◆28


 群れは百頭ほどの猪で成り立っており、その先頭を走るのが、金の鬣持つ猪トゥルッフ・トゥルウィスだった。長い毛は鳥の翼のように広がり、背は小山、尾は流れる風のよう。だが、その瞳は邪悪に輝き、あらゆる慈悲というものを、持ち合わせていなかった。
 トゥルッフは、すぐ側にぴたりと着いた馬をじろりと睨み、その背に乗る少年に目を向けた。
 「何をしに来た、プイスの従者。」
 「僕は誰にも仕えておらず、今はプイス王の客人です。殺される前に聞いておきたいのですが、あなたはなぜ、この島を荒らしまわるのか」
 「知れたことよ。魔法によって姿を変えられ、このような姿で生まれるのでなければ、わしがこの島の王となるはずだったからだ。これで答えになるか」
 「充分です」
 「ならば今度は、そなたが答えよ。一体誰が、このわしを殺すなどと言ったのだ」
 「それは、僕自身ですよ」
言うが早いか、スェウは、荷の中から一本の焼き串を取り出して、馬を走らせながら、力いっぱい猪の背に投げつけた。
 その一撃は僅かに狙いを反れ、トゥルッフ・トゥルウィスの背の毛を削り取って、向こうにいた一頭を貫いた。串は真っ直ぐに猪の腹を貫き、地面につなぎとめた。群れの長が大きな嘆きの声を上げた。
 「おお、我が弟、銀の牙のグルギンよ!」
それで、猪たち全部が止まってしまった。スェウに貫かれた猪は、地面を紅く染めて、ぴくりとも動かない。
 「おのれ、貴様。なんということをする。我ら二人で、この島のすべての町を荒廃させようと誓ったものを」
 「そのような邪悪な誓いなど、破られてしまえばいい」
言って、スェウは、素早く縄を鍋に結びつけた。

 犬たちが追いついて、獣の群れを取り囲んだ。王の従者たちが弓や槍を構える。
 再び角笛が吹き鳴らされるのを聞いて、猪の王は、金の毛を逆立てた。
 「わしを殺さぬ限り、この地に平和の時は無いと思え!」
その咆哮を合図に、猪どもは突風の如く人々に襲い掛かった。犬たちは牙を剥いて、一頭の猪に五頭ずつも飛び掛った。数多の矢が射られたが、ほとんどは猛り立つ猪の硬い毛に跳ね返されて、肉までは届かなかった。

 その時、スェウは自分に向かって突進してくる、トゥルッフ・トゥルウィスの牙を見た。恐ろしい怒りに燃える目は理性を失って、獣には過ぎた賢さも、すべてかなぐり捨てていた。
 だが少年は落ち着いて、素早く馬を降り、鍋を手にすると、相手の顔面めがけて、狙い定めて振り下ろした。するとそれは、狙い済ましたように、猪の鼻面に覆い被さった。

 途端に、目の前が真っ暗になった、と猪の王は思った。それもそのはず、彼は深鍋に鼻面をつっこんで、自らの勢いで顔まですっぽりと入ってしまったのだ。
 鍋は、奥が広く、入り口は狭くなっており、容易に抜け出すことは出来なかった。さらに、鍋の取っ手には荒縄が硬く結ばれ、その反対の端は、ヌウィブレの鞍にゆわえてあった。
 猪は、どう、と地面に倒れこみ、あらわになった尻と腹に、猟犬たちが踊りかかった。トゥルッフ・トゥルウィスは逃げようとしたが、馬は踏ん張り、行かせまいとした。狩人たちが駆けつけ、猪の腹に槍を打ち込んだ。血の匂いで、猪たちは猛り狂った。迂闊に近づこうとした多くの馬が、突進で脚を折られ、乗り手を地面に放り出した。
 猪たちの長があんまり激しく暴れたので、しまいに、鍋を結んだ縄は切れてしまった。
 その勢いでヌウィブレはつんのめり、馬具の皮ひもは切れて、馬の背から落ちた。

