◆30


 割れた鏡のような白い半月が、夜空にかかっていた。
 鳥たちの眠る時刻、空が濃い紺のビロウドに覆われ、銀の星図がその上に描かれている。
 静かな調べが、塔の閉ざされた窓の向こうから流れていた。たどたどしく、まだ旋律には成っていないが、一つ一つの音は澄んで、水面に弾む水滴のよう。
 「まだ、お寝みでは無かったのですか」
細い燭台を手に、オルウェン姫が、天幕を上げて入ってきた。しかし、一人ではなかった。少女のすぐ後から、一人の大柄な男が入ってくる。宮廷で何度も見かけた男だった。年はそれほどでもなく、髭には、まだ白いものは一本も混じっていない。
 スェウが夜着のまま寝台の端に脚を組んでいるのを見ると、オルウェンは行儀よく顔を背けながら男を紹介した。
 「こちらはペンダラン・ダヴェド。父の信頼する執政官ですわ。」
 「はじめまして、若君。」
見るからに厳しく、鋭く尖った剣のような眼差しをした男は、そう挨拶した。
 スェウは、二人にソファを勧めた。
 少年が、枕もとにそっと竪琴を置くのを見て、ペンダラン・ダヴェドは口を開いた。
 「気に入られたようですな。」
 「ええ。とても美しい音が鳴ります」
スェウは、見苦しくないようガウンを羽織った。それは彼のために新たにしつらえられたもので、生地は鮮やかな緑に染められ、袖と襟ぐりに豪華な錦糸の縫い取りがしてある。
 男は少女の傍らに保護者然として座り、オルウェンは、それが当然というように気にしない顔をしていた。
 執政官は、王の不在時には城を守る。プイス王の他に頼る者のない、まだ幼い姫君の拠り所でもあるのだった。
 「夜分に申し訳なく思っております。姫様が是非にもお話なさりたいとのことで。――私も、同席させていただいて、よろしいか」
 「お気に為さらずに。人は、多いほうが話も弾みましょう。」
スェウが言うと、オルウェンは首を振り、声を潜めた。
 「楽しい話ではないのです、ごめんなさい。あなたが…」
言葉が弱々しく途切れ、少しの間を置いて続けられた。
 「私の弟のように、消えてしまう気がして…。」
 「弟ぎみとは、生まれたその晩に消えてしまったという?」
少女は頷いた。
 「きれいな金髪の男の子でした。生まれたとき、お父様は、ようやく世継ぎが授かったと大喜びで。難産でしたから、母もお付きの者たちも、疲れて、すぐに眠ってしまったのです。それで、誰も、弟が何処に消えたかを知らないのです。まるで、神隠しのように」
 「姫、スェウ殿は生まれて間もない子供ではありませんよ。あやかしに攫われたりは致しません。」
 「それは分かっています。でも、心配なの。だからペンダランについていて貰いたくって。」
オルウェンの請願は、真剣みを帯びていた。そして、根拠間無い心配ではなかった。彼女は直感的に、スェウの心のうちを読み、その動きを恐れているのだった。
 スェウは溜息をつき、立ち上がった。
 「わかりました。オルウェン殿がそうもご心配なさるのであれば、僕はペンダラン殿の監視を受け入れますよ。」
 「監視など。ここでは、貴方の思うように振舞って下さって、よいのです。ただ…」
少年は微笑み、姫君の言葉を遮った。
 「今宵は月も美しく、もう少し、眠れそうにありません。楽器の練習をしてから眠ることにします。オルウェン殿、ご心配なく。さあ、ご自室にお戻りください。」
 オルウェンは、困った顔をしてスェウと、保護者役のペンダランの顔とを見比べ、仕方なしにといった様子で立ち上がった。
 「それでは、ご機嫌よう。お休みなさいまし。」
入り口で優雅に就寝前の挨拶をして、去ってゆく。

 ペンダランが残っていた。
 スェウは再び楽器を取り上げ、それに指をかけた。優しい音色が奏でられるのを耳にして、男は身体を揺すった。
 「なるほど、その白い手は武器よりも、楽器や羽根ペンのほうが似合いそうです。されど貴殿は、その容姿に似合わぬ力を持っておいでと聞く。」
少年は、それにはただ、微笑んだだけだった。
 「不思議な方だ。見るほどに、亡きイヴァルド王の幼い頃に似ておいでる。しかし、そんなはずは無いのだが」
 「イヴァルド王にお会いしたことがあるのですか?」
男は、小さな燭台の灯に照らされて、夜なお輝く少年の青い瞳を見つめた。
 「遠い昔のことです。その頃、イオナは大いに栄え、この宮廷とも、頻繁な行き来があった。私ははっきりと覚えております。プイス王と、イヴァルド殿はともに狩りを催した。それは実に素晴らしい宴でした。」
 「父も、そこに?」
男は、頷いた。
 「居られた。まだお若く、今の私とさほど年は変わらないほどであられたが、イオナと、この国とをあわせた、誰よりも強く、その名は高く知れ渡っていた。ルヴァインとの大いくさの後、何処へともなく姿を消されたと聞き、いくさの傷が元で果敢なくなられたとの噂も立っていたのですが。」
スェウは、ただ静かに、竪琴のつややかな輝きに目をやっていた。

