<幕間>
〜レオン・ウィルスコット〜


 彼がサーレ領の領主クラヴィス・サーレの元に使用人として雇われて働き始めたのは、十歳になったばかりの頃だった。
 レオン・ウィルスコット。後に領主クラヴィス・サーレの副官として珍重されるに至る彼も、その時はまだ、学校で一通りの読み書きと計算を教わったばかりの少年だった。
 彼の家は、領主家の持ち物であるユラニアの森の入り口にあった。森を切り開いて作った空間に、十軒ばかりの家がひしめきあっているばかりの村。元々は森番の一家の住まいだった場所が、いつしか、領主家で使うための森の恵みを――すなわち、山菜や薬草、木の実などを定期的に採取する半使用人たちの集落へと変化していったのだ。薬草などは、街道沿いにある騎士団の駐屯所や関所にも送られていた。寛大なる領主は、それらを村人たちの収入源とすることを許した。森の恵みは本来は誰のものでもないから、と。
 サーレ領が他の領地とは少し違っていることを実感し始めたのは、父がまだ生きていた頃、行商にくっついて隣のマイレ領の市に出かけた頃だっただろうか。マイレ領の領主はサーレ領の領主と同じ「伯爵」という身分にあり、公には同位のはずだったが、なぜかマイレ領主の家臣たちは、サーレ領を下だと決め付けて横柄な態度をとった。
 「所詮は新興貴族」だと言われ、意味も分からず悔しくなった。誤魔化してもいない税を誤魔化したと疑われて腹が立った。
 けれどそれは、マイレ領の住人たちにしてみたところで同じようだった。領主の部下の騎士たちは目を光らせて市をくまなく見回り、少しでも怪しいところがあれば、強引に追加税を取り立てた。拒否しようものならぶたれて、引き立てられてゆくのがお決まりだった。そしてこれを、マイレ領の住民たちは諦めつつ受け入れているように見えた。
 「サーレの旦那様は、あんなことはしない」
父はいつもそう言っていた。
 「旦那様は偉いお方なんだ。いつもわしらを守ってくださる。だから、わしらもお応えせにゃあならんのだ…」
屋敷に上がることは、同年代の同郷の子供たちにとっての夢でもあった。サーレ伯爵家はお給料も待遇もよく、館の中の学校にも通いやすいと評判だったからだ。レオンが屋敷に雇われたのは、半ば運でもあった。だがそれは、彼の生涯を決定付けるものでもあった。
 屋敷に住み込みで働くことが決まった時、弟のルナールは、まだ三歳。だから、ルナールはレオンが森の村に暮らしていた頃を覚えていない。
 仕事は、最初は台所の手伝い、薪割り、水汲み。そのうち屋敷の中のことも覚え、掃除や屋敷の主人の小間使い、それに剣術の稽古もした。屋敷の警備は男性使用人たちの持ちまわりだったからは、剣術は必須だった――その頃は、領主クラヴィス自らが指導していた。
 サーレ家の「辺境伯」という称号は、そのまま、国境に領地を接しているという意味だ。王国の西の果て、西方を守る西方騎士団の最寄の駐屯地からでさえ二日も離れたこの場所では、辺境にあるがゆえに武装が必要なときもある。館には常に兵士が常駐しており、国境を守る関所の砦は、サーレ伯の雇った私兵が警備していた。
 年かさの訓練兵たちに混じって見よう見真似に剣を振りながら、レオンは、いつも雇い主である館の主人の背を眺めていた。大きく、力強い背中。何者にも負けないように見えた背中。その背は、祖父の言った「守ってくださる」という言葉を実感できる後姿だった。
 そう、領主クラヴィスは、どんな時にも弱さを見せなかった。

 ――奥方が、二人目の子のお産の最中に赤ん坊とともに命を落とした後でさえ。

 領地中が喪に伏したその時も、館の主人だけは葬儀のあともすぐに稽古場に戻って剣を振っていた。まるで、哀しみを忘れようとするかのように一心に剣を振り続けていた。その様子を側で、まだ何も理解していない跡継ぎの少年は、興味深そうな顔でじっと眺めていた。
 その少年が、クラヴィス・サーレのただ独りの嫡子として残された少年、イヴァンだった。



