◆25


 森の木々が色づき始め、秋は、密やかな足取りで、自らの訪れ人々の耳に囁いて回る。夏は一瞬ののちに消え去り、秋は足早に過ぎ去って、やがては冬がやってくる。
 長く、雪に閉ざされた季節が。
 三月めが、訪れようとしていた。

 「忘れ物です」
スェウは、黒い雌馬を厩から出して、出かける支度をしている父に、手袋を差し出した。馬で走れば指先は冷たくなる。グウィディオンは、スェウをまじまじと見た。ここに来た時とは比べ物にならないくらい、少年らしくなっていた。
 「大きくなったな。」
 「はい。ブレイドゥンが、そのうち背を抜かれるんじゃないかと怒っていました」
そう言って、スェウは微笑んだ。
 「一緒に行くか。」
 「はい。すぐに支度します」
グウィディオンは、自分の口元に笑みが浮かんだのに気づいて、片手でそれを覆い隠した。微笑むことなど、とうの昔に忘れていた。失ったものを取り戻すことは出来ないのだ。代わりのもので埋めることは出来るかもしれないが。
 スェウは、自分の馬に鞍を置いて戻ってきた。二人は並んで馬を進めた。
 「ブレイドゥンは、どうしている」
 「狩りに出ました。ついでに、山の珍味を集めて来ると。茸を採るのは秘密の場所だから、教えてはくれないのだそうです。」
 「そうか」
彼らのために館の門が開かれ、番人たちが頭を垂れた。
 グウィディオンは、どこへ行くのかを告げなかった。

 「もうじきですね」
 「ああ。」
馬は、山の斜面に向いていた。関所のある道ではなく、森でもない。そこは断崖の先にある、高台だった。どこにも行けないが、海と、リドランの向こうに広がるイオナの草原が見渡せる。銀の流れを成すティレ河は、断崖のふもとを削りながら、海へと続いていた。
 グウィディオンは、高台の上で馬の歩みを止めた。ヴィンドは鼻を鳴らし、潮風に鬣をばら撒いた。
 「そうだ。ここに来てから三月、俺は、ずっと、ひとつところで人々をつぶさに見てきた。リドランだけではない、他の領地もだ」
 「父さんの目は、よく見えるんですね。でも、全て見えますか。この島には、七人の領主がいるのだと聞きました」
スェウは、金の馬から飛び降りた。
 「そのうちの一人がヘドゥン。もう一人は、エッセネにいるのでしょう」
 「ブレイドゥンに聞いたか?」
 「ヘッフドゥンです。それから、マース公はかつて、アベルフラウの領主だったとも。そこは今では、公の縁者たちが守っているとか。」
グウィディオンは、声をたてて笑った。
 「もはやお前は雛鳥ではない。再び春になれば、一人前の男と呼ばれよう」
男が馬を下りるとき、剣の鞘が、くつわに当たり、高い音をたてて鳴った。
 「見るがいい、イオナの平原を。かつて、ルヴァインの大軍が押し寄せたとき、あそこは、ティレ河を挟んで決戦場となったのだ。河は血で赤く染まり、死者は、はるか沖合いまで流された。残った者たちは、砦に立て篭もり、王が倒れるまで、戦い続けたのだ。」
グウィディオンは、瞳に映る風景に、過去を重ねているようだった。スェウにも見えた。だが、彼に見えたのは、過ぐる世ではなく、これからのことだった。
 やがて、言った。
 「お前の考えていることは、俺と同じだろう。残るは、四つの領地だ。しかしもっと気になるものはが海を越えた先にいる。ダヴェドの王だ」
 「かの地を、知っているのですか」
 「いや。俺は知らぬ。行ってみたこともない。俺では、商船には乗せてもらえぬからな。」
スェウは、その時が来たのだと悟った。少し前から、予想していたことだった。
 男は振り向いて、両手で少年を抱いた。かつて片手でも軽々と抱き上げられるほどだった子供は、今や、彼の両腕をもってしても、覆い隠すことの出来ないほどに成長していた。
 「ここで別れだ。俺はすべてをお前に教え、生きるすべを覚えた。最後にひとつだけ言おう。どんな時にも、逃げてはならぬ。だが、歩みを止めることは、決して臆病なことではない。」
二年目の冬が足早に、海辺に寄せつつあった。実り多き秋は、獣たちにとっても、別れの季節。

 このようにして、彼らは分かれた。父と子であり、最良の友であり、魂を分け合う者たちは、互いの姿の見えぬ場所へ行くことを決めた。
 黒い雌馬の足音が遠くなり、やがて完全に消えうせた頃、スェウは、流れてゆく河から目を上げ、傍らに立つ金の毛並みの馬に飛び乗った。
 港に停泊する船は増えたが、これから出航するという船は少なかった。中でも、橙と緑の旗の船は。

