◆18


 冬の濃い霧が晴れ、春は、静かに、だが浮き立つような足取りで、国中を歩き回った。
 野には瞬く間に緑が萌え、春が素足を下ろした場所には、黄色い、小さな花が咲き誇った。生まれたばかりの仔馬は鼻をひくつかせ、物珍しそうに、澄んだ青い空と、柔らかな地面とを眺めた。

 金の仔馬、ヌウィブレは、不思議と人を恐れなかった。特にスェウにはすぐに懐いてしまい、どこに行くにも、必ずついていくようになった。まだ人を乗せて走ることは出来なかったが、母馬とともに旅をすることには、抵抗が無いようだった。
 仔馬の金の鬣は、絹糸のように美しく輝いていた。
 深い青い瞳は、色の濃さから黒く見え、時おり、話しかけるようにじっと人の目を見つめていた。

 ヌウィブレは、生まれてすぐにスェウの馬となった。
 普通の仔馬たちの何倍もの早さで成長し、多くの仔馬たちの生まれてくる季節には、既に、スェウを背に乗せることも、出来るようになっていた。

 西の地を目指す旅の途中のこと、――それは、暖かな風が吹く、月の綺麗な夜だった。
 グウィディオンは、町外れにスェウを待たせて、町に出かけて行った。一晩帰らぬかもしれないという用事で、スェウは、二頭の馬とともに、森の木陰で夜を過ごしていた。
 以前は、どんなことがあっても必ず町に連れていったものだが、今は、グウィディオンだけで為さねばならぬ、秘密の用事がある。
 ことによっては、剣に関わることなのかもしれなかった。スェウは、まだ一度も、グウィディオンが、あの重々しい剣を抜いて振るうところを見たことが無い。それどころか戦う人々を見たことも無かったのだった。
 武器というものが、何をするものなのかを、知らなかった。
 それが人の命を奪うものであるという実感を持たなかったのだ。

 夜半過ぎた頃だったろうか。いつしか、うとうととしかかっていたスェウの袖を引いたのは、金色の仔馬だった。
 ヌウィブレは、深い色の瞳でスェウの顔を覗き込み、軽く鼻を鳴らし、森の奥を振り返った。そこに何かが感じられた。
 スェウは、立ったまま眠っているヴィンドの鼻面をそっと撫で、耳元に出かけてくることを囁き、仔馬を連れて歩き出した。

 闇は薄く、森はかすかに輝いて見えた。どこからともなく良い香りがして、くすくすと笑いあう少女たちの声を聞いた気がした。
 スェウは、何か、自分のよく知る光を見たような気がした。
 顔に金の縁取りで飾った薄いヴェールを下ろし、青白く輝く大きな馬に乗った貴婦人が、そこに、いた。