 瑕だらけになった鍋を被ったまま、金の猪はなおも走り続けた。犬たちが、それを追った。
 「追え! ここで奴を逃がしたら、あとあと酷い報復が待っているぞ」
 「お待ちを、王。自分から料理鍋に頭を突っ込んで、もはや湯が煮え立つのを待つばかりとなっている者に、そう焦ることはありません。」
サウィルが、皮肉っぽく言った。彼の馬は息が上がっていた。戦いには全く参加せず、ただ、格好だけ勇ましく、人々の後方を走り回っているだけだったのだが。

 従者たちは、ちりぢり、ばらばらになった猪を追い立てるのに忙しかった。
 やがて、スェウが自分の馬に乗って戻ってきた。ちぎれた馬具を片手に下げ、もう片方の手には、綱をつけた、トゥルッフ・トゥルウィスの大きな体をひきずっていた。
 「ついに、討ったか」
グロヌウ・ペビルが、陰気な笑みを浮かべて、抵抗する力を無くした金色の猪を見下ろした。
 スェウは馬を降り、ひざまづいて、猪の顔から鍋を外した。走りすぎたせいで、猪は窒息しかかり、目は、はや迫り来る死の色に混濁いた。
 「無念なり、我が命運もついにここまでか」
一声唸って、猪は最後の息を吐いた。牙の片方は折れ、体じゅう、傷だらけになっていた。

 こうして、ダヴェドの地を恐れさせた、猪たちの王、トゥルッフ・トゥルウィスは倒された。ちりぢりになった手下の獣たちには、もはや村を襲う力は残されていなかった。彼らの知恵と力の大半は、頭であるトゥルッフのものだったからだ。


 その晩、王の天幕では盛大な宴が催された。スェウが金串で貫いた大きな猪が、料理人たちによって、そのまま火に乗せられ、こんがりと焼かれて食卓に出た。人々は、少年の比類なき力と勇気をたたえ、その声は、決してやむことは無かったのである。
 「さて、スェウよ。」
プイス王は、機嫌よく杯を傾けながら少年に言った。
 「そなたは、我が領地に平和を取り戻し、喜びを与えてくれた。その礼として、何が欲しいのか申してみよ。出来る限りの礼はしようぞ」
 「では、一冬の間、客としてあなたの館に招いてくださるよう、お願いします。」
彼は、すぐさま答えた。
 「それ以上のことは望みません」
 「なんと。たった一冬でよいと言うのか、惜しいことよ。そなたのような者であれば、一冬と言わずとも、何年でも居てもよいのだぞ」
 「そうはいきません。まだ、見て回りたい場所があるのです。春になったら、再びイオナに戻るつもりです。」
 「何処へゆくのだ」
 「それは、まだ分かりません」
傍らに居た、白髪のグロヌウが口を開いた。この男は、魔術の心得ある占い師でもあった。
 「この者は、何かを探しておるのでしょう。わしが見たところ、この若者には、三つの呪いがかかっておるようだ。」
スェウは、少なからず驚いた。グウィディオンのほかに、全てを話したことは無かったからだ。
 身を乗り出し、プイスが問う。
 「呪いとな。それは、どのようなものだ。申してみよ」
 「この世のあらゆる種類の武器を手にすることが出来ず、あらゆる種族の女を妻とすることが出来ず、裏切りによって、ある方法で命を落とすだろうという呪いです」
さらに、グロヌウが言った。
 「それから、まだ解せぬことがある。グウィディオン殿に妻があったなどと終ぞ聞いたことが無いというのに、そなたには三人の母が居るようだ。その名を申してみよ」
 「白き手のアランロドと、忘却の貴婦人リアンノン。もう一人は、いまだお会いしたことがなく、確証が無いため、ここでは申し上げることが出来ません」
男は暗い瞳で炎を見つめ、じっと、何かの声に耳を傾けていた。やがて、言った。
 「そなたの言葉に、偽りは無いようだ。最後の一人が肝要だな。だが近い未来、そなたは、もう一人の母の産んだ兄弟に会うだろう」
 「相変わらず、恐ろしい男だ。貴殿は、神に逆らい、地に落とされた邪悪な精霊たちの友であるらしい」
サウィルは冷ややかな笑みを浮かべ、痩せた指で飾り皿に盛られた果実をひとつ、摘み上げた。グロヌウは、ふっと鼻を鳴らした。
 「ただの年の功よ。そんな大それたものではない。現に、この若者が訪ねて来ることは知らなんだ。」
 「先見の明あるそなたにも、予想外のことはあるというわけか。ではグロヌウよ、これから我らが如何にすると良いか。その答えは既に見えておるのか」
 「足りなんだ駒は揃いました。今であれば、答えることが出来ます。

