<幕間>
〜アルヴィス・フォン・クローナ〜



 クローナを離れるのは何時ぶりだろう。
 窓の外の景色を眺めながら彼は思った。近隣の町へ出かけることすら少なく、まして今回のように何ヶ月も離れるのは、クローナに住むようになってからは初めてのことだ。
 馬車が上下に揺れると、隣で小さくうめく声がした。彼は視線をそちらに向ける。
 「大丈夫? ルディ」
 「ええ…なんとか…」
腰を抑えて青い顔をしている男は、ルディ・オブライエン。植物学の研究者でもあるクローナ家当主メネリク・フォン・クローナの長年の助手で、同じく植物学の大家でもある。ただし先ごろ腰を痛め、今は腰痛と戦っている身だ。クッションを腰にあてているが、それも無駄なようだ。
 「ムリしなくても良かったのに。先生に言われた仕事なら、僕だけでも何とかなるよ」
 「いいえ、…どうしても…出なくてはいけない学会がありますから…うぅ」
青い顔のまま、彼は少しでも楽になろうと体を横にする。苦笑して、アルヴィスはルディが体を伸ばしやすいよう自分の体をずらした。いずれにせよ、王都まではあと少しだ。ルディが苦痛に耐えなくてはならない時間はそう長くはない。
 アルヴィスは襟元から鎖を引っ張り出し、その先に揺れる銀色の紋章をそっと確かめた。窓から差し込む光で複雑な形をした紋章が浮かび上がる。目にしたことのある者は多いが、それが意味するところを知る者は、この国でも極僅かだ。
 眺めていたのは精々、数秒。
 蓋を戻して、彼はそれを戻しながら再び窓の外に視線をやった。
 行く手には、こんもりとした緑に覆われた丘の都が姿を現し始めていた。



 王都へのつづら折りの道を登り、町中を通り過ぎた馬車は王宮の正面玄関前に止まった。出迎えの執事に扉を開いてもらって馬車から降りると、目の前には見覚えのある堂々とした白い門がある。太い柱に支えられた天井を見上げた彼は、記憶にある星々と木々の浮き彫りを見つけて顔を綻ばせた。
 (…懐かしいな)
後ろで、ルディがよろめき、呻く。慌てて召使たちが駆け寄って、転びそうになっている初老の男を支えた。
 「す、すいません」
 「ルディは腰を痛めてるんだ。安静に出来る場所は? それと医者を呼んで貰えるかな」
 「医者だなんて、そんな大げさな…」
 「駄目だよ、顔が真っ青じゃないか。腰を直さないとクローナに戻れないだろ」
担架が運ばれてくる。嫌がるルディをそれに乗せ、王宮の使用人たちはてきぱきと彼をどこかへ運んでいってしまった。そうした一連の騒動の間にも、召使いたちは馬車から荷物を降ろし、次々と運んでいくところだった。
 「彼は"学者の小路"に家を借りられるんだったよね」
 「はい。手配は済んでおります。後ほどご案内させていただきます。道は、あの者にお尋ねください」
振り返ると、玄関前の階段を一人の騎士が降りてくるところだった。近衛兵と同じ制服を身につけた一人の女性騎士。きびきびとした動作で敬礼する。その騎士には見覚えがあった。
 「君、…ティアーナ?」
 「ええ。お久し振りですねアルヴィス様」
そう言って、彼女は顔を綻ばせた。
 会うのは十年ぶりだった。
 兄たちと仲の良かった、共通の友人でもある少女。昔も剣術が得意だったが、腰に下げた剣からして相変わらずのようだ。それにしても、すっかり女性らしくなっている。
 「到着されたら中庭にお通しするように言われているんです。シグルズ様がお待ちですよ」
 「兄さんが?」
玄関の奥へ歩き出そうとしていたアルヴィスは、馴れた足取りで歩く方向を変え、案内される前に廊下を曲がる。ティアーナは慌てて後を追い、追いついて、少し前を歩いて先導しているように取り繕う。少し驚いた様子だ。
 「中の構造を覚えてるんですか」
 「うん、なんとなくね」
