◆11


 小姓に付き添われて、長い渡り廊下に差し掛かったとき、スェウは、耳に聞きなれたいななきをとらえた。
 「どうなさいましたか」
子供が足を止めたのを見て、小姓は不安げに尋ねた。
 粒を大きくした雪が視界を曇らせる。渡り廊下の向こうは中庭、中庭の向こうには厩舎があった。黒い大きな影が、人を寄せ付けまいと、踊り来るっているのが見えた。
 「あれは、お客人の馬ですね」
小姓が言うより早く、スェウは雪の中に歩き出していた。初めて見る雪が髪や腕に降り注ぎ、痛いほど冷えた風が、頬に荒々しく吹き付ける。
 「とんでもない暴れ馬だな」
厩番が鋤を手に愚痴っていた。
 「ちっとも大人しくならん。よくもまあ、こんな気性の荒い馬に乗っていたものだ」
 「主に置いて行かれたのが分かるんじゃないのかね。賢い馬というのは、えてして人の言葉を理解するものだから」
そう話し合っていたとき、彼らの視界に、中庭を横切ってくる子供と、慌てて追いかける小姓の姿とが見えたのだった。
 「お待ちください。ここは、お客人の来られるところでは、ありません」
小姓は懸命に止めようとしていたが、スェウは耳を貸さなかった。
 暴れていた黒い馬は、子供の姿を見止めると、途端に、大人しくなり、足を踏み鳴らすのをやめた。厩番たちは、驚いて、顔を見合わせるばかり。
 「ヴィンド」
柵の間から手を伸ばすと、馬はその手に、湯気の立つ鼻面を押し付けてきた。そして何かを訴えるように、二、三度、嘶いた。
 「父さんは?」
スェウは、振り返って三人の男たちを交互に見た。誰かが知っているだろうと思ったのだ。
 「馬に乗らずに出かけてしまったの?」
厩番のひとりが、頭から帽子をとり、うやうやしく答えた。
 「この馬に乗ってた旦那様なら、今朝方、ご朝食のあとすぐに、王様の言いつけでどこかへ行きましたよ、坊ちゃん」
 「多分エレニトの森でしょう」
と、小姓。
 「昨夜、王妃様がそこへ行かせると言っておいででしたから。」

 ちょうど、そう言っているところへ、何頭かの栗毛の馬が引かれてきた。たった今、寒い風の中を駆け戻ってきたように、息を弾ませている。
 それぞれの馬には、弓を手にした軽装の兵士が一人ずつ、付き添っていた。
 「おや。お帰り」
厩番が気さくに声をかけた。
 「どこへ行っていたね。こんな雪の中で狩りもあるまい。」
 「王様のたっての望みでな、森へ行ってきたのだ。今日はかなりの大物だった。」
 「仕留めたのかね?」
 「それは間違いない。だが残念なことに、血の跡を辿ると、崖の下へと続いていた。滑り落ちてしまったのでは、折角の手柄も台無しだ」
この会話を聞くや、スェウは、何が行われたのかを悟った。ヴィンドは突然暴れだし、その勢いがあまりに強かったので、柵の木が折れ、たづなを繋ぎとめていた皮ひもが切れ飛んだ。
 「危ない、避けろ!」
仰天して、厩番と小姓は雪の中に転がった。兵士たちの連れていた馬はみな泡を食って逃げ出し、黒い馬のひづめは、腰を抜かした兵士たちの眼前すれすれを通り過ぎた。
 「ヴィンド!」
子供は馬を呼び、切れた手綱を引き寄せて、脚を折らせて、その背に飛び乗った。
 驚いた小姓はしばらく声も出せず呆然としていたが、その子供が馬の背にしっかりとしがみ付くのを見て、ようやく我に返った。
 「お待ちを、坊ちゃん。一人で何処へ?」
行かせるものかと、立ち塞がろうとした兵士たちは、荒々しい黒い雌馬の嘶きに気圧されて道を譲った。
 スェウは構わず、馬の走るがままに任せた。兵士たちが帰るときに付けた馬のひづめの跡は、積もった雪のお陰で、まだはっきりと追うことが出来た。だが、急がねばならない。雪はなおも降り続き、追うべき痕跡を覆い隠してしまおうとしている。

 冷たい風にあおられて、剥き出しの手は凍えたが、黒い馬の背は熱かった。胸に込み上げる急く思いが、白い息に紛れて流れた。馬の足跡は、城壁の裏に続く白い森へと入っていく。丘を越えて、枝を張り出す針葉樹の森は、どこまでも、続いている。
 ヴィンドはどんな地形にも慣れた馬だった。走れぬ場所はない。そして賢い馬だった。
 雪を跳ね上げ、激しく身を揺らしながらも、背に乗せた小さな主人を振り落としてしまわぬよう、気遣いながら道を急ぎ、風に乗る大きな主人の匂いを探した。
 やがて雪はますます激しくなり、ついには、追うべき足跡は完全に消えてしまった。
 ヴィンドの鼻でも、それ以上追うことは出来なかった。
 馬は疲れきった脚を止め、真珠のように零れ落ちる大粒の汗が首筋を流れるに任せ、主人の降りるのを手伝うために、尻を少し地面に近づけた。
 手綱を手に、くるぶしまで雪に埋もれながら、スェウは、辺りを見回した。見るべきものは何も無い、在るのは、何の変哲もない森の風景だけだった。
 この寒さでは、木々も、森の住人たちもみな、沈黙している。
 子供は、かじかんで、ほとんど感覚の無くなった自分の小さな手を見つめた。ヴィンドが、優しくその手に熱い息を吐きかける。
 時間は刻々と過ぎている。忌まわしい狩りの行われた場所がどこか、突き止める前に、雪が全てを覆い隠してしまいそうだった。

 スェウは、自分の頬に熱いものが流れるのを感じた。触れてみると、それは水のようだった。だが、雨でも、溶けた雪でもなく、自分の目が流している水なのだった。
 冷たい指で擦っても、それは止まらなかった。胸の中が熱かった。子供は初めて、涙を流すことを知った。誰もいない、雪の降り積もる森の中で、小さな声をたてて、静かに泣き続けた。


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