 館には、珍しくヘドゥンとヘッフドゥンが居た。彼らは奥の間でひそひそと何か話し合っており、スェウが入ってきたのに気づくと、慌てて居住まいを正した。
 「早い戻りだな。伯父上と一緒に出かけたと聞いたが、一緒ではないのか。」
 「父は、発ちました」
少年は率直に答えた。ヘドゥンは意表を突かれたといった様子で、しばらく、口も開かない。
 「急な思い立ちで別れの挨拶もなく、申し訳ないと。僕も行きます。そのための、お願いに上がりました」
 「待て待て、伯父上は、一体どこへ行かれたのだ。あとから追いかけるつもりなのか?」
 「いえ――」
スェウは、微かな笑みをたたえて、答えた。
 「何処へ行ったのかは、分かりません。ただ行くとだけ。僕は、ダヴェドへ行ってみようと思います。」
 「ダヴェドへ?」
ヘッフドゥンが額にしわを寄せた。
 「そうです。船に乗ってみたいのです。ルヴァインでは遠すぎますので」
 「では、いま港に停泊している商船に、お前が話をつけてやれ」
館の主が、弟に命じた。
 「願いとは、そのことだろう」
 「そうです。」
彼らは、館の中から威圧的な影が消えることに安堵していた。と同時に、なぜ急に発ったのかと、訝しくもあったのだが。
 「しかし、ダヴェドとは。」
ヘッフドゥンは、奇妙な愛想笑いを浮かべながら、呟いた。「あんな恐ろしの地に、行きたい者がおるとはな」
 そして、慌てて誤魔化すように、こう付け加えた。
 「かの地には、多くの不思議があるという。お前の手に触れられる武器も、あるやも知れんぞ。」
 「そうだと良いのですがね。」
それきり、会話はそこで途切れた。
 スェウは従兄弟たちに軽く退出を述べ、踵を返し、部屋を出ようとした。その背に、ぼそぼそとした声が聞こえた。
 「伯父上が何を考えているのか、良く分からぬ。あのような年の子を、置き去りにするとはな」
 「だが、ここに残られても――」
スェウは何も聞こえなかったふりをして、部屋を出た。


 元気のよい吼え声がして、猟犬たちが帰ってきた。率いるのは、ブレイドゥンだ。馬の背には、木の実や茸、射落としたばかりの鳥が山と詰まれている。
 スェウはベンチに座って、ブレイドゥンが大股に近づいてくるのを待った。
 「聞いたぞ。明日にも発つと?」
少年は、獣の血と泥に汚れた上着を地面に投げ捨て、頭についた落ち葉を払って、荒々しく隣に腰を下ろした。 
 「怒っているのか」
 「当たり前だ。一言も相談せずに行ってしまうなんて。伯父上は何を考えて――」
 「僕にも何も相談はしなかった」
スェウの静かな目と言葉が、逆立つ狼の毛を撫で付ける。
 「そういう人だ。何処に行くかも聞いていない。」
 「…それで、いいのか。お前は」
最初の興奮は収まっていた。ブレイドゥンは、スェウが頷くのを見て、大きな溜息をついた。
 「止めても無駄なようだな。なら、せめて盛大に送り出してやろう。今夜は別れの宴だ。それから、ダヴェドへ持っていく品を用意させよう」
 「ありがとう、ブレイドゥン。君は、ダヴェドへ行ったことが?」
 「ある」
浅黒い少年の顔に、かすかに紅い色が浮かんだ。
 「何年も前のことだが、船の積荷にもぐりこんで、冒険をしたことがあったのだ。着いた先がダヴェドだった。船乗りたちは密航者のオレをつまみ出したが、そこは美しい都だった。オレは半年ほどぶらつき、やがて、兄たちの使者に見つかって、連れ戻された。滞在の間、ダヴェドの王プイスの娘に会うことも出来た。その名は、オルウェンという。」
 「君が妻に迎えたい人だね」
 「…そうだ。」
ブレイドゥンにしては珍しく、もじもじと、背を曲げた。
 「行くのであれば、あの人がどうしているのかを見て来てはくれないだろうか。だが、心配だ。お前は、とても立派だから――」
 「誓って。僕には、君の思い人を奪うような真似は出来ないよ」
スェウは約束した。
 ブレイドゥンは、むっとして、年下のくせに生意気だと言い返したが、その言葉には、勢いが無かった。

 夜は、盛大な宴が催された。
 ヘッフドゥンはその日のうちに、ダヴェドの船に話をつけた。路銀と、立派な衣装箱が与えられたが、スェウはほんの少しだけをとっておき、残りは、あとで館の人々に分け与えた。
 館の主は始終陽気に振る舞っていた。
 そして、宴のはねたあと、ブレイドゥンは、部屋にスェウを呼び、自分の知る限りのダヴェドのことを、事細かに教え込んだのだった。


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