ここに暮らしていたのは、生まれてから五年ほどの間。それいらい一度も戻ってきてはいないが、不思議に記憶は鮮明なままだった。
 「スヴェイン様はまだ旅から戻られていません。ずっと王都を開けていらして」
歩きながら、ティアーナは他の王族たち――アルヴィスにとっては家族――の動向を語っていく。
 「陛下と妃殿下は執務中です。夕食にはご一緒したいと仰っていました」
 「そうか。ベオルフは?」
 「兄は、…」ティアーナは、それとなく周囲に視線をやり、向こうからやって来た召使いが通り過ぎるのを待ってから言った。「今は通常任務の最中です。例の件は、後ほど別室で、と言っていました。」
 「うん。サーレでの調査の報告書はもう受け取ってるから、忙しくない時でいいよ」
 「伝えます」
軽く頭を下げたティアーナは、ふと、相手の視線が自分に向けられたままなのに気づいた。
 「…どうかしましたか?」
 「いや。ティア、きれいになったよね」アルヴィスはくすっと笑う。「昔から美人だったけど」
 「な」
ティアーナは慌てて顔をそらす。 
 「ご冗談を、アルヴィス様」
 「アルでいいよ、昔はそうだった。僕も君のことはティアって呼びたいから」
ティアーナがいいとも、いけないとも言わないうちに、アルヴィスは再び歩を進め始めている。幾つもの客間を通りすぎ、彫像の並ぶ廊下を通り過ぎ、やがて行く手に外へ続くテラスが見えてきた。
 四段ほどの階段を降りると、手入れされた芝生の中庭が目の前に広がった。薔薇のアーチを潜り、生垣を越えると、そこにはこぢんまりとした東屋があった。周囲の建物からは見えない秘密の会談場だ。背の高い金の髪の青年が、待ちかねたように東屋の前をうろうろしている。
 「お、来たな」
振り返った青年は、明るい色の瞳を輝かせて大股に近づいて来る。そして、アルヴィスの前に来るなり、前振りもなくぎゅっと抱きしめた。
 「本物のアルだ! おっきくなったなぁ!」
 「えっ…ちょっと、シグルズ」
焦って抜け出そうとするものの、力いっぱい回された腕はおいそれとは外れない。
 「ああ、でも昔と抱き心地は一緒だ。あんまり硬くなくてこのぷにっとした感じがスヴェインと違って可愛い…」
 「シグルズ兄さんってば。ティアが引いてるんだけど…」
 「おっと。つい素になってしまった」
咳払いをして、シグルズはアルヴィスから離れ、居住まいを正すと、威厳を持って口上を述べた。
 「遠路はるばるようこそお越し下さった。どうかゆるりと旅の疲れを癒されたし」
 「お気遣い、ありがとうございます」
合わせるように気取って答えてから、アルヴィスは、くすっと笑った。丁度、召使いがお茶をトレイに載せて運んできたところだ。シグルズは、うわべだけはよそ行きの表情を取り繕ったままで続ける。
 「ごめんな、他は誰も来られなくて。でも後で会えるからさ。――さ、座って話を聞かせてくれ。本当に久し振りだ」
 「うん。…」
手紙のやりとりはしていたが、兄と直に会うのも十年ぶりだ。両親とは、国王の表敬訪問という形でクローナに訪れた際に会った事はあるが、その時は二人の王子たちは同行していなかった。
 東屋の椅子に向かい合って腰を下ろすと、それまで姿を隠していた女性がどこからともなく現われて、召使いの残していった盆からお茶を注ぎ分けはじめた。黒髪の美女だが、侍女ではない。腰下げた短いナイフのようなものには金の房飾りが揺れて、彼女の身分を示している。
 「えっと…あなたは、近衛騎士のシンディ…?」
 「はい。」
短く答えて、女性は注ぎ分けたお茶を二人それぞれの前に置いた。
 「どうぞ」
無愛想に言い、一瞬だけアルヴィスを見つめてから、足音も立てずに柱のほうへ去って行く。彼女が見かけの派手さとは裏腹に気配を消して忍ぶことの達人で、二階だろうが三階だろうが平気で窓から現われることを、アルヴィスは良く知っていた。
