◆10


 一人で行くようにと言われたスェウは、もう、不安げな顔はしていなかった。少しずつ、獣の子たちが少しずつ巣立ちを覚えるように、グウィディオンから離れることにも慣れるようになっていた。
 「俺は、マース殿と此処で待っていよう。お前だけで行きなさい。ブランウェン殿に、くれぐれも失礼のないようにな」
妃の従者がスェウを迎えに来た。子供が見えなくなってしまうと、マース公は重い心で、昨晩妃から言いつけられた、恐るべき不実な企みを、グウィディオンに仕掛けた。
 広い渡り廊下を歩んで、大きな螺旋階段を登り、渡り廊下を抜ける時、荒れた庭がすぐ下に見えた。
 そして遠くに灰色の海。霧に似た雨が、凍った雪の粒に変わりはじめている。地面に落ちるまでの速度が極端に遅くなり、ゆるゆると、やがて風に舞い散る花びらのようになって、無数に天から降り注ぐ。冷え切った石畳の上に落ちた雪は、溶けてしまうことなく、尚しばらく、儚さを惜しむように、そこに在り続けた。

 妃は子供を呼ぶ前に召使や従者たちを呼んで、その子の風貌と賢さを尋ねていたのだった。
 みな、口を揃えて非の打ち所のない美しい子供だと言った。付け加えて、町の子らのように歓声を上げて騒ぎたがらず、口は利かず、慎ましく座っているのだ、とも言った。
 ブランウェンは高らかに笑った。
 「そうでしょうとも。お人形に声を上げて騒ぐことなど、出来ませんもの」
 「けれど、恐れながら、お妃様。」
一人の若い小姓が言った。
 「その子は時折、とても悲しそうな目をするのです。とても人形とは思えぬほどに」
それを聞いて、妃は訝しく思い、自ら確かめてみようと思った。
 そして、秘密の部屋ののぞき窓から、肖像画の目に開けられた小さな穴を通して、夜明けの客間を覗き見たのだった。
 客の寝ざまを覗き見るなど、貴婦人に相応しいことではなかった。寝台に横たわる男の姿を見たとき、彼女の心はふるえ、怒りは鋭い刃となって、想像の中で何度も男の心臓を貫いた。
 だが、その不躾な敵意は、とがめだてするような、静かな視線によってさえぎられた。

 子供は、真っ直ぐに彼女の隠れている絵の前にやって来た。なるほど、召使たちの言ったとおり、何一つ足りないものはなく、この世のどんな母親も羨むほど、美しい子供だった。そして、静かな青い瞳には、父親から分け与えられた悲しみが湛えられていた。
 見つめられたとき、ブランウェンの首筋に恥ずかしさが走り、顔が赤くなった。足音を潜ませて、彼女はその場を去った。
 子供がグウィディオンに「あの人は?」と問うたのは、そういうわけだったのだ。回答者は、その質問の真の意味に、ついぞ気づかなかったが。

