<幕間>
〜ティアーナ・レスロンド〜



 夏を間近に控えた空は良く晴れて青く、風が心地よい。
 歩き馴れた道を、彼女はひとすじの髪を靡かせながら早足に歩いていた。足を止め、こちらを振り返る視線には馴れている。けれど、足を止めなければ、わざわざ声をかけてくる者はいない。だから彼女は歩き続ける。腰に下げた、男物の剣を故意に見せびらかすようにしながら。
 ティアーナは、れっきとした騎士だ。
 正式に叙階を受けたのは十五の時。それから四年、宮廷に勤め続けている。正式な身分は「王室付き護衛官」。近衛騎士団には所属しないが、王宮を訪れた要人の護衛や、近衛騎士の不在を埋めるため、あるいは何か大きな行事がある時の近衛騎士たちの補佐といった仕事をしている。つい先日引退し、今は剣術指導に当たっている父も、同じ職についていた。母は侍従長、兄は近衛騎士。一家そろって王家に近しい場所に勤める、ある意味ではエリートの家系だ。
 二百年前からずっと、王家に仕えてきた家系。彼女はそれを密かな誇りにもしていた。
 武器屋通りに踏み込んだティアーナは、通い馴れた一軒の店の前で足を止めた。
 飾り棚のガラスごしに覗き込むと、奥の炉の前に屈みこんでいる後姿が見える。笑みを浮かべて、彼女は店の中に入っていった。
 「フィー」
 「あら、ティア! 今日はどうしたの」
額の汗を拭いながら、剣の手入れをしていた浅黒い顔のなじみの鍛治屋が振り返る。数少ない、同性の友達だ。
 「聞いて、アルヴィス様が帰ってくるんだって!」
カウンターから身を乗り出しながら、彼女は声を弾ませた。女鍛冶師、フィーの表情もつられて綻ぶ。
 「ほんとに? 末王子様、戻ってくるのは…十年ぶりくらい?」
 「ええ! ほんとに久し振りよ。それで私、ご案内の役を仰せつかったの。昔馴染みだし、年も近いからって」
 「良かったねぇ。で、アルヴィス様、いつまでこっちにいるの」
 「建国祭が終わるまでだって。時間があれば、ここにも案内するわ。楽しみにしててね」
心は弾んでいた。何しろ、かつて実の弟のように接していた少年とまた会えるのだ。たとえ、相手が現国王アレクシスの末子で、クローナ大公家の跡取りという高い身分にあることを知って居ても、――子供の頃と違うのだと分かってはいても――だ。
 (懐かしいな。あの頃よく一緒に遊んだっけ)
フィーとの雑談を終えた帰り道、ティアーナは王宮への道を歩きながら昔のことを思い出していた。
 十年前、自分たちがまだ一桁の年齢だった頃だ。年の近い上の王子たちとは、剣術の稽古などで一緒になることが多く、その帰りにアルヴィスとも会っていたのだ。年の離れた末王子のアルヴィスは、兄たちと一緒の勉強は出来ず、そのかわり、五歳にも満たない年齢で既に読み書きを覚えていた。
 とても頭のいい子供だった。
 「多分、この子は剣術を習わせるより、学者にしたほうがいいんだろうな」
父親の国王アレクシスは、そう言ってしきりと感心していた。「私よりは母親の血筋に似たんだろう。メネリク殿が気に入りそうだ」
 メネリク――メネリク・フォン・クローナは、高名な植物学者にして、先代国王の実弟でもあり、現在のクローナ家の当主でもある。その言葉どおりメネリクに気に入られたアルヴィスが養子としてクローナ家に迎えられたのは、それから何年もしないうちだった。可愛がっていた弟と会えなくなった兄王子たちの落ち込みようは大きく、その頃から、ティアーナも王子たちとは疎遠になっていった。
 ちょうど、思春期を迎える少し前の年齢でもあった。
 原因は一つではない。共通の"弟"だったアルヴィスがいなくなったことに加えて、その少し前に起きた事件のこともあって王宮内の警備が厳しくなり、部外者の出入りは一切禁止されてしまったのだ。