 近衛騎士のシンディ・ラーン。普段は王妃専属の近衛騎士で、子供の頃には、よく母と一緒に接していた。近衛騎士の中では、おそらく一緒にいた時間は最も長い。
 「いつもの無愛想ぶりだが、あいつ本当はすごくお前に会いたがってたんだぞ」
ティーカップを取り上げて、シグルズは口元に笑みを浮かべた。
 「十年前からいる数少ない近衛騎士だもんね。あとは団長のエルネストとベオルフとワンデルくらい?」
 「だな。後は最近入った。あーでも、エーリッヒとは会ってるんだよな? あいつクローナの隣のマーテル領の出身だから」
 「うん。マーテル辺境伯の付き添いでクローナへ来たことがある。今の近衛騎士はどう?」
 「相変わらず面白い連中ばっかりだな。あとで紹介するよ。それよりクローナのことを聞かせてくれ。最近メネリク様の手伝いをしてるんだって?」
 「手伝いっていうか、――もうほとんど僕がやってる」そう言って、彼は苦笑した。「仕事に慣れさせてくれてるんだと思いたいんだけど、研究のほうに夢中で仕事を忘れてるから、僕がやるしかなくて…」
 「ははっ、あの方らしいじゃないか。後継者も育ったことだし、本音はもう、趣味のほうに没頭したいってことだろう。そういや、メネリク様はまた本を出してたな。こないだ、初版が届いてたよ」
笑うシグルズの表情には、昔の記憶のままの面影がちらりと横切る。
 (変わらないな)
陽気で、人懐っこくて、時々はふざけたりもする青年。――だが、それが人前では一変することをアルヴィスは知っている。
 彼は、誰かがいるところでは決して素の自分を見せない。人前では堅苦しい「王子」の仮面を被り、他人が理想とする姿を苦もなく演じる。それは彼の特殊な才能であり、誰も真似できないものでもあった。
 アルヴィスが黙っていると、シグルズはカップを置いて少し声色を変えた。
 「そうそう。会ったら聞こうと思ってたんだけど、…お前、十年前の事件を調べなおしてるんだって?」
 「誰に聞いたの。父さん?」
 「そう。でも、あの事件は…。」シグルズは、手元のカップの中に揺れる琥珀色に視線を落とした。「…クローナでは護衛もついていなんだろう? スヴェインも心配していた」
 「心配いらないよ、その代わり自警団が何処にでもいるから。旧市街のほうは王都より警戒厳重なくらいだよ。」
 「ならいいけど。…ほら、例の法案、次の議会で再提出になるからさ。この時期だから、父さんたちは何時も以上にピリピリしている」
その法案というのが何なのかアルヴィスは知っていたが、当たり前のように「例の」と言ってくるあたりシグルズも随分話をはしょっている。
 「信用できる者は少ない。…この王宮の中でも、油断はするな」
顔を近づけて囁いてから、ふっと表情を緩める。
 「ま、お前なら心配しなくても、自分のことは自分で決められるだろうけど。」
テーブル越しに手を伸ばし、彼は弟の額を軽く弾いた。
 「ぼくも父さんも、立場上あまりおおっぴらに動けない。だが、いつでもお前の味方だ。困ったことがあったら何時でも相談してくれ」
 「はい」
アルヴィスは、小さく頷いた。
 十年前の事件、…兄が言おうとしたことが何なのか、彼には分かっている。
 世間的に公にされていない、国王一家の暗殺未遂事件。その被害者となったのは、他でもない、兄二人なのだ、



 シグルズと別れたあと、アルヴィスは、ティアーナに案内されて滞在中の宿舎となる部屋に入った。そこは王宮の中でも一番端の建物で、人通りも少なく、しばらく使われていなかったらしい雰囲気がある。部屋の中には家具もほとんどなく、がらんとしていた。
 「ご希望でしたので、ここで用意しましたが…。本当にこの部屋で良かったんですか?」
