◆2


 夜明けの時が遠ければ、月はいつまでも西の空に輝き続け、
沈むことは無い
 まことの血ならずとも、血の契りは決して破られることなく、
 黄金の樹は枝をからめる



 かつて英雄と呼ばれた者は、生まれて一晩すると戦いはじめ、生まれて三日すると、人を殺すことを覚えたという。
 だがグウィディオンは、その子をずっと抱いていて、戦いには行かせなかった。その子に何がしかの力があるにせよ、決してその運命に従わせようとはしなかった。
 特異な生まれをした子供たちの多くは、生まれてすぐに、獣のようにひとり立ちする。
 この子供も、三日もすると、ひとりで這って歩くことが出来るようになり、一週間もすると、両足で立ってよちよちと歩くようになっていた。そして、そこらのものに興味を示すようになった。
 だが、剣には触れなかった。無骨な男の、逞しい両腕の中だけが、その子に与えられた世界だった。宿命と運命の妖精とて、その鉄のかいなを開かせることは、出来なかったのである。

 男は、もう長いこと放浪の旅を続けていた。
 その旅は何年にも及び、この島の、ありとあらゆる場所へ行った。短期間だけどこかに雇われ、仕事をすることもあった。もとより当てのない旅、道など無いも同然だった。
 イオナが故郷だと村人たちには言ったが、その町へは、もう何年も、足を踏み入れたことさえ無い。そこは飛び立てぬ鳥たちの住まい、翼もがれた鷹のみすぼらしく朽ち行く処。近くに寄ることさえ、彼には恐ろしく思えたのだ。
 屋敷は荒れ果て、人々はみな、去っただろう。縁者はほとんど残されておらず、町にはいない。男にも、かつては将来を誓い合った婦人はいたが、結局結ばれることはなく、それ以来、妻と呼ぶべき女性を持ったことも、おのが子を抱くことも知らなかった。
 そんな放浪者であっても、、その赤子を育てるのに、何の苦労もしなかった。
 母親の乳はいらなかった。ただ、旅の途中で立ち寄った村ごとに、コップ一杯の牛の乳を分けてもらうだけで、十分だったのだ。
 乳を温めてやる必要もなく、子供は、口元に乳をもっていくとひとりで飲んだ。そして、夜鳴きもせずに、ひとりすやすやと眠っていた。グウィディオンは、ただ、子が冷えぬよう、抱いているだけで十分だったのである。
 立てるようになり、ものを噛んで飲み込めるようになるにつれ、その子の風貌は、日増しに目立つようになっていった。
 名前の通り、スェウは、光輝くような髪をしていた。
 満月の光をこぼしたように、白い額に絹のように髪がかかり、瞳は深く澄んでいる。その子を産んだ、痩せた田舎の娘には、似ても似つかないものだった。父親がいるとすれば、その父親に似たのだろう、と、グウィディオンは思った。

 子の成長は、驚くほど早かった。
 普通の子供の何倍もの速さで、赤ん坊は幼児になり、幼い少年になって、ひとりで歩きまわるようになる。
 だが、それ以上、成長は早まることはなかった。
 まるで、生まれてすぐに、目を開き、耳も聞こえて、ひとりで歩き回ることを覚える野に住む動物の赤ん坊のように、なんとか人間らしく暮らせるまでしか、育たなかった。

 ちょうど、子供が生まれてから月が一巡りした頃だっただろうか。
 グウィディオンは、子供を連れて、ある小さな町の側の森に一夜の宿を求めた。その町は、裕福な貴族の治める、城壁に囲まれた立派な町だった。
 町を治めるのはかつて王から俸禄を受けていた領主たちの一人だったが、王家が没落した後は、誰の咎めも受けずその土地を我が物とし、成り上がってきた。そのような輩の中には、公然と王を自称し、かつての領地を自国とする者もいた。
 いまや、中央には、地方領主たちの思い上がりを正すほどの力は無い。
 王に忠誠を誓った心正しき者たちの邦(くに)が落ち、反逆の時を狙っていた心正しくない者たちの町が一国家のごとく栄えている。
 吟遊詩人たちは哀歌を奏で、過ぎ去りし栄光を懐かしむが、その嘆きもまた、滑稽なものと取れた。人々にとって、王が誰であろうと、大した違いは無かったのである。
 グウィディオンはいつも、日が暮れても町に近寄ろうとはせず、町で宿を取ることもなく、森や岩場の影で眠っていた。
 それは、子供を預かるより以前からの習慣だった。流れ者である彼には、宿を取るだけの金が、勿体無かったのである。

