◆26


 堂々とした船出だった。見送りに来た人々は、みな、スェウが行ってしまうのを悲しんだ。このまま戻ってこなかったらどうするのか、と誰かが言った。
 「それは無い」
と、ブレイドゥンは自信をもって答えた。「来年には、必ず、戻るだろう。」
 帆柱にはダヴェドのしるしがはためき、荷をすべて降ろした船の中は、ほぼがらんどうで、船足は速かった。
 風を受けて、船は港を離れた。イオナの島を大きく回りこんで、ダヴェドの地への旅は、通常で十日ほど。

 海は、スェウの心を掻き立てた。何か足りぬものが、その深い青の奥に沈んでいるような気がした。海に吹く風は、それまでに感じたどのような風とも違い、海を照らす光は、どのような光よりも強かった。
 初めて海の上で眠った晩、彼は、ひどくうなされる夢を見た。月に照らされたほの暗い水の底から、白い手が伸びてきて、彼の腕を掴もうとするのだった。
 二晩めには、その手の先に、枯れた海草を丸めたような頭が見えた。スェウは跳ね起きて、看板に上がった。ちょうど、見張りの男が槍を抱えてじっと、海面を見つめていた。
 男は、客人が険しい顔つきで現れたのを見て、ひとつ頷き、海のほうにあごをしゃくった。
 「ディラン・エイル・トン<海の波の息子>だ。俺たちは、そう呼んでいる。」
小さな泡が、ぷくぷくと、船から離れてゆくところだった。
 「人ですか?」
 「さあ、分からん。昔から、この島のあたりの海に、よく出るものだ。特にこんな、月の綺麗な晩には」
男の言葉には、ひどいダヴェド訛りがあったが、通じぬほどではなかった。
 「海には怪物が多い。すべての河が流れ込む場所、すべての生き物が最後に行き着く場所だからな。時々、死んだ家畜が浮かんでいることもあるが。中には、棄てられた赤ん坊もいたかもしれん」
スェウは、波間に消えた影が再び浮かび上がりはしないかと、目を凝らした。だが、その日も、また次の日も、不思議な波の息子は現れなかった。
 そのうち、雲が出た。
 風が強く吹き始め、船は予定よりも早く、港に着くことになった。

 岩だらけの浅瀬を挟んで向かい側には、イオナの岸辺が霞んで見える。二つの国は、それほど近かった。
 港はそれほど大きくなく、雪の季節を前にして、人々は支度に追われていた。だがダヴェドは、イオナよりも暖かいようだった。スェウが船を下りると、何よりもまず、その輝くような金の髪が人々の目を惹いた。もう少し年が長けていれば、港の娘たちはみな、顔を赤らめたことだろう。
 「ここでお別れだ。王の館へ行くのなら道なりに真っ直ぐ行くといい」
 「ありがとう」
船乗りたちに礼を述べ、スェウは、リドランを発つときに従兄弟のヘドゥンから託されていた品のうちいくばくかを、彼らに渡した。それで、あの子は物惜しみしない大人になるだろう、という、大層な評判になった。

 ところで、船が港に着いた頃、ダヴェドの王は留守だった。島の反対側にある草原で、宴の席を設けているとのことだった。客がいかなる身分の者かは、誰も知らなかった。館で客人を迎えないのも、みなに、誰と何を相談しているのか、知られぬようにするためかもしれなかった。詳しい宴の状況も分からず、スェウは、しばらく町を見て回ることにした。
 町には、ブレイドゥンに教えられたとおりの建物が立ち並び、教えられたとおりのことが起こり、教えられたとおりの人々が住んでいた。スェウは何も恐れず、戸惑うこともなく、まるで昔からその町に住んでいたように振舞うことが出来た。

 港町は質素だったが、王の館は豪華絢爛。王に仕える堂々とした騎士たちが、町中のいたるところを闊歩している。
 王の館は深い森に包まれ、港からは、てっぺんの、はためく旗しか見えない。
 スェウは深いフードのついた外套を被り、異国から来た旅人の装いのまま、城のある森に出かけてみた。
 その城は、深い堀に囲まれていた。中から風に乗って楽しい音楽が聞こえ、城壁に伝う蔓には、よい香りのする花が咲いている。奏でられる弦楽器の音色に惹かれて塔の一つに近づいたスェウは、窓辺に腰掛けている、深い黄色の髪を持つ少女に気がついた。少女もまた、自分を見上げている者がいることに気がついた。
 「あなたは、どなた?」
驚いたように、少女は言った。町の人間や旅人が入ってこられる場所では無かったからだ。
 「用も無いのに城に近付くと、衛兵に捕まってしまうわよ」
 「すぐに去ります。でも、もしもご存知であるならば、一つ教えてください。王が迎えている客人は、どなたでしょうか?」
少女はじっとスェウを見、その声と姿から、外套の下に隠れているのが、まだ一人前とは言えず、少年と呼ぶべき年頃であることを知った。
 「それはイストラドの領主、グロヌウ・ペビル殿。アルヴォンの領主、サウィル殿。お二人それぞれが十人の供を連れ、王ご自身は二十人の供を連れて、島の東にある館に行かれています」
 「お礼申し上げます、姫君」
 「プイス王にお会いになるの?」
スェウが立ち去りかけたとき、少女は窓の中に立ち上がり、宙に手を差し伸べた。
 「ならば、お気をつけて。父は今、狩りをしておいでなのです」
少年は頷き、優しい笑みで答えた。
 「お気遣いに感謝いたします。機があれば、再び見えることになりましょう」
少女は満足して、窓を閉ざした。スェウは来た時と同じように、そっと、城の森から立ち去って、町へと戻った。
 それがブレイドゥンの思い人、オルウェンであった。