 「うん。ルディがいるから、"学者の小路"に近いほうがいいんだ。それに、ここならあんまり人も来なくて静かでしょ」
部屋を見回して、アルヴィスは満足げに頷いた。「クローナで使ってる部屋より広いくらいだし。」窓からは、"学者の小路"と呼ばれる小道が見えている。むやみに立派な部屋よりは、気が楽だ。
 「私は、隣の部屋にいます。どこか行かれる時は声をかけてください。何もなければ夕食の際にお呼びしに参ります」
 「え、ティアも一緒に来るの?」
 「ええ。護衛も兼ねておりますので」
 「……。」
てっきり部屋に案内するだけだと思っていたアルヴィスは、面食らった。「そこまでしなくても…」
 「いいえ。アルヴィス様…アル…は、クローナ家に入られたとはいえ王族の一員に変わりありませんから。それに、もしものことがあれば私が陛下に叱られます。」
 「……。」
そこまで言われては、断るわけにもいかなかった。それにティアーナは、意地でも任務はやり遂げようとするに違いない。
 「それじゃ一緒に来てもらおうかな。今日はゆっくりして、明日は王立歴史博物館の館長に会いに行くつもりなんだ。」
 「王立博物館?」
 「特別展にクローナ家が所有する遺物を貸してほしいっていう交渉をしたいらしいんだ。」
 「なるほど、かしこまりました。」 
ティアーナは扉のほうへ下がった。
 「それでは、後ほど夕食の際にまた参ります」
 「うん。ありがとう」
ティアーナが出て行ったあと、一人になったアルヴィスは、ほっとして寝台の端に腰を下ろした。おろしたての寝具の香りがふわりと漂う。客間の香りだ。
 やるべきことは、沢山あった。
 この町へ戻って来た表向きの理由は、現クローナ当主に代わって建国祭に出席すること。――それには、彼が正式にクローナ家の次期当主として公認された"お披露目"の意味もある。だが、本当の目的は別なところにある。
 (クロン鉱石の流通経路…。もし、予想している通りの状態なら、早く手を打たないと大変なことになる)
荷物の中から取り出した地図を広げて、彼は思案する。既に十年前に国内に入り込んでいたそれは、今でもちょちょく各地の市場で押収されている。どこかから継続的に持ち込まれ、誰かが買い続けているからこそだ。しかし、それが誰によって何処から持ち込まれているのかは、十年を経た今もはっきりしていない。
 (ただの密輸組織や商人じゃない。この件に関わっているのは、大きな力を持つ誰か)
でなければ、ここまで完璧に隠し通せない。あるいは王宮内に内通者がいるのか。
 それを確かめるため、アルヴィスは自らこの町へ戻って来た。全てを疑うつもりで。



 日々は忙しく過ぎていった。
 王宮に戻ってきてからというもの、公式行事や謁見、連日のお茶会に夜会と続き、手が空いたのはそれからしばらく経った後のことだ。王宮づとめの役人たちはもちろんのこと、近隣の領地に住む貴族たちにまで会わねばならず、ややうんざりしてきたところだった。
 「流石に疲れたなぁ…。」
 「仕方ありません。皆、次期クローナ家当主に、今のうちに顔を売りたいのでしょう」
ティアーナは、直立不動で扉の前に立っている。「本日も、お会いしたいという者がいますが――どうしますか?」
 「断って。流石に今日は少し休みたい。ルディにも会いに行きたいし」
 「承知しました」
そう言うと、彼女は部屋の外に出て行った。ティアーナは護衛だけでなく、まるで秘書のような仕事もしてくれる。ほっとしてアルヴィスは窓の外に視線をやった。ルディの借りている青い壁の家はすぐそこだ。
 戻って来たティアーナと一緒にルディのもとを訪れると、彼は、寝台の上に座って本を広げていた。部屋一杯にハッカのような臭いが漂っている。たぶん、湿布だろう。
 「ルディ、調子はどう」
