◆23


 いつものように、馬を走らせて戻った夕刻だった。
 回廊を歩いていたスェウは、テラスに黒く、わだかまる影のように佇むグウィディオンに気づいた。
 ここへ来てから、ほとんど館を出ることは無く、町の人々に姿を身せることも無い。人々が、望まれざる男の存在を忘れるように、つとめて、息を潜めているかのように思われた。
 この日も、グウィディオンは館の人気のない場所に、不動のままで立っていた。珍しく物思いに耽っているようで、スェウが近づくのにも、気づいていなかった。
 傍らの柱には、ここに来てからも片時も離したことのない大剣が、いつでも抜ける場所に立てかけられていた。

 スェウが、すぐ近くまで寄ったとき、はじめて、グウィディオンは顔を上げた。
 「戻ったのか。」
 「はい」
男は、腕を上げたが、以前のように、子供の頭を撫でることはせず、肩に手を置き、側に引き寄せた。暗い色をした、長いローブの端がさらさらと音を立てた。
 「…聞いても、いいですか」
 「何だ。」
 「父さんが、イヴァルド王とした約束というのは、何だったのでしょうか。」
囁くように、静かに。スェウは、かつてグウィディオンが漏らした一言を、覚えていたのだ。
 しばしの沈黙のあと、男は、重い口を開いた。
 「それはな。」
夕日の作る長い影が、石段の上に落ちていた。この季節には珍しく、空気は冷え、山を降りてくる冷気と海の熱とがぶつかって、空に霞がかかり、日は輪郭を失っている。
 「イオナを守るというものだ。王が倒れれば、いずれ必ず、イオナに反旗を翻す者が出る。そのとき代わりに戦って欲しいと言ったのだ。俺は、俺自身の命にかけて、リドランにだけは決して、イオナを討ち取らせまい、と誓った。」
ああ、と、スェウはため息をついた。そのために、グウィディオンは此処へ戻ったのだ。
 「イヴァルドは、俺の膝の上で死んだ。命を懸けた願いを断れるものか。だが俺は、伝説に謳われるような半神の英雄ではない。鋼のような皮膚も、不死身の肉も持っていない。軍勢を前に、ただ一人で立ち向かえば死ぬだろう。出来ぬ約束を出来ると言えば嘘になる。だからこそ、リドランにだけは、と。――そう、誓った」
 「止められるでしょうか」
スェウは真っ直ぐに、男の顔を見上げた。その唇から、聡明な言葉が流れ出る。
 「港にはルヴァインだけではなく、ダヴェドの船も来るのです。ルヴァインの船からは、各国を渡り歩いた行商人と荒くれの戦士たちが、ダヴェドの船からは珍しい衣装で着飾った貴人たちが、降りてきます。」
 「お前の言いたいことはよく分かる。だからこそ、俺は、お前をブレイドゥンの友とした。」
風が出たのだろうか。かさかさと、庭の隅で生垣が揺れ始めた。生ぬるく、臭い風が一筋、通り抜ける。
 スェウは、急いで言った。
 「もはや、気づかれています。」
 「分かっている。約束は守らねばならぬ」
言うなり、グウィディオンは子供を突き飛ばし、剣を掴んだ。と同時に、目標の動きを察した茂みの中の襲撃者たちが、大きく跳躍した――
 スェウは鈍いひらめきが空を切るのを、視界の端で捕らえた。
 「不埒な者どもめ。この俺に剣を向けたこと、後悔するが良い!」
吼えるグウィディオンの声は館の壁を震わし、夕餉の支度に取り掛かっていた人々を、何事かと振り返らせた。中庭に鋭い剣戟が響き渡り、血潮が飛ぶのを目の当たりにした運の悪い飯炊き女は、年に似合わず甲高い金切り声を上げ、それきり、唸ってひっくり返ってしまった。
 使用人たちが慌てて走り出した。ある者は館の主人を呼びに、また、ある者は、どうしてよいか分からずに、ただ戦いだ、人殺しだと叫びながら。
 突き倒されたスェウは、大きく目を見開いて、グウィディオンが大剣を振るうのを見ていた。霧にかすむ山に暮れてゆく日が空を赤く照らし、ローブが鴉の翼のように大きく広がった。
 多勢に無勢、だが、力強い一振りが最初の男を切り捨てるや、グウィディオンに近づこうとした者たちは怖気づいた。
 スェウは盾のことを思い出して、館へと駆け戻った。怯え無き騒ぐ女たちの声が廊下にけたたましく響き渡っている。

 戻ったとき、グウィディオンは防戦一方だった。盾がなく、右手の剣だけで、すべての攻撃を受け流している。
 「父さん!」
叫ぶなり、スェウは窓から力いっぱい盾を放り投げた。グウィディオンは振り返り、左手をあげ、宙ではっしとそれを受け止める。すると、見よ、彼は今や一騎当千とばかり、一人で十人もの男たちを相手取り、一歩も退かず次から次へと斬り伏せていくではないか。盾は突いても切りつけても、びくともしなかった。だがスェウは、胸騒ぎを感じて、窓から身を乗り出し、暗がりの中に目を凝らしていた。
 その時だった。何かが、グウィディオンの背後で光った。隠れた射手が、矢を番えようとしているのだ。
 「危ない!」
咄嗟に、スェウは手元にあった燭台を掴んだ。まだ火の点されていない蝋燭が転げ落ちる。
 それを思い切り、茂みの中めがけて、投げつけた。