 オルウェン姫と別れた後、彼はすぐさま町の外へと馬を走らせた。石ころだらけの走りにくい土地ではあったが、比類なき馬ヌウィブレは、まるで鳥のように駆けた。そして、並みの馬であれば数日かかるであろう道のりだったが、半日後には、早くも辿りついていたのだった。

 王の天幕は、草原の真ん中に立っていた。白い、大きな幕の上に、王国の旗がはためき、周りには柵が巡らされ、不審な者に眼を光らせる兵がいた。
 近づくにつれ、スェウにもはっきりと、その様子が見えるようになっていた。
 「止まれ!」
兵らが槍を構え、馬の行く手を阻んだ。「どこへ行く。何者だ」
 「リドランより参った、スェウと申します。ダヴェドの王に、ご挨拶に参りました」
声の幼さに兵は眉をしかめた。
 「リドランの…何だと?」
 「では、こうお伝えください。リドランの領主、ヘドゥンの従兄弟がご挨拶に参ったと。聞けば、イストラドとアルヴォンの領主殿もおられるとか。お二人にも、ご挨拶申し上げたい」
兵たちは顔を見合わせ、どうやらこれは、取り次いだほうが良さそうだと判断した。一人が、王に報せに天幕へと走った。
 「申し上げます」
兵は主たちの宴の席に割って入った。
 「王、おもてに、リドランの領主、ヘドゥンの従兄弟と申す少年が参っております。見たところ、身なりは質素ですが、実に優美な若駒に乗り、口調も堂々としておりますが」
 「ほう。リドランの縁者と」
奥に居た、年かさの男が杯から顔を上げた。
 「それはまた面妖な、リドランの領主に従兄弟がおるなどとは、聞いたこともない」
もう一人の、側にいたやや若い陰鬱な顔の男が言う。
 「さりとて、顔も見ずに追い返すわけにもいくまい。ここへ通せ」
 「は」
下がった従者は、間もなく、一人の少年を伴って戻ってきた。
 その子供は、七歳か八歳ほどに見えた。肌の色は白く、はりがあり、冷たい風を切ってきたせいで、頬には微かな紅がさしている。ほっそりとしていたが、見るからに俊敏そうだった。三人の領主たちは、しばし、食い入るように、少年の顔を見つめていた。
 やがて、ほう、と、ため息をついたのは、座で最も年かさの男、白髪のグロヌウだった。
 「なんと不思議なことか。亡き王の幼き頃にに生き写しの顔立ちが、そこにある。これは魔女の仕業か、そなたは何者だ」
 「グウィデイオンの息子、スェウです。父に代わり、ダヴェドの王と、イオナの七つの領地のご領主がたにご挨拶申し上げます」
名を聞いて、もう一人、痩せのサウィルの顔色が変わった。
 「この席で、呪われたあの男の名を口にするとは。そなたが、あの男の息子だと?」
 「そうです」
 「ならば、ヘドゥン殿の父の兄の子、確かに従兄弟である、というわけだ。」
奥の高座から、プイス王が陽気な声で言った。
 「さ、わしの傍らへかけるが良い、良き子よ。そなたは何ゆえにここへ参った。そなたの父は、一緒ではないのか?」
スェウは、王のすぐ右手の席に腰を下ろした。二人の領主たちよりも近い席だった。
 「父は、別の旅に出てしまわれました。僕は船に乗ってみたかったのです。それで、従兄弟のヘッフドゥンに頼んで乗せてもらいました。」
 「そうか、そうか。若いうちは各地を見て回るのが良い。」
 「だが、年長の者たちの酒盛りに加わるのは、いささか早すぎたやもしれんな」
呟いて、グロヌウは、杯をぐいと一気にあおった。
 「子供がいては、話も出来ぬ」
 「よいでは無いか。そなたたちとは、もう七晩もこうして語り合っておるのに、議論は一向に進まぬ。いずれも、本音を言わぬのでな。」
サウィルが苦笑いした。
 「それも、このような席では。話し合いが進まぬのであれば、いっそ気分を変えてはいかがです。明日は、本当に猪を狩り出しに行くことにいたしましょう」
 「左様。我らがこうして、野に幕を張ったるのは、来る日に備えてのこと。」
スェウは行儀良く、大人たちの語るのに耳を傾けた。プイスは、少年の瞳を覗き込んだ。
 「我らは、この原を荒らしまわっておる猪の長を仕留めに来たのだが。どうだ、そなたも参加してみるか」
 「喜んで」
少年は微笑んだ。
 「ですが、僕には弓も槍も無いのです」
人々はそれを、冗談と思った。あるいは、臆病さを隠すための巧みな言葉だと、
 スェウの、一度も鋏を入れていない金の髪は長く、解けば、肩まで覆い隠すほどだった。
 少女にしても美しすぎる、中性的な顔立ちは、娘のなりをすれば、決して見破れないとも思われた。
 忘れ去られていた不吉な名を耳にして警戒した王の従者たちも、その息子が、まるで少女のように華奢なのを見て、安心していた。そして早くも、嘲りを心に生んだのだった。

 人の心とは、かくも浅いものか、見たものをやすやすと信じ、その本質を見抜く者は、ごく稀なのである。
 だが、彼らはすぐに、知ることになる。


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