ややあって、ペンダランは言った。
 「オルウェン殿のご心配も、分かる気がする。貴殿は、まこと不思議な方だ。確かに其処に在りながら、消えてしまうそうにも思える。この世のものとは、思われぬところがある。いずこから来られ、いずこへ行かれるか。一つところに留まるとは、いかようにしても思えぬのです。」
少年は、口元に微笑みを浮かべ、答えた。
 「僕が行くのは、父の居る場所です。それだけは確かなことです」
柔らかなクッションに腰を下ろし、スェウは、おもむろに、竪琴の弦に指を走らせた。
 それは完璧な歌の一節で、広間で楽師たちの弾いた曲の始まりの部分を、楽師たちよりも上手に、奏でてみせたのだった。
 ペンダラン・ダヴェドは、驚いて声も出なかった。
 「如何でしょうか。」
 「素晴らしい。こんな短期間で、これほどの腕前になった弾き手は、三つの国の何処にも居ないでしょう」
 「でもまだ、一節しか弾けないのです。」
スェウは記憶を辿りながら、続きの節をひとつ、ふたつ、奏でてから溜息をついた。
 「いやいや、お上手です。これだけでも十分。さあ、今夜はもうお休みください。私も、隣の部屋で休むとしましょう」
月ももう、地平に沈みかけていた。
 スェウは言われたとおりにすることにして、ベッドに横になった。
 灯を消した部屋からはるか遠くに、海が見えた。
 瞼を閉じると、冷たい、濡れた足音を感じた。水の中から伸びる白い腕。ゆらめく、長く黄色い髪が見える。その下には、整った鼻と唇が、そして、色のない頬がある。
 スェウは房飾りのついた掛け布団の下で目を閉じ、眠っているふりをしながら、それがゆっくりと部屋の中を見回すのを感じていた。だが気配は微かなもので、やがて静かに、闇の中に消えていったのだった。


 翌日から、ペンダラン・ダヴェドはスェウについて回った。オルウェン姫の心配は深く、決して一人にはさせてくれない。
 その頃、町の人々の間で、良くない噂が聞かれたせいもあった。真夜中の、誰も起きていない時間に、道をこそこそと歩き回る大きな人影を見たというのだ。それはとても人の影とは思えず、生臭くて、翌朝起きてみると道端に、貝や食べさしの生魚や、海の深いところに生える海草の切れ端などが落ちているというのだった。
 スェウは、そんな人々の噂を恐れはせず、監視を気にした様子もなかった。それどころか、ペンダラン・ダヴェドと特別に親しくなり、昼も夜も、彼を供に連れて町の外に出かけた。
 ペンダラン・ダヴェドははスェウに気前よく様々なことを話し、ダヴェドの国と、この国に住む人々のことを教えた。
 また、亡き王妃の愛したという白い薔薇の園にも案内してくれた。そこには立派な墓標がたてられ、王妃を悼む人々によって手向けられた品物が、麗しく石を飾っていた。

 ダヴェドには、凍てつく雪の季節が来ていた。
 イオナよりも一月ほど遅く、しかもゆっくりと。浅く、白い絨毯が町中を覆った。
 その頃には、スェウは竪琴を自在に奏でる優れた奏者となり、もはや城にいる楽師たちの誰も、真似をすることが出来なくなっていた。
 「海から不思議の生き物が呼び寄せられるとしたら、そのせいでしょう」
ある時、一人の従者が冗談にそう言った。「何しろ、あの方の竪琴の音は、地下世界に住む神々の耳にも聞こえるほどに、澄んで美しいのですから。」
それを聞いて、オルウェンはますます胸を痛めるようになった。そして、ペンダランとともに会食した夜、ついにスェウに、どうか竪琴を奏でるのをやめてほしい、と訴えたのだった。
 「弟は、きっと海の化け物に攫われたのです。あなたも。」
 「どうして、そんなに恐れるのですか?」
少女は、理由をはっきりと口にすることが出来ず、口ごもってしまった。だが、納得していないのは確かだ。
 スェウは溜息をつき、自分から口を開いた。
 「わかりました。僕が何を思っているか、打ち明けましょう。あなたがたがディラン・エイル・トンと呼んでいるもの、彼は人間なのです。僕は、いかなる呪いが彼を海に繋ぎとめるのか、それが知りたくて音を奏でているのです。」
 「どうして、そんなことを?」
 「あなたが仰ったとおり、弟ぎみを攫ったのが海の化け物だとしたら、彼は、その行方を知っているはずです。僕は、彼に会って、話をしたいのです。」
オルウェンは卒倒しそうになり、泣きながら、ペンダランを呼んだ。そして、お願いだからスェウを止めてくれるようにと嘆願した。
 止めても無駄なことは、彼自身が分かっていた。一緒に過ごした間に、スェウが並ぶものなき知恵と分別を持つ、勇敢な若者だと知っていたのである。
 ペンダランは泣きじゃくる幼い姫君の肩を抱き、静かな声で諭した。
 「涙をお拭きください、オルウェン殿。身分高き姫君が、そう人前でべそをかくものではありません。スェウ殿は、もう子供ではありません。さ、安心して」
 「でも、どうして大丈夫だと分かるの」
オルウェンは唇を尖らせる。「あれは海の化け物よ。人でなんか無いわ」
 「では、僕も化け物ですか?」
スェウが突然悲しげな顔をしたので、少女は驚いて口元に手を当てた。
 「どうして? だって、あなたは人でしょう。どこも変わってなんかいないし、とても綺麗だわ」
 「今に分かります。」
それきり、彼は、いくら聞いても話しかけても、口を開こうとはしなかった。ペンダラン・ダヴェドは、打ちひしがれたオルウェンの手を引いて、部屋を出て行った。