 "王族の暗殺未遂"。
 それは、平和だったこの二百年には起き得なかった類の大事件であり、起きてはならないものでもあった。
 だが、緘口令が敷かれ、事件は闇に葬られた。そんな出来事があったのを知る者は、ごく一部だけだ。ティアーナも本当は知ってはいけなかったのかもしれない。ただ、教えてくれたのは、事件の被害者である王子の一人、スヴェイン本人だった。
 (――あの頃から、スヴェイン様はどこか変わってしまった気がする)
歩調を緩めながら、彼女は心の中で呟いた。目の前には、王宮の裏門が見えてきている。
 (以前のように、心からは笑わなくなった…)
門の左右を守っていた警備兵が、軽く敬礼してティアーナを通らせる。彼女はほとんど反応せずに、門の奥へと素通りした。ほとんど無意識のままに階段を登り、王宮内部の、いつもの勤務先へと向かおうとする。
 (あ)
廊下の先に向かい合って何か話をしている人影に気づいて、彼女は足を止めた。遠くても、誰なのかすぐに分かる。金髪でほとんど同じくらいの高さの背丈の二人。片方は長いガウンを羽織っているが、もう片方は派手な色合いの奇妙なひらひらした服を身につけている。
 彼女が隠れようとする前に、話していた二人の青年は同時に気づき、片方はちらりとこちらに視線を向けてそのままどこへ立ち去っていく。ティアーナは、きまり悪そうな顔のまま、残された一方に近づいていった。
 「申し訳ありません、シグルズ様。お話中に邪魔をしてしまったようで」
 「なに、気にすることはない。キッカケさえあれば逃げようと隙を伺ってたんだ、あいつは」
そう言って、彼は軽く咳払いした。
 第一王子のシグルズ。誰もが認める、最も有力視されている王位継承者だ。聡明で真面目、まだ二十台になったばかりの若さで、もう父と一緒に政務に参加しているほどだ。
 「何をお話されていたんですか」
 「ん、…近頃遊びが過ぎるんじゃないか、って。いつもの話だよ」
曖昧に答えて、彼もまた、別の方向に体を向ける。
 「私も行かなくては。それではティアーナ、また」
 「…はい」
そっけなく、当たり障りの無い会話。ティアーナは知らず知らず、胸のあたりに手をやった。
 いつからだろう。
 シグルズもまた、決して本心を人前では見せなくなった。
 誰もいない時、…家族か親しい相手しかいない時には、昔のような笑顔を見せてふざけることもあったが、それすら滅多になくなった。王子という責務からだろうかと最初は思っていたが、それだけではない気がする。過剰なほどの警戒、そして秘密めいたスヴェインとの関係。
 人の噂では二人は犬猿の仲と言われているが、決して仲が悪いわけではないことをティアーナは知っている。ただ、人前では決して話そうとしないし、お互いのことも良く思っていないように言うのだ。まるで、無理に距離を作ろうとしているようにも見えた。
 (どうしてなんだろう)
かつての二人を知るだけにもどかしく、それでいて、自分には決して踏み込めない世界であることをティアーナは知っていた。
 (アルヴィス様なら、分かるのかしら)
それは微かな期待でもあった。いつからか漂うようになった、この不自然なぎくしゃくした空気を、十年ぶりに帰還する末王子なら何とかしてくれるかもしれない、と。



 そして、待ち望んでいたその日はやってきた。
 「君、…ティアーナ?」
記憶にあるままの瞳をした少年は、すぐに彼女の名を言い当てて、幼少期の面影の残る顔で微笑んだ。
 何も変わっていなかった。三人の中で、彼だけは。



 王宮に来てからの日々は、目まぐるしく過ぎていった。