 「だいぶ良くなりましたよ、おかげさまで」
枯れ木のようなひょろりとした男はそう言って笑顔を見せたが、寝台の上で体勢を変えようとしたときに微かに顔をゆがめた。
 「ああ、情けない。これではメネリク様に言いつけられた仕事もこなせそうにない…」
 「大丈夫だよ、それは僕がやるから。」
 「仕事?」
後ろでティアーナが首を傾げる。
 「二つあってね。一つは花。先生が品種改良したエクルの花を、この町のどこか日当たりのいい場所に植えてきてほしいって言われてるんだ。この町でも越冬できるかどうか実験したいんだって」
 「はあ。…で、もう一つは」
 「下の町にある、黄金の樹の実生の株の試料が欲しいんだって。葉っぱと枝をいくつか手に入れられればいいかなと思ってる」
 「本当なら私が行くはずだったのですがねえ」
ルディは溜息をついた。「黄金の樹、見たかったな…」
 「ルディはまだしばらくこの町にいる予定だろ? 腰が治れば、あとで見に行く機会だってあるよ。それじゃ、花を植えてくるから」
 「申し訳ありません、お願いします。」
アルヴィスは、ルディの寝台の側の窓辺に置かれていた鉢植えを取り上げた。鉢の中には、良い香りのする白い花をたくさんつけた草が生えている。
 「これがエクル…ですか?」
 「うん、そう。先生が若い頃に見つけて名前をつけた新種らしい。確か、どこか西の方が原産で、この辺りだと冬が寒すぎて駄目らしい。」
外に出ると、彼は裏門のほうに向かって歩き出した。ティアーナが慌ててついてくる。
 「どこに行かれるんですか」
 「王宮の中だと草むしりされちゃいそうだから、植えるなら外がいいかなと思って。西の公園なら、人もあまり来ないし、日当たりもいいよね」
くすっと笑って、彼は後ろに視線をやる。「町の地図を見てきたんだ。子供の頃はあんまり町に出たことないから、ほとんど初めてなんだよね」
 「アル…。」
 「というわけで、今日は観光の日。たまにはいいよね」
広場へと続く道は、人で溢れかえっている。まるで市の開かれる日のクローナのようだな、と彼は思った。雑踏の中には様々な方言や言葉が飛び交い、両脇の建物は軒先を近づけてひしめき合っている。
 イヴァンと出会ったのは、その日の午後のことだ。
 そしてそれは、彼にとって忘れられない出会いとなった。



 町の本屋でルディの代わりに注文していた本を受け取った帰り道、アルヴィスは、朝までは無かった派手な馬車を王宮の裏門前に見つけた。
 「…これ何?」
 「スヴェイン殿下がお戻りなんですよ」
馬車の手入れをしていた厩番が答える。
 「スヴェイン様が?」
隣にいたティアーナの声が動揺するのが分かった。
 「ええ、もうじきお祭りだから戻られたんでしょう」
建国祭まではあと僅かだ。
 「ティア、会いに行ってきたら」
 「え?」
 「何か用があるんじゃないの」
 「い…いえ、私は特に。それはアルのほうでしょう。兄上にお会いしたいのでは」
アルヴィスは、ちょっと肩をすくめてて抱えている本に視線をやった。「先にこれを届けてからね。」
 ルディの腰は、王宮の専属医のお陰でもうずいぶん良くなってはいたが、まだ重たいものを持ち歩ける状態にはなかった。壊れ物でも扱うようにそろそろと部屋の中を移動するのがやっとだ。アルヴィスは青い家に向かうと、持って来た本を机の上に置いた。ルディは申し訳無さそうな顔をしている。
 「すいませんねえ…こんなことまでさせちゃって…」
 「いいんだ、用事でもなければ町に出られないから。」
それは本当だった。祭りを見るために国中から人が集まるこの時期は、王宮内での催し物も多い。アルヴィスも、そのうちの幾つかには半ば強制的に参加させられていた。