 イヴァンの世話役を命じられたのは、その直後のことだった。
 「今日からお前に、この子の世話を頼みたいのだ。何しろ元気だけは有り余っていてな、女どもでは体力がもたんという」
領主に呼び出されたレオンは、突然の命令に驚いて、しばらく口も利けなかった。
 「…なぜ私なんでしょうか」
 「同じ年頃の弟がいるから、扱いは馴れているだろう?」
クラヴィスは、こともなげにそう言って、足元に立っている少年の黄色い髪をくしゃくしゃとかき回した。
 「それに、年が近いほうがこいつも気が楽だろうからな。弟と思って良くしてやってくれ。いたずらをしたら容赦なくぶったたいて構わんぞ」
 「はあ…」
レオンは、いたずらっぽい大きな目をした元気な少年に視線をやった。年は、弟のルナールと同じくらい。あちこち駆けずりまわって付いたらしい膝の汚れが、召使いたちの苦労を物語っている。
 どう挨拶したものかと迷っていたとき、いきなり目の前に、小さな手が差し出された。
 「よろしくなレオン!」
気さくな言葉に、彼はうろたえた。
 「ええと…こちらこそ、よろしくお願いします」
赤い頬でにんまり笑った少年は、初めて対面したときから不思議と人を惹き付ける魅力に溢れていた。小さな手は暖かく、レオンの手の半分もないくせに、やたらと強く握り締めてきた。
 サーレ家の跡取りなのだから、と気を遣っていられたのは、最初の数日だけだった。
 間もなくレオンは、気の向いたままあちらこちらへと姿を消す幼い少年に振り回され、気を遣うどころか大声を上げて叱りつけるハメになった。毎日、朝食の後から日暮れに寝かしつけるまで付き合っているうちに、その少年は、もう一人の小さな弟になっていた。
 その頃から、レオンは時間を見つけては会計の勉強も始めた。剣術は学んだものの、騎士になる気はなかった。小さい頃から父の行商に付き合っていたから、金銭のやり取りはなんとなく分かる。屋敷に勤め続けるからには、何か仕事を覚えなくてはならない。考えた末のことだった。毎日、世話をしている少年を寝かしつけたあと、自分の部屋に戻って帳簿の写しを開くのが日課になっていた。