 金の鬣が運びし便り、波を越えて
 黒き剣の嵐が 再び走り出すという
 われは答えを得る
 亡き王が告ぐる、そは烏たちを統べるもの
 誓いは などで破られん 


 …お分かりになりますかな」
サウィルは、薄い髭の下に笑みを浮かべた。
 「そなたの言いたいことは分かった。答えが得られただけでも、この宴も無駄なものではなかったようだ。」
そして、王と領主たちは、それきり難しい話を止め、めいめいに、飲んだり食べたり、当たり障りの無い話をして夜を過ごした。
 スェウは、歌の意味を解いた。
 グロヌウ・ペビルとサウィルは、グウィディオンを恐れ、彼がイヴァルド王との誓いを果たすと思っている。ダヴェドの王がどう思っているのかは、この一冬の間に分かるだろう。


 澄んだ冷たい冬の空から、月が冴え冴えと照らしていた。
 祝いの宴はまだ、テントの幾つかで続いていたが、ほとんどの者は、寝静まっている。
 スェウは、肉と牙とを抜き取られ、皮だけになって台所の隅に吊るされている、トゥルッフ・トゥルウィスのところへ行った。
 彼は問うた。
 「今一度、あなたと語りたい。魂はまだ、そこにおられるのでしょう」
途端に、がらんどうになった毛皮の目の奥に、燐光のような炎が灯った。そして何処からともなく、低い、唸るような声が聞こえてきた。
 「我をこんな忌々しい姿に変えておいて、なおも呼び覚ますか。だが、わしを屈させた者の望みとあらば、返事をせぬわけにはいかぬ」
 「お静かに。苦しめるつもりはないのです。ただ、あなたに聞いてみたいことがあったのです。あなたの父は誰か。母君は、いずこへゆかれたのか」
毛皮の奥に揺らめく燐光が答える。
 「我に父はなく、母は人間に狩られて、とうに死んだ。それはそれは大きな、見事な猪であったが。」
 「では、あなたは人であったことは無かったのですか。」
 「そなたとは違ってな。」
低く、笑い声が聞こえた。
 「さあ、もう逝かせてくれ。そして二度と目覚めさせないでくれ。わしはお前に、肉を与えた。お前はそれを食らい、わしの力を手に入れて、以前よりも強くなるだろう。この世のあらゆる武器は手に出来ぬだろうが、わしの牙から削りだされる小刀は、どうだろうか。」
 「試してみます。ありがとう、ダヴェドを統べる獣たちの王よ」
青い炎は満足げに、ゆっくりと小さくなり、闇に溶けて、すぐに見えなくなった。
 スェウは、そっと台所を出ると、厩に行き、ヌウィブレを伴って夜の草原に出かけた。

 淡い月だけの照らす闇の中でも、折れた牙はすぐに見分けがついた。それは、空から落ちた銀の、星の欠片のように輝いていた。
 牙は大きく三日月形に反り、人の肘から手のひらほどの長さがあった。表面は硬く滑らかで、叩くと金属のような音を立てるのだった。
 彼はそれを大事にとっておき、頃合いを見ては、小さな皮はぎナイフひとつで鋭く削り出した。
 そうして作られたスェウの短剣は軽く、鋭く、いかなる鉄の武器にも勝る働きをしたと伝えられている。


前へ  表紙へ  次へ