 王宮に戻り、渡り廊下を歩いていこうとしてとき、アルヴィスは、正面からぶらぶらとやってくる青年に気づいた。金髪に青い瞳。容姿は長兄のシグルズに瓜二つだが、場違いなほど飾り立てた派手な衣装に身を包んでいる。視線が合った瞬間、青年は一瞬驚いた顔になったが、すぐに満面の笑みになる。
 「見ぃつけた」
 「スヴェイン兄さ…うわっ?!」
つかつかと近づいてきたかと思ったら、いきなりアルヴィスの体を掴んで持ち上げた。宙に浮かされたアルヴィスは、目をしばたかせながら硬直している。
 「うーん、さすがにもう持ち上げられないかぁ」
 「…当たり前だよ、今幾つだと思ってるの」
 「はは、そっかぁ」
笑いながら、彼は弟を地面に降ろした。「おっきくなったなぁー」そう言いながら、頭をくしゃくしゃと撫でる。
 「わふん!」
足元で声がした。視線をやると、スヴェインのひらひらした衣装の裾に隠れるようにして、白黒の毛をもつ犬のような顔をした人間が敬礼していた。東の島嶼地域に住む、アジェンロゥと呼ばれる獣人。アルヴィスの背丈よりずっと小さいが、これでもれっきとした大人だ。
 「やあワンデル、相変わらずだね」
 「お久し振りなのです、アルヴィス様!」
にっこりした口元に、鋭い牙が見える。獣人の武器は、その瞬発力と牙と爪だ。申し訳のように腰に巻いたベルトに短剣を提げているが、それはあくまで格好だけ。短剣の先には、他の近衛騎士たちと同じ金色の房飾りがつけられている。
 「今はスヴェインの専属護衛?」
 「はいなのです。」
 「獣人は珍しがられるからな。宴会の人気者なんだぜ」
そう言ってスヴェインは陽気に笑う。「こいつとなら、女の子の取り合いにもならないしな」
 「スヴェイン様…。」
後ろでティアーナが呟く。
 「おっと、ティアもいたんだったな。その話はまた今度な、アル。お前もそろそろ女の子の口説き方は覚えといたほうがいいぜ」
片目をつぶってみせると、彼は手を振ってすたすたと歩き出した。後ろに、弾むような足取りのワンデルが続く。
 「…兄さん、ほんとに遊び歩いてるんだ」
 「ええ。それに手当たり次第、貴族の女性を口説くという話です」
ティアーナは渋い顔だ。「遊び人王子、なんて陰口を叩かれて。まるで…昔とは別人のようです」
 「……。」
確かに、昔のスヴェインとは全くの別人のようだ。だが、アルヴィスは知っている。スヴェインも、シグルズと同じだ。人前と、人のいない場所で見せる顔が違う。子供の頃からそうだった。そして今は、たぶん二人の演じる方向が全く逆なのだ。
 覚えているのは、ティアーナとスヴェインが中庭で仲良く剣術の稽古をしていたことだ。
 年が近かったのもあり、二人は子供の頃には仲が良かった。腕前はティアーナのほうが上で、スヴェインはいつも負かされては悔しがっていた。そして、ティアーナが帰ってしまったあと、一人でこっそり練習をしていた。
 負けず嫌いで、決して人前では苦労するところを見せたがらない。
 それが、アルヴィスの知っている兄、スヴェインの姿だった。
 (一体、何があったんだろう)
派手な衣装を着て、陽気に笑いながら気取った口調で話すスヴェインを遠目に眺めながら、アルヴィスは思った。常に上品に、誠実そうに振舞っているシグルズとは対照的だ。演技だと分かっているはずの両親も、何も言わない。二人とももう成人だからと、好きにさせているのかもしれなかった。ただ、アルヴィスには、二人が楽しんでそうしているようには全く見えなかった。それだけが気にかかっていた。
 「それで、今回はどちらへ行かれたんですか」
夕食の後に開かれた、来客を招いてのカクテルパーティーで、美しく着飾った一人の婦人が、猫なで声でスヴェインに尋ねている。
 「今回は海沿いを回ってきました。西のマイレ領から東のクラウゼ領まで。ネス港の魚はなかなか美味かった」