 まだ成人もしていない年齢とはいえ、アルヴィスは既にクローナ家の次期当主として認知されていた。メネリクの仕事も既に大半はこなしているという。そんな彼には、引きも切らさず面会者が訪れた。いずれはこの国で最も高名な旧家を継ぎ、国王に継ぐ権威を持つことになる少年だ。今のうちから覚えめでたくしておきたい、という者は少なくは無かった。純粋に、どんな人物なのかを知りたいと興味を抱く者も、――或いは、うまく手玉に取れないかと企む者も。
 その日も午前中の面会の予約をこなし、アルヴィスは午後の空いた時間で書庫に来ていた。王宮内の公共区画に併設された書庫には、王家が所蔵する膨大な蔵書が並んでいる。彼はそこで、クローナから一緒にやってきたルディという植物学者のための本を探すのだという。
 天井まで届く背の高い書庫の前にはしごをかけ、本を取り出しては開き、また戻しているアルヴィスを、ティアーナは、はしごの下から見上げていた。真剣に文字に視線を走らせる横顔は、子供の頃と同じだ。
 「アルは――ずっと変わないですね」
思わず零れた呟きを聞きとめて、アルヴィスははしごの下を見下ろした。
 「ん? どういう意味?」
 「いえ、…その、昔から本が好きですねってことです」
 「ああ」
手にした本に視線をやって、彼はくすっと笑った。「剣術は結局、全然習わなかったな。兄さんたちみたいには使えそうになかったし」
 「そのほうがいいですよ」
はしごを押さえてアルヴィスが降りて来るのを手伝いながら、ティアーナは言った。「アルには、こっちのほうが似合ってますし。それに…」
 「それに?」
 「…いえ、何でもないです」
首をかしげながら、アルヴィスは、取り出した一冊を机の上に置いてあったほかの本に重ねて抱え上げる。受付に行って、借り出しの手続きをするためだ。
 書庫を出た途端、廊下を歩いてきた身なりのいい男とばったり出くわす。
 「おお、こちらにいらしたのですか、アルヴィス殿。」
色艶のよい、小太り気味な男。洒落た帽子に金糸の縁取りの上着。のしかかるような格好で行く手を遮られ、小柄なアルヴィスは、半歩ほど後ろへ下がった。
 「ええと――貴方は確か、ローレンス男爵?」
 「そうです、覚えていてくださったとは光栄です。どうです? 庭で薔薇を見ながらお茶でも。我が領地から取り寄せた菓子を、他の者にも振舞おうとしていたところなので」
 「いえ…あの」
アルヴィスは口ごもる。むっとして、ティアーナが口を出した。
 「アルヴィス様はこれから予定がおありです。今回はお控え下さい。ローレンス様」
男はじろりとティアーナのほうを見ると、ちっ、と小さく舌打ちした。
 「騎士風情が」
その呟きは、ティアーナだけではなくアルヴィスにも聞こえている。しまったと思ったのか、慌てて表情を取り繕いながら、男は手を揉みしだき、愛想よくアルヴィスだけに微笑んだ。
 「それではアルヴィス殿、いずれまた。次の夜会でお会いできるのを楽しみにしていますよ。失礼」
体をゆすりながら廊下を横切り、庭のほうへと消えていく男の後姿を見送って、アルヴィスはほっとひとつ息をついた。
 「助かったよ、ティアーナ。」
 「いえ。…差し出がましい真似をいたしました」
周囲にほかにもう誰もいないことを確かめてから、二人は並んで歩き出す。王宮へ来てからというもの、毎日がこの調子だ。足を止めているだけで、誰かしらに話しかけられ、茶会やら絵画鑑賞やら食事やらに誘われる。あるいは少しでいいから話だけでもと迫られる。自己紹介だけでも毎日何人もだ。それをアルヴィスはいちいち記憶している。一度出会った人のことは忘れないらしかった。
 「はっきり断られるか、忘れているふりをすれば良いんじゃないですか」
 「うーん、それもなんだかね。嘘をつくのは、あまり得意じゃないし」