 スェウの姿が見えなくなったのは、その日の夕刻だった。馬もいなくなっていた。
 だが誰も、部屋に閉じこもっているオルウェンにそのことを告げなかった。ペンダラン・ダヴェドに、きつく言い渡されていたからだ。
 彼は一人、夕日の沈んだ空の下に馬を走らせ、スェウのあとを追った。

 スェウは、穏やかに打ち寄せる波打ち際の岩に腰を下ろし、抱いてきた竪琴を膝に置いていた。
 潮の香りが満ちて、波間に白い月が揺れていた。彼は、厚い、少し大きめのコートを身にまとっていた。馬は、岩陰に止めてある。
 目指す者が近くにいることは感じていたから、その試みが決して無駄に終わらないことを、彼は知っていた。
 一曲めを奏ではじめたとき、すぐに、岩の間に変化が現れた。それは最初、小さな泡だけだった。やがて、黄色いものがゆらゆらと水面に近づいてきて、足元に浮かび上がった。ためらいがちに。
 スェウは手を止め、ゆっくりと岩にかかる白い指を五本、数えた。長い黄色い髪が額からうなじに貼りつき、海草がからまり、それだけでは、いかにも恐ろしく見える。
 少年は、身を乗り出した。覗き込む瞳と、見上げる瞳とが、はじめて出会う。――同じ色をしていた。そして、彼らはとても、よく似ていた。
 「ディラン…」
名を呼ばれ、答えるように、それは唇を動かした。
 スェウは両手で額にかかる髪を掻き揚げてやり、もの言わぬ冷たい身体を海の中から引き上げた。ディラン・エイル・トンはとても大きく、もう十分に立派な大人の形をしていた。
 海にいた男は、汚れた二本の足を岩につけたとき、小さな貝殻を足元に落とした。足の裏側に、藤壷が張り付いているのだった。
 ちょうど、スェウがディランに自分の着ていたコートを与えようとしていたとき、ペンダラン・ダヴェドが追いついてきた。彼は馬を止め、まじまじと、二人を見比べた。声も出ないようだった。
 代わりに、スェウが言った。
 「予言されたとおりに。やっと会えた、そして――僕は、自分が誰だか、ようやく分かりました。」
聡明にして俊敏なるペンダラン・ダヴェドは、スェウの言わんとしたことの意味を理解した。
 「成るほど、そのようなことでしたか。では若君、この方もやはり、呪いにかけられておいでなのですか?」
 「恐らくは。手伝ってください、ペンダラン。海が連れ戻しにくる前に、ここから離れねばなりません」
そのとおり、はや、海は荒れはじめていた。海のものと定められた若者を、海から引き離してしまったために、運命が怒り狂っているのだった。
 スェウは、竪琴をとりあげ、海に向かって奏でた。ざわめき立っていた海が静まっていく。
 「さあ、今のうちに。オルウェン姫にも、プイス王にも知られないようにしてください。」
 「分かりました。では、納屋にでも?」
スェウは頷き、さらに指を弦に走らせた。そして、美しい音色で、騒ぎたるものどもを眠らせ、鎮めてしまった。
 そして、夜が更けるころ月が出た。割れた半月が一巡りして、逆の半分に変っていた。
 やがて空がしらみはじめた時、月は、まだ其処にいた。スェウは、日が昇り、最初の日差しが浜に届くまでそこを動かなかった。

 夜明けの時が訪れたとき、海はもはや、その力を失い、哀れな若者を取り戻すことが出来なくなったのだった。


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