 矢はまだ、番えられてから、弓づるを離れていなかった。それほど、少年の腕の振りは速かった。
 雷光のように、思いもよらぬところから投げつけられた鉄の燭台を額に受けて、射手は、うんと一言唸ったきり、ばったりと倒れた。手から弓と矢が転げ落ちる。
 それを見るなり、生き残っていた襲撃者のひとりが、異国語で何かを叫んだ。グウィディオンと剣を打ち合わせていた者たちが一斉に振り返った。頭巾に顔を隠した彼らの目が宙を仰ぎ、浮き足立った。
 別の声が、退却を意味すると思われる言葉を叫んだ。すべての者が従った。もともと、そこにいた者を除いては。

 肩で大きく息をつきながら、グウィディオンは、剣を収めた。傷は、右腕に軽く負っただけだ。重たい盾をどすんと落とし、左手を開ける。
 彼は、倒れた男に近づくと、その首筋に開いた左手を当てた。指先には、脈動は伝わってこない。
 「死んでいる」
呆然とした口調でつぶやき、額から流れる血を指先でぬぐって確かめ、死んだ男の頭巾を剥がす。
 そこには、目を見開き、突然の死に対する驚きで硬直したままの、若い男の顔があった。
 「率いていた者が死んだので、皆、引き上げて行ったのだな。だが…」
凶器の燭台は、そこに落ちていた。グウィディオンは立ち尽くしているスェウを見つめた。

 すべては運命だったのだ、と、言ってしまえば事足りる。状況を知れば誰一人、スェウを責める者は、いなかったであろう。しかし彼は、自らのしでかした、意図せぬ結果に怯え、戸惑っていた。
 「ごめんなさい…」
グウィディオンの表情を見つめたまま、スェウは、小さく震えながら謝った。
 少年の頬に、大粒の涙が伝い落ちた。グウィディオンは、身に飛び散る血飛沫も構わず、子供を強く、抱き寄せた。かつて暗い夜道で、二人きりの時にそうしたように、だ。

 間もなく館の主と、警備の兵たちが駆けつけ、グウィディオンの無事と、倒された侵入者たちとを見て、何が起きたのかを悟った。この人数をよくぞ一人で防いだものだ、さすがは、かつて王国の守護者だった稀代の勇士と皆が褒めた。
 だが彼らは、ついぞ、幼い少年による殺人に、気づくことは無かったのだった。


 館から運び出された死者は、全部で八人いた。みな、一瞬にして命を絶たれた者たちだった。
 報せを聞いて馳せ戻って来たヘッフドゥンは、召使いたちが血を洗い流している館のポーチを見るや、青ざめた顔をして、立ち尽くした。
 グウィディオンは、甥の肩を叩き、傷だらけの盾を見せた。
 「早速、役に立ったな」
それを嫌味ととらえたヘッフドゥンは、目を血走らせ、唇を噛んだ。
 「この館で、血が流されるとは何たることか。争いを、この庭にまで引き込むとは。伯父上、あなたがお戻りにならなければこのような」 
 「よさんか。父の兄に対して何という言い草だ。」
死者を運び出す指示を出していたヘドゥンが言った。だが、館の主である、この年若い男も、浮かぬ顔つきである。
 「お前たち、自ら剣を握ったことはあるのか。一方的に狩られる森の獣たちではなく、剣を向ければ向け返す、二本足の獣の切れ味を知っているか。」
グウィディオンは、甥たちを見下ろして太い声で問うた。
 「ございません、伯父上。我らは戦を好みませぬゆえ」
 「ならば、よくよく心しておくのだな。この世には因業というものがある。父を殺せば子が、友を殺せばその友が、剣を持つ。復讐は、ともすれば自らを滅ぼすこともあるのだ。剣を持つとは、そういうことだ。また自分で持たずとも、人に持たせれば同じこと」
若者たちの顔は、蒼白になっていた。灯りに照らされた男の影はあまりに大きく、血を拭ったまま下げられた剣は、闇の中で凄みを増していた。
 「あれは、ルヴァインの者か」
グウィディオンは、死者を検分していた老人に尋ねた。古参の従者であるその老人は、グウィディオンが幼い頃から、この館に仕える者のひとりだった。
 「そのようです」
老人は、死者の見開いた瞼を閉じたその指で、遺品のひとつを摘みあげた。金の鎖につながれた、小さなコインが揺れる。コンイのおもてには、波と、怪魚が刻まれている。
 「グウィディオン殿、この紋章に見覚えがございますか。」
 「それはルヴァインで鋳造される、記念のコインだ。王の従者が持つ品だろう」
ヘッフドゥンの頬はますます白く、強く噛まれた唇は紅い。
 「さて。もう充分であろう。」
彼はそれきり会話を打ち切り、後の始末を館の主の手に委ねた。そこには、ブレイドゥンの姿は無かった。そしてスェウも、いつのまにか見えなくなっていた。
 「今夜からは、館の警護を増やすが良い。これ以上、館の敷居のうちで血が流されぬよう」
 「もとより、そのつもりです」
背高き青年は毅然とした顔で答え、使用人たちに指示をするため、声を張り上げ始めた。


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