった。兵の一人が生きて戻ってくるのを見て、彼らは喜びを表すとともに、それ以外の、戻ってこなかった者を思って悲しみの声を上げた。
 スェウは、傷ついた老兵を馬から下ろし、人々の手に委ねながら、最後に尋ねた。
 「もう一つ、お伺いしたいのです。かつてイオナの国に剣を振るった、ドーンの息子グウィディオンが、今いずこに居るのかをご存知ではありませんか」
 「さて。漆黒の馬に乗って、風のように走り去ってゆく者ならば、見たことがあるかもしれんが。風の行方は、わしにも分からぬ」
スェウは丁寧に礼を述べ、人々に別れを告げて立ち去った。

 しばらく行くと、道の端に生えた木の下に、ぼろを纏った一人の女が座っていた。彼女は、髪を振り乱し、片方だけ靴を履いて、膝を抱えていた。
 スェウは、馬を降り、女に話しかけた。
 「そこで、何をしておられるのです?」
 「道をゆき、わたしに話しかけてくれる人に、わたしの不幸を話しているのです」
 「それは、どのような不幸でしょうか」
 「わたしは、さる高貴な姫君の乳母でした。姫はイオナの王子グウェルン殿に約束されていた汚れなきお方、ディノディグの領主ブラン様の姪御。けれど姫は、お屋敷に戻る途中の、まさにこの場所にて、エレリの者どもの手に落ちたのです。わたしは必死で抵抗しましたが、打ち据えられ、着物を剥がれ、ここに置き去りにされたのです。」
 「その姫君はどこへ連れてゆかれたのでしょう。連れ去ったのはどのような人々でしたか」
 「エッセネの教会堂でしょう。連れ去ったのは、エレリの領主アムレン、粗暴な男です。富を無理やり奪うより、相続者を無理やり妻にするほうが、はるかに合理的に権利を得ることが出来ますから。」
 「その式には、どのような方々が招かれますか。」
 「捕らえられたディノディグの領主ご夫妻とその従者がた、エレリの人々、そして司祭と楽師が呼ばれ、宴が行われるでしょう。」
 「なるほど、よく分かりました。さあ、話されたのですから、あなたはお立ちください。そして、僕と靴を取替えましょう」
スェウはまとっていた立派な外套を、ぼろぼろの布しか纏っていない女の肩にかけ、丈夫な革靴を女に履かせた。
 女が、自分の足で町に入れるような格好になったとき、スェウは最後に尋ねた。
 「ところで、あなたがここに座っておらわれる時、かつてイオナの国に剣を振るった、ドーンの息子グウィディオンが通りはしなかったでしょうか。」
 「さて。漆黒の馬に乗って、風のように走り去ってゆく御仁ならばお見かけしたかもしれません。しかし風はあまりに速く通り過ぎるゆえ、どなたであったのかは、わたしにも分かりませぬ」
スェウは丁寧に礼を述べ、女と別れて、裸足のまま走り去った。

 ヌウィブレの足は以前にも増して軽く、どんな鳥も追いつけないほどに速く走った。ディノディグの地を流れるティレ河のきらめきが、駆けゆく側に見えていた。スェウは、その河の水を掬って飲み、日が暮れると、木陰に眠った。そして、古い森に入った。
 ひどく暗い森だった。
 木の枝が複雑にからみあい、雪も地面に届かぬほどに、網の目よりも細かく空を覆う。
 スェウは、森の奥に木のうろを見つけた。枯れた苔が柔らかな床をつくり、狭いうろの中には暖かな空気がわだかまっている。
 近隣に住む旅人たちも、迷うことを恐れて踏み入らぬ森だったが、木々の声を聞く彼には、道無き森では無かったのである。


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