 はや、日は暮れようとしている。
 大きな樫の根元に乾いた木の枝を集めて、火を起こしていた。火打石を叩き合わせると、枯れ枝の上に火花が散り落ちる。白い煙が立ち昇り、やがて、小さな火が生まれた。
 子供は、ものめずらしそうに、じっとその手元を見詰めていた。
 「スェウ」
呼ばれて、少年は顔を上げた。自分の名前が分かるのだ。
 「ここへおいで」
グウィディオンは側に子供を呼び寄せて、木の枝を一本、握らせた。
 「火を起こす方法を教えてやろう。こうして、風を送って、細い枝から順番に燃え移らせる」
思えば、生まれて間もない子供に火を扱わせるなどおかしなことだったが、見た目は、もう、一人で火の番をするほどの年頃だった。
 辺りには暗がりが迫り、火の周りだけが明るく、温かだ。
 子供はじっと、青い瞳で形の無い火を見つめている。
 「面白いか?」
返事は無い。この子は、人の言うことは分かっても、まだ、自分からしゃべり出すことはしなかった。
 そして、ただの一度も、ほんのわずかな表情さえ、見せることがない。
 「…だがな、火は温かいだけじゃないぞ。放っておくと、どんどん広がってそのあたりのもの全て燃やしてしまう。何もなくなるんだ。扱うときは、よく注意するんだぞ。」
子供は、うなづきもせず、しかし、聞いていることだけは確かだった。
 意味を理解することは、していないのかもしれない。
 それとも、理解しても、何という顔をすればよいのかが分からないのか。
 グウィディオンは、一つ小さく溜息をついて、反応を引きだすことを諦めた。いずれ、この子供も自分で喋りだす時があるかもしれない、と。
 薪を火にくべ、森で拾った木の実を数え始めた。生で食べられるものもあれば、いちど火にかけないと食べられないものもある。彼は、それについても根気良く、この子供に教えようとしていた。
 「これは椎の実だ。つぶして、粉にして食べるものだが、焼いて食べることも出来る。これは茸だ。木の根元に生えているだろう。生では食うと、腹を壊す。」
だが、見つめているばかりで、やはり言葉は返さなかった。

 沈黙には、慣れている。
 グウィディオンは、長く一人で旅をしていた。旅の途中で、森の夜を過ごしても、返事を返す者など誰もいない。むしろ、自分から誰かに話しかけようとしていることが、驚きだった。
 この奇妙な子供には、何かが欠けている。その何かを、教えてやらなければならない気がした。


 夜更けの頃だった。
 森は寝静まり、町には明かりが幾つか、ぽつぽつと残っているばかり。
 月の輝く夜だった。
 町のあるじ夫妻が馬車で通りかかったのは、ちょうど、この時だった。隣の領地で賑やかな宴があり、その帰りに遅くなったのだ。
 森の縁に、偶然小さな火が燃えているのを見つけた領主の夫人は、あれは何かしらと指差して、夫に尋ねた。
 「無宿者が宿でも取っているのだろう。けしからんな、あそこの森は私の領内だ。火事にでもなったら、たまらん。おい、行って、追い出して来い」
領主は、護衛の兵士の一人を火に向かって送り出した。
 だが、帰ってきたとき、兵士の顔はこわばって、少し青ざめていた。
 無理です、追い出せません、とこの若い兵士は言った。相手は武装したならず者で、下手に声をかけると襲い掛かって来そうな雰囲気だったから、と。
 臆病者と主人が怒鳴りつけるより早く、叱られることを恐れた彼は、急いで付け加える。
 かたわらには、まだ幼い子供がひとり、    それも、ひとかたならぬ美しい子供が、ならず者と一緒に火を囲んでいた、と。
 この領主夫妻には、まだ子供が無かった。
 だが夫人は大の子供好きで、いつも子を欲しがっている。兵士は、婦人に子供のことを言えば、臆病風に吹かれたことを許してもらえると思ったのである。
 「まあ。それは可愛そうに。子供をかかえて、宿もないとは」
領主夫人は、ひどく深い溜息をついた。
 「彼らをここへ連れておいでなさい。今夜は町の宿を貸してあげるから、と言うのですよ。」
かしこまりました、と言って、兵士はすぐに火を差して戻っていった。領主は怪訝そうに言った。
 「子連れで旅をするならず者とは、珍しいな。どこかに母親がいるのだろうか。あるいは、もう亡くしてしまったのかな」
 「気になるのなら、問うてみればよろしいことでしょう。」
やがて、兵士は馬を引きながら、グウィディオンと子供を連れてきた。
 その子供をひとめ見るなり、領主夫人ははっとなり、金の髪に目を奪われた。

 それは、町のどんな子供たちとも違う、どこか高貴な雰囲気さえある不思議な子供だった。表情のない青い双の瞳は澄んで黄昏のあとの空のよう、色は白く、とてもおとなしそうに見えた。
 「まあ、なんて可愛らしい子でしょう。」
夫人は大喜びし、自ら馬車を降りて子供を抱き上げようとする。だが、グウィディオンは鋭い目をして、それを遮った。
 「奥様。お気遣いは嬉しいのですが、我々はあなたがたの客人になるほどの者ではありません。」
 「駄目ですよ、こんな小さな子に野宿をさせるのは、いけません。今宵はわたくしどものところへいらっしゃい。」
 「それに、私の森に火をつけられては、かなわんからな。」
領主が馬車の奥から、不機嫌そうに付け加えた。
 無理に抗うわけもいかず、グウィディオンは渋々、領主夫妻に従うことにした。一晩我慢すれば、明日には発てるものと思って。

 澄んだ天に高く、月は輝く。
 森は奇妙に静まり、獣たちの立てる物音さえ聞こえては来なかった。
 その町の名はエッセネといった。馬車の中から見える家々の窓には、はや霜が降りて、灰色の石畳が冷え冷えと、領主の館への道を作っていた。


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