 「まぁ、それはよろしゅうございましたこと。どうです? 今度、我が領地にもいらしてくださいませんこと?」
 「それは是非に、アジズ子爵婦人。お美しい方の招待とあれば断るわけにはいきません故」
 「まぁお上手。うふふふ」
うんざりするようなお世辞とおべっかの世界。手にしていた飲み物のグラスを置いて、アルヴィスは、奥の座にいた父に近づいた。
 「僕はそろそろ戻ります。お酒の席にあまり長居しても」
 「おお、そうか。ではまたな」
 「はい」
彼は、ちらりと二人の兄たちのほうを見てから、広間を辞した。廊下に出ると、背後にはいつの間にかティアーナが付いて来ている。それが彼女の仕事なのだ。いちいち声をかけたりしななくても、護衛対象を見失ったりはしない。



 異変に気づいたのは、その後だった。
 部屋に戻った彼は、部屋の中が出て行くときとは違っているのを見とめた。
 「…誰か、机の上の掃除でもしたのかな」
 「えっ?」
後ろからティアーナが覗き込む。
 「それは無いはずです。この部屋には、召使いは入ってこないはずですよ」
 「でも、本の位置が変わってるんだ。それに、ペンがこんなところにある。出るときは、本の上に置いていったはずなのに」」
僅かな違いだが、それは確かなことだった。引き出しの中身も、棚に並べた本も、誰かがいじくって元に戻したようになっている。誰かが、何かを探したように見える。
 ティアーナは表情を変えた。
 「…無くなっているものは、ありますか?」
 「それはないね。大事な書類も引き出しの鍵つきのところに入れてあるし、鍵が壊された気配はないから見られてはいないだろう。ただ…」
彼はあごに手をやった。
 一体誰が、何の目的を持ってこの部屋を探したのだろう。
 「すぐに陛下にご報告を」
 「待って」
部屋を出て行こうとするティアーナを、彼は引き止めた。「このことは、誰にも言わないで」
 「しかし…」
 「いいんだ。今は少し考える時間が欲しい。今は報告しないでいてくれるかな」
強い口調に、彼女は渋々とうにずく。「…わかりました。」
それから、腰の剣に手をやりながら付け加える。「ご安心を。何かあった場合には、必ずお守りしますから。」
 「うん、ありがとう」
ティアーナが隣の部屋に去って行ったあと、アルヴィスは、それと分からないように荒らされた机の上に視線をやった。
 "学者の小路"と繋がる扉は外からは開かない。
 ここが家捜しされたということは、王宮の中に彼のしていることを探りたい誰かがいるこということ。――だが、クロン鉱石の流通経路を探っていることを知っているのは、彼の家族を除けば、近衛騎士たちを初めとする一部の国王の側近だけのはずだ。
 (その中に、内通者がいるっていうのか…?)
顔を上げると、ガラスに映った自分の瞳が見返してくる。慌てて彼はカーテンを閉めた。胸の奥で、心臓が大きく鼓動するのを感じる。
 (一体誰が――)
誰を信じて、誰を疑えばいいのか。
 ちらりと机の端の地図に視線をやった時、脳裏に浮かんだ疑惑に、彼は愕然となった。
 (まさか、そんなはずは)
もしも予想が当たっているならば、…ここにいる誰も、信用してはいけないことになる。

 味方はいない。
 いるとすれば、王宮の"外"にだけだ。

アルヴィスの脳裏に、昼間本屋ですれ違った、あの少年の姿が思い浮かんだ。ベオルフが楽しげに話していた、サーレ辺境伯の息子。名前を名乗ったにも関わらず、いまだに彼の正体に気づく気配すらない、ある意味では鈍感な、ある意味では世間知らずな少年。
 彼なら、間違いなくこの件とは無関係だ。
 そして、…きっと、頼めば力を貸してくれるに違いない。


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