 ある日の夕暮れだった。
 夕食の席に姿が見えないイヴァンを探して、レオンは森に来ていた。このところ、少年はしょっちゅう館を抜け出しては、近くの村や森に出かけていた。森の中には、領主家の別宅である館もあったから、勝手にそちらに行って泊まることもあったのだ。父クラヴィスと喧嘩したり、叱られたりした時には特にそうだった。
 探すのはそう難しくない。館の外の牧草地には、いつだって目撃者がいる。少年がどちらへ向かったかは、誰かに聞いてみればすぐ分かる。イヴァンは、まだ馬には乗れない。馬に乗って追えば、すぐに捕まえられる。
 森に入り、彼は、自分の家のある村の前に馬を止めた。ちょうど夕食の時間帯で、立ち並ぶ小さな家々からは細い煙が立ち上っている。ここのところイヴァンがこの村にしょっちゅう来ているのは知っている。
 家の扉を開くと、すぐ目の前の台所で食卓の上に身を乗り出して顔を突き合わせていた少年たちが振り返った。
 「あ、お帰り兄ちゃん!」
 「げ、レオン」
 「…やっぱりここだったんですね」
レオンは溜息をつき、出口を塞ぐように扉の前に立った。「どうして館を出る時に一言言ってくれないんです。」
 「だって、お前ずーっとついてくるじゃん」
 「仕方ないでしょう、旦那様にあなたのお目付け役をしろと言われてるんですから」
 「お前のはお目付けっていうか、"おもり"だよ! 俺もう子供じゃないんだぞ」
部屋の奥で、かまどの上の鍋を見ているレオンの母が笑いを堪えている。イヴァンは、つい先日ようやく六歳の誕生日を迎えたばかりなのだ。
 「帰りましょう。もう日も暮れますし、夕食が冷めてしまいますよ」
 「やだ。とうさんが謝るまで帰らない」
 「また喧嘩したんですか?」
レオンの母が優しい声で尋ねる。
 「喧嘩じゃないや。とうさんが悪い」
そう言って、少年はぷいとそっぽを向いてしまう。レオンは頭をかいた。
 「旦那様に聞きましたよ。剣が欲しいと仰ったそうですが」
 「そう。俺だってもう剣くらい持てるよ!」
 「…まだ早いですよ。他の子たちだって、十歳くらいからなんです。それより貴方は、読み書きと計算の授業が先」
 「読み書きならもう出来るよっ、ほら!」
ルナールが、二人で額を付きあわせていた紙を取り上げて、誇らしげに兄に掲げて見せる。
 「ねっ?」
そこには、たどたどしい字で、二人の名前が書かれている。レオンは眉を寄せた。
 「…綴りが間違っています。イヴァン様は文字の順番が違いますし、ルナールはそれじゃルノールだ」
 「えーっ?」
 「二人とも、もう一回勉強し直し! そこに座れ。正しい綴りの書き取り百回。それが終わるまでは無しだ」
 「えーっ!」
少年たちが悲鳴を上げ、泣きそうな顔でレオンを見るが、彼は石のような顔をして一歩たりとも譲る気は無いというところを見せ付けていた。
 その頃からイヴァンは、座学というものが苦手だった。
 やろうと思えば出来る…ようなのだが、それよりも先にやりたいことがあって、思いつくとすぐにふらりと出て行ってしまう。そして、気が付けば厩や、牧場や、どこかの村の炉辺でそこの住人たちと仲良くなって笑っている。弟のルナールと友達になったのだって、いつの間にか、だった。そうして最近では、当たり前のように家に上がりこんでは、農家の少年たちのようにじゃれあっている。
 彼が仕える領主の跡取り息子は、館だけでなく、領内のどこへ行っても好かれた。それは身分のせいではない。どうしてなのか良く分からない。同じくらいの年の子供たちも、大人たちも、牛や馬でさえ、彼には警戒心を抱かなかった。
 けれどレオンには、それは好ましくないことのように思われた。誰一人、領主クラヴィスに向けるような尊敬を抱かず、まるで自分の子のように気安く接している。泥だらけになって森を駆け回り、羊飼いの少年たちと軽口を叩きうのは、伯爵家の子息には相応しくない。サーレ領り跡取りに必要なことは、牛のお産の手伝い方ではなく、読み書きや計算のはずだ。
 (このままでは、イヴァン様はただの農夫の息子になってしまう
日々、焦りは募るばかりだった。
 (旦那様から言いつけられた役目が果たせない。あの方には立派なサーレ領り跡継ぎになってもらわないといけないのに…)
そんな彼の思いを気にも留めず、少年は、気が付いたときにはつむじ風のようにどこかへ行ってしまう。どうすればいいのかと思いつめていた、そんなある日のことだった。
 「レオン」
いつものようにイヴァンの部屋のある塔へ向かおうとしていたレオンは、領主クラヴィスに呼び止められた。
 「何でしょうか?」
いつになく険しい表情のクラヴィスに、レオンの言葉も自然と硬くなる。彼はちらりとクラヴィスの腰に下げている剣に目をやった。
 「さっき早馬で知らせが来た。街道で問題が起きて、賊がこのへんに逃げこんでいるかもしれないらしい。今日は絶対にイヴァンを外へ出すな」 
 「…分かりました。旦那様はどうされるんですか」
 「これから国境の関所へ行く。他の者には、近隣の村を回らせることにした。ユラニアの森にも伝令は走らせている。案ずるな」
それだけ言って、領主は厩へと続く廊下に向かって歩き出す。レオンは、拳を握り締めてその背中を見送った。
 ――嫌な予感がする。
 なぜか、去って行くその背が、いつもとは違って見えた。
 (ついていきたいけど…でも)
彼は腰の剣に手をやる。ひととおり使い方は覚えたものの、実戦で役に立つかどうかは怪しい。足手まといが関の山だ。それに今は、言いつけられた大事な仕事がある。
 彼は踵を返すと、塔へと続く階段を登り始めた。いつも目を離した隙に逃げられてしまうが、今日だけは何としても逃がさないようにしなければ。



 爆発音が響いて、――悪夢のような炎が森を包むのを見た。



 それは夜半を過ぎた頃のことだった。外に出たいとぐずるイヴァンを何とか一日館に留めおくことに成功した疲れから深く眠り込んでいたレオンは、目を覚ますのが遅れた。目を覚まして何か起きているのに気づいた時にはもう、館じゅう蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
 「…一体、何が」
呆然と二階の窓から燃え盛る炎に赤く染まる夜空を見つめていたレオンは、我に返って周囲を見回した。
 「旦那様は?」
 「まだお戻りじゃないです」
取り乱した厩番が答える。
 「きっと火を見て現場に向かわれたんだ。助けに行かないと!」
 「そうだ。火を消すんだ。皆、桶と斧を持て!」
 「一番近い水場は?」
 「森の中に村があるだろ、そこの井戸だよ! だがもう火がきてるかもしれん。斧で燃える前の木を切ったほうが早い!」
人々が動き出す。男たちは斧や剣を取りに行く。馬が引き出され、それでも足りない者は徒歩で森に向かって走って行く。レオンは、波打つ心臓を胸の上から押さえた。
 (大丈夫…旦那様が行ったんなら、村は…)
今すぐに駆けつけたい気持ちを抑えて、彼は館の中へと戻った。塔の階段を駆け上り、最上階の扉を開こうとした時、同時に中から扉が開いて、飛び出してきた少年がレオンの胸の中に抱きとめられる。
 「…レオン!」
少年は上気した頬で彼を見上げる。
 「何が起きたんだ? 火事?」
 「…分かりません。私は、旦那様から、あなたを守っているようにと言われて」
 「守る? 何だよそれ。俺も何か手伝――」
少年が身を捩じらせ、腕のすきまから抜け出そうとする。かっとなって、レオンは怒鳴った。
 「いけません!」
 (あなたに何が出来るんですか)
 「嫌だよ、なんで? 森が燃えてるじゃないか! 皆が…」
 「お願いですから!」
 (どうして言うことを聞いてくれないんですか? いつもいつも)
殴りつけたいほどの衝動にかられながら、彼は実際には、イヴァンの体を力いっぱい抱きしめていた。
 「…お願いですから、これ以上、手を…煩わせないで下さい」
 (震えがとまらない)
どのくらい、そうしていただろう。そっと少年の両手が頬に触れたのに気づいて、彼は顔を上げた。目の前に少年の微笑む顔があった。
 「ごめんな。俺、何も出来なくて」
両手でレオンの顔を挟んだまま、少年は真顔に戻って言った。
 「俺、頑張って大きくなる。早く大きくなって、お前を守ってやるから」
 「……な、」
まだ年端もいかない少年にそんなことを言われた衝撃と同時に、彼は、震えが止まっていることに気が付いた。
 「何を言ってるんです。あなたは、――」
 「約束だからな。」