 さて、海に張り出す部屋に入ったとき、つまり王妃の待つ私室に迎え入れられたとき、スェウは、寒い廊下を歩くために、与えられた白いマントを纏っていた。縁には、青い糸で縫い取りがしてあった。野山を渡り歩いた靴の代わりに、上等な皮のブーツを与えられて、女の子のように伸ばしたままだった髪は、髪と同じ金の糸で、ひとつにまとめられていた。
 やって来たその子を見た途端、妃は思わず椅子から立ち上がり、目を大きく見開いて、しげしげと顔を見つめた。
 「…なんてこと。本当に、イヴァルドの幼い頃に瓜二つだわ」
 彼女は従者に下がるよう命じ、子供に、暖炉の側に座りなさいと言った。
 冷え切った室内に、暖かな火が燃えている。朝だというのに表は暗く、海は気味悪く轟きながらうねっている。
 「わたくしは、この国の王妃、マースの妻、ブランウェン。」
僅かにくすんだ色合いながら、かつては純白であったことを思わせるドレスに身を包んだ、すらりとした貴婦人は、おごそかな声で子供に告げた。
 「そなたをここへ呼んだのは、他でもない、そなたの父の望みだったからです。わたくしが、そなたに祝福を与えるようにと。」
スエウは、表情を変えぬままだった。ブランウェンは鈴の鳴るような、――それは年月を経て、昔ほど軽やかな鈴ではなかったが、今でも魅惑的な、笑い声を立てて言った。
 「そなたは何にも驚かぬのですね。王妃であるわたくしを前にしても、王のような平静さでいられるとは。」
貴婦人は、自ら跪いた。彼女はそのために、敢えて人払いをしたのだった。
 金の指輪をはめた、白い、ほっそりとした指が頬に触れ、優しく、子供の顔の輪郭をなぞる。
 「天はかくも卑怯な振る舞いをするものか。そなたが、見も知らぬ女の腹から生まれたなど、わたくしには信じられぬ。そなたは、まともに生まれて来なかったエレンの子に見える」
ブランウェンの頬に、ひとすじの涙が伝った。
 「悲しいの…?」
唐突に、子供が口を開いた。
 涙を流す生き物を間近に見たことはなく、グウィディオンはいかな時にも表情を変えることは無かったが、目の前にいる貴婦人の手から伝わるのは、父である男の腕から感じるものに、よく似ていた。
 「土の下にいる人たちのことを考えているの?」
 「いいえ」
妃は静かに立ち上がり、窓の側に歩み寄った。
 「わたくしの妹エレンは、あの海の中にいます。ここから身を投げたのですから。ご覧なさい、その日から、海は決して静まることなく、悲痛な叫びを上げ続けている」
スェウは、波の音に耳を済ませた。海は泣くものだろうか。人ではないのに、人と同じように悲しむものだろうか。
 ブランウェンは、ドレスの裾を静かに引きずって、子供の側にやってくると、顔を覗き込み、また涙を流した。
 「あの男の子に、祝福を与えるなど到底考えられぬこと。それなのに、わたくしには、そなたを呪うことは出来ぬ。」
スェウは、ちらと戸口のほうを見た。長いこと、ここにいる。何故か、胸騒ぎがした。
 「どうか、ずっとここにいておくれ。この栄華のくすんだ城には、そなたのような者が必要なのです」
 「戻らないと…」
 「そなたの父は罪人なのですよ」
冷たい指が、スェウの腕を掴んだ。ブランウェンの灰青の瞳が、一瞬、我を忘れて燃え上がった。
 「わたくしの妹を呪い、わたくしの弟を殺す手助けをしたのです。この国の何処にも、そなたの父を光で照らす場所は無い」
咄嗟に口をついて出たのか、わずかでも、子供のいる時間を引き延ばそうと、気を引くための言葉だったのか。
 「あの男は、若い頃の驕りが原因で、強力な運命の精霊に呪われた。彼に微笑みかけた者は、わたくしの妹のように、その身に呪いを引き受けるのです。――戻ってはなりませんよ、スェウ。あれの側に居ては、そなたも同じ運命に引き裂かれることになりましょう」
言ってしまってから、妃ははっとして、手を離した。静かなまなざしに見つめられ、己の我を忘れた言葉を恥じたのだ。
 「照らす光はここにあります」
ふいに、声が発せられた。
 それは魔法を解かれた口が、秘められていた言葉をつむぎだすように、声は大人びて、そこにいる幼い子ではない、別の誰かがその口を借りて話しているかのようだった。
 「呪われていたのは、僕のほうなのです。その呪いを、届かぬように護ってくれたのが、あの人なのです」
驚きのあまり、ブランウェンは、言葉を返すことも出来なかった。
 「なぜ、今まで黙っていたの。そなたが、そのような口を聞ける年だとは思わなんだのに」
だが、妃がどんなに問いかけても、スェウはそれきり、口を閉ざした。沈んだ眼差しで、自分の手元を見つめていた。
 しまいに、ブランウェンのほうが根負けして、もう部屋を出てもよい、と言いつけた。

 その時、雪は既に、地面の色を白で覆い隠し、人の足跡を点々と残すほど厚く積もっていた。


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