 森の奥は、盛り上がった小高い丘となっており、彼女は、その周りをゆっくりと回りながら、金の杖を空にむかって振るっていた。
 「さあ。おいで。おいで。わたしの子供たち」
馬の貴婦人が鈴の鳴るような声で歌うと、杖の先に、小さな輝きが生まれ、それが小さな子供になった。馬の周りについて回る、絹のドレスを来た少女たちが両手を差し伸べると、赤ん坊は次々に、その手の中に落ちてきて、彼女たちが胸に下げた籠の中に収められた。
 スェウは、驚いて、その杖の動きを眺めた。どう見ても宙にくるくると円を描いているようにしか見えないのに、その中から、赤ん坊が落ちてくるとは、どういうことだろう。そして、落ちてくる子供たちの、なんと小さいことか。みな、ようやっと人の形を成したばかりのように見えた。
 しゃん、しゃんと、青白い馬の足にくくりつけられた鈴が鳴る。
 「さあ。おいで。月の国へ行く子供たちよ。わたしの子供たちよ」
たまらず、スェウは一歩、進み出て、口を開いた。
 「あなたは誰ですか?」
ぴたりと馬が歩みを止めた。少女たちは慌ててくるりと身を翻し、花びらを残して、宙に掻き消えた。
 振り返った貴婦人は、片手で、ゆっくりと頭飾りのついた覆いの一方を上げた。白い美しい顔が現れた。彼女は、じっとスェウを見つめていた。
 「あなたは誰ですか。ここで、何をしているのですか?」
 「わたしは、黄金色に輝く三つの国の女王、リアンノン。スェウ、あなたこそ、ここで何をしているのですか?」
スェウは、その女性が、かつて自分の前に現れた運命を告げる老婆の主であることを知った。そして、自分の来た国の女王であることに気がついた。
 「僕は、僕の選んだつとめを果たしています」
 「そうですか。それは、良いことです。わたしも、ここで自分のつとめを果たしているのです」
女神とも、妖精ともつかぬ美しい女王は、馬を降りずに、スェウに近づいた。ヌウィブレは怯えて後退り、青白く輝く馬を睨み付けた。
 「さきほど、子供が宙から出てくるのが見えました。」
 「ええ。そうです」
 「あれは、どこから湧き出てくるのですか? どんな魔法でしょうか。」
リアンノンは、金の杖をスェウの頭に向けた。
 「運命が定めた、生まれるべき子供たちを、わたしが貰うのです。親たちは、子供が授かったことを忘れる。その喜びも、いとわしさも、あるいは出産の恐れさえも。そして何事もなかったように、また明日を暮らしてゆくのです。」
スェウは驚いて、思わず問うた。
 「何故、そんなことを?」
 「この地上には希望が無いからです。喜びは失われ、光はみな消えようとしています。子供たちは決して幸せにはなれないでしょう。だから、わたしが貰うのです。わたしの国には苦しみも悲しみもなく、穢れなき子らは、永遠に幸せに暮らせるのですから。」
言葉は、神々が人に与えたものだった。知恵は、この世の武器ではなかった。
 この世の武器は何も持たぬスェウが、ただ一つ、自由に扱えたもの、それは、言葉だった。
 「子供は希望なのだと、僕は聞きました。忘却の貴婦人、あなたのしていることは、母たちから喜びを奪い、父たちから誇りを奪うことです。地上から希望を消し去っているのは、あなたなのです」
饒舌な返事に、馬はよろめき、貴婦人は苦しげに呟いた。優しさを装おうとした言葉は、割れていた。
 「誰が、そのようなことを」
 「僕の父です。かつて、あなたがその身に呪いをかけた人です。」
 「あの男が。」
女王は、美しい唇を歪めた。
 「お前は最も称賛されるべき月の子でした。わたしの国の最高の誉れとなるはずだった」
 「それは、まことでしょうか? あなたは今、地上の子供たちを奪っていると告白したばかりなのに」
 「奪うのではありません。貰うのです、親たちが苦しみ、この世に産み落とすことを拒んだ子供を。つらいことばかりの溢れる、この地上に生まれることを拒んだ子供たちが、わたしの声に答えるのです。楽しく、暖かな永遠の園へいらっしゃいと呼びかけると、子供たちは、自分からわたしの子になるのです。」
スェウは、かぶりを振った。
 「僕は自分で、選びました。運命を知る女王、どうか仰ってください。忘却の魔法が人々に忘れさせても、父は覚えています。かつて、父の花嫁が産んだ最初の子は、今、どこにいるのですか? 運命は、僕を誰に定めていたのですか?」
 「わたしは、知りません。」
リアンノンは、きっぱりと言って杖を一振りした。先ほどの少女たちが、花を振りまきながら現れて、女王の周りを取り囲んだ。
 「その運命を定めたのは、わたしではないわ。そして、あらゆる運命を自在にするわたしにも、出来ないことはある。それは、運命によって人を殺すこと。出来ることなら、思い上がったあの男、わたしを拒絶した、あの傲慢な男を殺してやりたかった。あるいは、あの男の寵愛を受けた女を殺してやりたかった。けれどそれは出来なかったので、死よりも辛い苦しみを与えてあげたのよ。その呪いは、わたしにも解くことは出来ません。
 人を殺すのは絶望と狂気、不運と老いなのです。そのいずれかが捕らえれば人は死に、退ければ生き残るでしょう。わたしには人を殺すことは出来ません。絶望にとらわれた者たちは、生きたまま、わたしの腕の中に来るのです。それが、わたし自身の運命。」
 「あなたは――」

 スェウが口を開こうとしたとき、少女たちが白い絹のドレスをいっせいに翻し、羽根に変えて、大きく羽ばたかせた。強い風が吹き付けたので、スェウは仔馬と一緒に地面にしがみ付かなくてはならなかった。
 そうして、鳥になった少女たちに取り囲まれて、空に駆け上がってゆく青白い馬を仰いだとき、彼はそこに、嫉妬にかられた女の、美しく、激しい怒りの横顔を見たのだった。


 グウィディオンが戻ってきたのは、月の傾く頃、すなわち夜明けが近くなってからだった。
 「リアンノンに会いました」
眠らずに待っていたスェウは、その訳を尋ねた男に、囁くように告げた。
 「あの女性<ひと>は、今も、呪いをかけた人を愛しています。そして、ひどい呪いにもかかわらず、その人が絶望にとらわれることなく、忘却の腕に抱かれなかったので、ひどく腹を立てています。」
 「そうか。――」
グウィディオンは、月を仰ぎ見た。そして、スェウに、森の奥の丘に案内するよう言った。
 夜の最後の暗がりが、盛り上がった小山の周りを埋めていた。丘の上には、まだ、鳥たちの飛び立った痕、白い燐光のような光が、ちらちらと彷徨っていた。
 そこは、若き日のグウィディオンが、妖精の女王に会った場所だった。そして、彼女を拒絶し、恐ろしい運命を背負わされた場所なのだった。
 男は、燐光に手を伸ばし、掴み取り、手の中で消えていく羽根を眺めた。
 「忘却は、優しく、美しい。身をゆだねれば、あらゆる苦難を免れることが出来る。だが、人々が夢の国に消えようとするときにも、目覚めている人々は地上を支配するだろう。」
 「リドランの人々ですか?」
 「そうだ。彼らは、深い霧に包まれて眠る冬を知らぬ、忘却の否定者だ。ギルヴァエスウィの三人の息子たち、ブレイドゥン、ヘドゥン、ヘッフドゥン。彼らに会わねばならぬ、イヴァルドとの約束を違えるけにはいかんのでな。」
閃く炎が、男の暗い瞳を過ぎった。
 それは、運命に決して屈せぬ者の強い目。霧を引き裂き、波の馬に乗って略奪の旅をするという、海の向こうの国に住む人々にも似た眼差しだった。

  

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