笑って、少年はちょっと首を傾げる。
 「でも、肩書きがあるだけでこんなに忙しくなるなんて思っても見なかったな。僕と話なんかしたって、何もないのに」
 「そうでしょうか」
 「きっと、兄さんたちも苦労したんだろうなぁ」
本を抱えたまま、彼は裏門から"学者の小路"のほうへと歩いていく。警備の兵が足を止め、慌てて敬礼する。ティアーナは、そちらをちらりと見やった。王宮にいる誰もがアルヴィスの身分を承知して、それに相応しいと思われる態度を取る。――ここでは、それが当たり前だった。でも、あの頃は…。
 「ティア?」
アルヴィスに名を呼ばれて、彼女ははっとして顔を上げた。
 「何でしょうか」
 「また、難しい顔をしてたね」
くすって笑って、アルヴィスは目の前の青い家を見やる。「両手が塞がってるんだ。扉を開けてくれると助かる」
 「失礼しました」
彼女は慌てて扉を開く。中からは、インクと薬草のような香りが流れ出してくる。腰を痛めている植物学者のルディは、激痛にもめげず、今日も何かしらの研究をしているらしかった。



 借りてきた本をルディのもとに預けた後は、ベオルフとの待ち合わせだった。堅苦しくなく、気取らずにすむ面会の一つだ。部屋で待っていると、扉がノックされた。
 「失礼します」
勤務中の服装のまま、のそりと部屋に入って来た男は、扉を閉めるなり大きく溜息をついて肩をごきりと動かした。
 「はー肩こった。ティア、お茶入れてくれよ」
 「何言ってるんですか兄さん。ここ、アルの部屋ですよ?」
ティアーナは呆れ顔だ。
 「だからだよ。殿下の部屋ならお茶くらいあるかなって。無いなら、下の家までひとっ走り」
 「自分で行ってください、まったくもう」
窓のすぐ下には、"学者の小路"が見えている。その通りの奥にベオルフたち兄妹の家もあることは、アルヴィスも知っている。笑いながら、少年は自ら部屋の隅の戸棚を開く。
 「お茶ならここにあるよ。僕もちょうど飲みたかったし、淹れて来る」
 「いえ、大丈夫です」
慌てて、ティアーナはアルヴィスの手から茶具を取り上げる。「私が淹れてきます。座っててください」
 奥の部屋へかけていく後姿をにやにやしながら眺めやりながら、ベオルフは真っ白な長いマントを取り外した。勤務時間は終わり、という意思表示だ。
 「昨日は夜勤だったんでしょ、お疲れ様。」
 「いやーなに、いつものことです。今は丁度手薄な時期なんですよ。妃殿下とシグルズ様が別行動中で、それぞれに専属の者が何人かついていってますからね」
 「スヴェイン兄さんもでしょ。あっちは、ずっとワンデル?」
 「ええ。珍しい獣人は宴会受けするとかでね。もっともワンデルは最古参ですし、オレらと違って五感も効きますから、なまじっか普通の騎士をつけるよりは遥かに安心できます。」
 「うん」
頷いて、アルヴィスは机の前の椅子に腰を下ろした。ベオルフのほうも、部屋の隅にあった椅子を勝手に引っ張ってきて腰を下ろしている。この殺風景な部屋には応接椅子のような豪華なものは置かれていない。
 「ところで――あいつとは最近、会ってますか?」
 「あいつって…」
 「ほれ、あのサーレの"雄牛"ですよ」
 「ああ。」
アルヴィスの顔がほころぶ。「二本角の、威勢のいい牛だね」
 盆を手に戻ってきたティアーナが、会話を耳にとめて部屋の入り口で足を止める。
 「最近町では見かけないな。学校のほうが忙しいのかな」
 「ちょうど今頃だと、試験前ですかね。オレも昔は苦労しました。」騎士学校の卒業生であるベオルフは、一瞬、懐かしそうな顔をした。「――ああそうそう、校長のハーミス殿の話じゃ、なんでも祭りの旗手の候補にも挙がってるそうですよ。」
 「あの田舎者が旗手ですって?」