 『旦那様は偉いお方なんだ。いつもわしらを守ってくださる。』

父の言葉が蘇ったとたん、張り詰めていた気持ちが解けていくのを感じた。
 そうだった。
 父や大人たちは、そして自分も、良き領主クラヴィスが領民たちを守ってくれると知っていたから仕えた。貴族だからでも、伯爵だからでもなく。
 (あなたは…サーレ伯爵領を継ぐお方だ)
守られるものではなく、守るものなのだ。
 レオンは零れかけた涙を抑えて、少年の肩を掴んで乱暴に体を部屋のほうに向けさせた。
 「そのお気持ちだけいただいておきます。さあ、あとはお父上や大人たちに任せて寝ててください!」
 「こんな時に眠れないよ。レオン、一緒にいてくれるよね」
 「…いますよ。あなたが飛び出さないように朝まで見張ってますから」
 「そんなことしないよ。」
寝台に戻って毛布に包まりながら、少年は窓のほうに視線をやった。
 「ルナール、だいじょうぶかなあ」
 「……。」
空を赤く焦がした火の勢いは、まだ衰えているようには見えない。押し寄せてくる予感を振り払いながら、レオンはわざと何でもないように振舞った。 
 「朝になれば皆戻ってきますよきっと。ただの火事ですから…」
けれど、そうではないことは彼が一番よく知っていた。街道で起きたという問題と、今夜の火事が無関係なはずはないと。



 最悪の事態が明らかになるのは夜が明けてから。
 村から助け出された生存者は少なく、僅かに五名――三十名以上が炎に中に消えた。
 多くの怪我人が館に運び込まれ、そしてその中には、重い火傷と骨折を負った領主クラヴィスの姿もあった。



 季節は巡り、十年の時が流れた。
 今ではレオンも青年となり、領主の副官として会計の役目も負うようになっていた。"お目付け役"の仕事は半分だけ。イヴァンの振る舞いは相変わらずだったが、今はもうレオンも、かつてのようにそれを気にしなくなっていた。
 村とともに両親を亡くし、魂が抜けたようになっていたルナールに笑顔を取り戻してくれたのはイヴァンだった。身寄りや親戚を亡くした人々のことを誰よりも気にかけていたのも、村の跡地に作られた墓地に花を手向けに行っていることも知っている。
 勉強が苦手なら、自分が補佐をすればいい。自分の足りないぶんは、館にいる誰かしらが助けてくれるだろう。ただ、館の主だけはそれを認めようとしないけれど。
 「おーい、レオン!」
城壁の上から見下ろすと、今やすっかり大きくなった少年が、お気に入りの馬の背から手を振ってどこかへ掛けてくところだ。
 「またサボったんですか? 旦那様に叱られますよ!」
 「今日はちゃんと終わらせたよー」
声が遠ざかってゆく。まだ太陽は高く、昼食が終わったばかりの頃合だ。
 「…このぶんだと、午前の分だけですかね」
小さく呟いて、彼は苦笑する。戻ってきたら、午後の分は宿題としてどっさり積み上げねばならない。きっと彼は今日も文句を言いながら嫌々宿題をして、レオンに文句を言うのだろう。けれど最後には、いつものあの笑顔を見せてくれるはずだ。かつてのクラヴィス・サーレの背中とは違った意味で見る者を従える、不思議な魅力のある笑顔を。


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