振り返った二人が、ティアーナの表情を見て同時に苦笑する。
 「そんな顔するなよティア。あいつは、まぁー確かにお前の感覚からすると未熟者だろうが、なかなか根性あるし筋もいいんだぞ」
 「知りませんよそんなこと。そんなに気に入ってるなら、兄さんが鍛えれば?」
盆をやや乱暴にサイドテーブルに置いて、彼女は軽く口を尖らせた。
 イヴァン・サーレ―― アルヴィスがこの町に来てすぐの頃に西の公園で偶然出会ったその少年は、以前、ベオルフが任務で向かった先のサーレ領の領主の息子だった。アルヴィスは何故かその少年を初対面のときから気に入っていたが、ティアーナにしてみれば、何か意図があって偶然を装って近づいて来たのではないかと勘ぐりたくなる貴族の一人だ。
 そうでなくても、すべてが癪に障るのだ。一番の気に入らない点は、アルヴィスがこの町に来てから、初対面で――まだ素性を知らないうちから心を開いた唯一の相手であるこということ。二番目には、その当のイヴァンのほうが、まだアルヴィスやティアーナの素性に気づいていないらしいことだった。
 「でも、そうか。旗手ってことは、お祭りで先頭に来るんだね。楽しみだな」 
 「あの派手な衣装をどんな顔して着てくるか、オレも楽しみですよ」
くっくっとベオルフは、意地の悪そうな笑みを浮かべる。「に、しても、あいつがまさか殿下とまで知り合いになるとはねぇ。妙な縁だ」
 「そうだね」
テイアーナのいれたお茶を受け取りながら、アルヴィスは少し真面目な顔になる。
 「彼は――クロン鉱石のことも知っているんだよね」
 「ええ。オレが話しましたから」
それは厳密に言えば機密事項の漏洩に当たる事項だ。だが、領主であるクラヴィス・サーレは既に知っている。その息子であるイヴァンが知っていても問題はない、とアレクシスもアルヴィスも判断していた。何よりサーレ領で起きた出来事の調査には、サーレ領の統治者の協力は不可欠だった。
 同じように湯気の立つカップを受け取りながら、ベオルフは、それとなく向かいの少年の表情を伺う。
 「あいつに手伝わせるつもりですか?」
 「それも少し考えた。ただ、彼はまだ学生だ。僕も祭りの後はクローナへ戻る」
 「そうですか。」
お茶を一息きにずずっとすすって、ベオルフはさらりと言う。「ま、誘えば来ると思いますけどね。あいつは。」
 「兄さん。またそんな、無責任なこと――」
 「おかわり」
 「兄さんってば! もう」
文句を言いながらも、ティアーナは差し出されたカップにお茶を注いでいく。ベオルフのほうは、悪びれもなく人懐っこい笑みを浮かべていた。
 「そういや、宴会好きのスヴェイン殿下が最近回ってる地域、ご存知ですかね?」
 「え? いや…」
 「マイレ領で見かけたそうです。それからフラウ領。直近だとクラウゼ領だそうで」
 「……。」
アルヴィスの表情が少し硬くなる。「――頻繁にそこへ?」
 「さあ。殿下の足取りの全てはわかりません。調査しろとも言われていませんし。任務に出たついでに小耳に挟んだ限りですから」
 「そう」
 「さぁて、オレはもう行きますね。今夜また夜勤なんで、夜まで家に戻ってちぃと寝てきますや。んじゃなティア、お前もほどほどに」
 「兄さんに言われるほどのことはないですよ」
マントを肩にかけ、男は、飄々とした足取りで"学者の小路"のほうへと続くもう一つの扉から外へ出て行く。溜息をついて、ティアーナは空になったティーカップに目をやった。
 「アル、申し訳ありません。兄がご無礼ばかり」
 「いいんだ。彼はああいうところが持ち味だしね」
自分のティーカップの中身を飲み干して、アルヴィスは、一つ息をついた。
 「スヴェイン兄さんか…。まだ会ってないんだよなぁ。そろそろ戻ってくるはずだよね」
 「ええ。お祭りが近いですし、おそらく、今日か明日には」
 「話が出来るといいな。楽しみだ」
言いながら、彼の表情が僅かに曇っていることにティアーナは気づいていた。



 不安は、彼女の思っていたとは全く違った形で降ってきた。
 スヴェインの戻って来た日の夜、王宮内で開かれた酒宴の席をアルヴィスが途中で退出した後、――護衛対象である彼を部屋に送り届けて、自分も寝室に戻ろうと廊下に出たところで、彼女は誰かに呼び止められた。
 「しっ」
口元に指を当て、立っていったのはスヴェインだった。彼はティアーナが口を開くより早く、素早く周囲を見回して彼女の腕を掴んで物陰に押し込んだ。
 「ティア。お前、アルが十年前の事件のこと、調べ直してるって知ってたのか」
単刀直入な、あまりにも直情的な問いかけ。そして、いつにない真剣な眼差しに、ティアーナは考えるより早く頷いていた。
 「止めさせろ」
それは、今までに聴いたことがなかったほど強い命令口調だった。ティアーナは思わず一歩後退った。その彼女の目の前に、恐ろしい顔をしたスヴェインが一歩、歩を詰める。
 「あいつにそんな危険なことさせるわけにはいかない。もしものことがあったらどうするんだ?! 君も、父上もおかしいだろ!」
言葉が出てこない。
 「…どうして、直接言わないんですか? 私なんかに…そんな…」
やっとの思いで開いた口から出てきたのは、それだけ。
 「アルは、話をしたがってました。」
 「…ぼくは話したくない」
 「え?」
 「嫌だろ、こんな遊び人が兄貴じゃ。あいつの知ってるスヴェインはもう居ないって言っといてくれ」
酒臭いげっぷをして、彼は口元を拭った。「…とにかく、くだらない興味はさっさと捨てろと言え。いいな」
 「……。」
硬直したままのティアーナを置いて、彼は、小さく息をついてくるりと背を向けた。
 「これは、ぼくの問題なんだ」
それだけ呟いて、奇妙な衣装の長い裾を引きずりながらどこかへ去って行く。体中の力が抜けていくような気がした。壁にもたれかかりながら、ティアーナは、胸を押さえた。

 (…"ぼくの問題"?)

思考が纏まらなかった。そして、今更のように体が震えてきた。
 (やめさせろ、って…)
彼女が仕える王家の嫡男からの、それは、紛れもなく命令だった。
 アルヴィスと、スヴェイン。自分は一体、どちらに従うべきなのだろう。
 いや。それは迷う問題ではない。従うべき相手はただ独り、雇い主であり騎士たちの長である国王だ。その国王の命令では、彼女の任務は"クローナ家からの客人"を、王都滞在中に案内し、護衛することだった。その意味では、スヴェインの命令に従う必要はないのかもしれない。
 けれど――。
 彼女は、同時に気づいてしまった。
 自分の任務は、まもなく始まる建国祭の終了と同時に終わってしまうのだと。アルヴィスがクローナへ戻ってしまえば、再び、自分とは無関係な人間になるのだと。
 (分からない)
それまでずっと信じてきたこと、迷わずに従ってきたことが、突然目の前から消えてしまったような気分だった。
 祭りの事件の後、国王アレクシスからアルヴィスをクローナまで送り届けてくるようにという命令を受けても、彼女の気持ちは晴れなかった。別れが数日延びただけだ。彼女はまだ、スヴェインに言われたことをアルヴィスに告げる勇気がなかった。立て続けに起きた事件のせいで、その機会がなかったのもあるが。
 北へ向かう道すがら、彼女は、目の前で馬を走らせる少年の後姿を見ていた。
 (私は…誰の言葉を守ればいいの)
アレクシスに命じられたとおり彼をクローナまで送り届け、クローナに着いたらスヴェインに言われた忠告を告げてリーデンハイゼルに戻る。立場からすれば、それが最も正しい道であることは理性では分かっている。ティアーナが仕えているのは王家であって、クローナ家ではない。
 それが出来ないから苦しいのだ。スヴェインの言葉を告げることは、きっとアルヴィスを深く傷つける。それに、今はまだ彼から離れたくなかった、王宮で部屋が荒らされた一件、国王の暗殺未遂――立て続けに起きた不審な事件は、アルヴィスの身にも危険が迫っている前兆のように思われてならなかった。確かに今は、彼は一人ではない。兄の推した、あのサーレの少年が一緒にいる。しかし彼はまだ経験も浅く、ティアーナからしてみれば不安の塊だった。
 そしてそれらの逡巡に答えが出ないうちに、クローナの町が見えてきた。
 城門が、祖先の出身地でもあるその町が見えたとき、彼女の中で、思いがけず良心が大きく揺らぐのを感じた。
 その町は、今までに見たどんな町よりも、王都リーデンハイゼルの何倍も、――美しく見えたから。



 遠い祖先はクローナの領主に仕える家系だったのだという話は、父や亡き祖父から何度も聞かされていた。
 二百年前、最初に王家に仕えた祖先の騎士は、クローナ領主のもとを離れて王家に仕官し、近衛騎士まで上がりつめた。その後に起きたのが、当時は二つに分かれていた王家同士の戦争、"白銀戦争"。リーデンハイゼルの金の王家と、クローナの銀の王家の間に起きた争いは、当時のクローナ領主の死によって終結する。その戦いの中で、騎士は仕える主君の側に立ち、かつての主人である銀の王家を打ち負かす立場となった。

 "騎士たるもの、主君のために尽くせ。"

それが祖父や父の教えでもあった。たとえ己の感情を押し殺すことになっても、主の命令は優先されなければならない、と。それが祖先の選んだ道でもあるのだから。
 騎士になりたいと思った時から、一度だってそれを疑ったことなどなかった。それなのに今になって、疑いを抱くとは。
 気が付いたときには、クローナの町を一人歩き出していた。ずっと来てみたいと思っていた町でもある。祖先の出身地というだけてはなく、ここには"白銀戦争"の記憶も数多く残されているのだ。
 城壁を見上げ、博物館を見学し、広場の屋台や、通り過ぎていく自警団の白いスカーフを眺め、古くから続く酒場を覗く。リーデンハイゼルと違い、ここは時間が静かに、穏やかに過ぎていく。誰も彼女を呼び止めず、まじまじと見つめたりもしない。住人たちにとっては、見慣れない人間は全て"観光客"で、それは一年中毎日、数多くやってくる旅人に過ぎなかった。
 (教会…)
尖塔を見つけて、ティアーナは足を止めた。入り口は開いている。中に入ってみると、天井から差し込む柔らかな光が内陣を照らし出し、壁にかけられた銅版画を浮かび上がらせていた。
 (白銀の樹の紋章だ)
彼女はすぐさまそれが何なのか分かった。クローナ家の紋章、"銀の王家"の印。リーデンハイゼルの王家の"黄金の樹"の紋章とは対になるもので、樹と名前がつけられているが、実際にはあまり樹のようには見えない形をしている。
 内陣の前に立ってしばらく見上げていると、ふいに横から涼しい風が吹き込んできた。振り返ると、脇の扉から尼僧が中に入ってくるところだった。扉の向こうには、緑の芝生と、墓石らしきものがちらりと見えた。はっとして、ティアーナは声を上げた。
 「あの!」
 「はい?」
尼僧は、鼻にかけた丸い小さなめがねを押し上げる。
 「ここに――レスロンド卿のお墓って、ありますか? ウィラーフ・レスロンドっていう…二百年前の」
 「ああ。裏の墓地のことね」
穏やかに微笑んで、たった今入ってきたばかりの扉を再び押し開く。「ご案内しますわ、こちらです。」
 外に出ると、夥しい数の真っ白な墓石が目に飛び込んできた。狭い敷地内に、これでもかというくらい詰め込まれている。
 「すごいでしょう? あんまりにも過密だからって、よそから来られたお客さんはみんな驚くの」
そう言って尼僧は笑う。
 「何しろ狭い町ですからね、みんな肩を寄せ合って眠っているの。今は外の新しい町のほうに墓地があるから、もうここを掘り返すことは無いんですけどねぇ」
尼僧に連れられて歩きながら、ティアーナは、風化の進んだ年代ものの墓石たちを眺めた。傷ついてほとんど名前の読めなくなっている墓石もあれば、傾いて、隣とくっつきあうようにして辛うじて立っているものも、半分埋もれているものもある。
 「ここには観光の方もたくさん来るんですか?」
 「ええ。それに町の人もね。歴代の領主様は、みんなここだから。でも、レスロンド卿を探しに来る人は滅多にいないわねぇ」
 「……。」
尼僧はちらりとティアーナが腰に下げた剣に目をやる。
 「あなたも騎士なのね」
 「はい。それで、興味があって…」
丘のように盛り上がった場所を越えて、尼僧は、足を止めた。
 「ここよ。これがその人のお墓」
目の前には、草に埋もれるようにして地面に埋め込まれた、黒光りする墓標が一つ。二百年前の日付と、簡素な墓標名。そして――
 ティアーナは、心臓をつかまれたような気がした。
 「"己の心に最も忠実なりし者、ここに眠る"」
隣にいた尼僧が代わりに読み上げ、丸い小さなめがねを指先で押し上げた。「これは、彼が亡くなった時、アルウィン王が贈った言葉だそうですよ。」
 「どういう意味なんでしょう。使命とか、義務とかじゃなく"心"?」
 「さあ? それは、あなたがた騎士の方のほうが理解できるのでは」
微笑んで、尼僧はスカートの端をつまんだ。「それでは、わたしはこれで。お帰りの際はまた教会を通り抜ければ表に出られますよ。」
 「……。」
案内役が去っていったあとも、ティアーナはその場に立ち尽くしたままだった。父に教えられたことは、私情を捨てて主君の命に従えということ。そして、最高の騎士だったと言われ、家族の誇りでもある祖先は、仕える主のために故郷と戦いさえしたと言われている。
 それなのに、墓標に刻まれた言葉はそれとは真逆だった。
 (どうして…)
最後の砦さえ失った気がして、彼女は両手で顔を覆った。
 (分からない)
一体、自分は何に従うべきなのか。騎士になって、守りたかったものは何だったのか――。


 「どんな道を選んでも俺は、後悔だけはしない。」


袋小路に迷い込もうとしていた思考の中に突如割って入ってきたのは、それまで無視し続けていた少年だった。
 城壁の上まで追ってきたイヴァンは、きっぱりとそう言った。振り返らずとも分かる。彼は、きっと迷いのない真っ直ぐな目をしている。
 「じゃあな。先戻ってる」
去っていく足音を背後に聞きながら、ティアーナは、目の前の静かな湖面を見つめていた。鏡のように空を映す水の上に鳥が降り立ち、波紋が広がってゆく。
 (私は…どうして騎士になりたかったんだろう)
子供の時からの夢。剣術の訓練をしていた遠い記憶の中で、真っ先に二人の年長の少年たちに挟まれて、屈託無く笑っていた幼い少年だった。
 彼女は、顔を上げた。
 守りたいと思ったのは、国王に命じられたからではない。クローナまでついてきたのは、それが仕事だったからでもない。
 自分の本心に気づいた時、足は勝手に動き出していた。
 ――戻ろう、クローナ邸へ。

 駆け出すティアーナの後ろで、鳥が再び湖面から飛び立ち、水滴の煌きとともに白い翼は青空の彼方へと消えていった。


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